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お山にお宮がたちました

心の中心に神様を置くということ

特定の宗教に属さず
目にみえない大いなる存在を心に中心に置くことは
なかなか出来ることではないかもしれません。

日々の生活には誘惑も沢山あり
人の道からそれることは容易であって
自由奔放に自分勝手に
自分以外の人の痛みなどどうでも良いと
楽しく暮らしていくことも出来ますからね。

私は特定の宗教には属していませんが、
朝起きてから夜寝るまで
その目にみえない大いなる存在を
心の中心に置いて生活しようと心掛けています。

そうする事で、
心が痛くて苦しいと感じる時でも
試練が来たと思う時でも
心の中心にあるであろう、その光を信じることで
これは神様試験だから頑張ろうと
切り替えることが出来ますから。

信仰とは目にみえない大いなる存在を
とことん信じきることかもしれません。
信じて大いなる根源と一体になるまで
自分の霊性を高めていく事を
信仰と思うことにします。

何かあった時だけ神様にすがるのではなく
穏やかな日常でも神様を忘れることなく
今与えられたもので有難うございますと
不平不満を言わず、毒を吐かず、
辛く苦しい時は、そう来たかと乗り越えて
何があっても寿命までは生きていかねばと思います。

仰いで天に愧じず、俯して地に怍じずは
なかなか辿り着くには難しい境地ではありますが
そこまで行きつけば、きっといかなる時も
心は穏やかで安らかになるんだろうと
そんなことをふっと思いました。




コメント一覧

@tokinosekimori-kitaiwahara さん
こんばんは。
お優しいコメントありがとうございます。
思い立ったようにブログを書き始めて、2年が過ぎ、最近は心に浮かんだ取り止めもない事を、時々つぶやいたりしています。
色々あって、ここ最近、信仰とは何なんだろうと深く考えていました。
自分の汚れや重い思いは、何らかの方法で掃除しないといけないと私も思ってます。
汚れが鏡で見えるようになると、皆んな優しくなるのかもしれませんね。
そうなっても恥ずかしくない自分でいたいなと思います。
コメントありがとうございました。
鬼雷さん

こんばんは。
思いがけないことが起こっても、これは大いなる仕組みの1ページを通過しており、全てが良くなる方向に向かうための試練だと、難解な神様試験を乗り越えていかないといけないのですね。
人が人を思いやる弥勒の世、そんな理想郷を、出来ることなら私も生きてるうちにみてみたいです。
弥勒の世になり、生きとし生けるものが幸せを感じ、彷徨う御霊全てが浄化され、生きにくいと感じる人が居なくなると良いなと思います。
コメントありがとうございました!
tokinosekimori-kitaiwahara
今日のブログはすごいですね。
わたしも長年信仰していますが、中心に神を置くなど、考えもしませんでした。
でも、そのためには、毎日自分のよごれをおとしていかないとだめなんだと思うのですが(すぐよごれますから)、最近見つけたことがあります。
なぜ見つけたかといいますと、ブログを始めて、わかりました。
私にとって、文章を書くことがそのことだったんですね。
長々と失礼しました。
鬼雷
こんばんはです。

大いなる存在を感じても反天するが、人たる、種でもあります。

それは、神様がわざわざ、その種子を蒔いているからでもあります。

善悪相克して、御魂磨きとされる、一面を神様はお造りなっていると考えます。

人が他人を、思いやる、弥勒の世の到来は、神の試験をやり遂げねば、永遠に訪れる事はありません。

神は常に、切磋琢磨を臨み、善悪含む人なる種には、いささか、難解でもありますが。
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