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お山にお宮がたちました

お山の神様と神社仏閣めぐり

人生山あり谷あり 14.怒り

2022-02-24 05:18:00 | 脳脊髄液減少症
事故直後、加害者からの謝罪は全く無かったです。
それを警察に酷く怒られたようで、悪質だとされ困ったのか、事故から2.3ヶ月後に連絡が来て、謝りたいと言って来ました。
 
私も、最初は病名もなかったし、体調は悪いけど、そのうち治るだろうし、加害者もわざとではないだろうから、謝ってもらわなくてもいいやと思っていました。

暫くして、加害者からはじめて電話がかかって来ました。
家に来るというので、わかりましたと言って迎えました。
深々頭を下げて謝ってくれたのですが、警察に謝ってない事を怒られて免停になると言われたと言います。
今まで謝らなくて本当に申し訳なかったと頭を下げます。
そして、免停になると配達の仕事があり、仕事が出来なくなるとたちまち困るから、言えた義理ではないが嘆願書を書いてほしいと、正座をして頭を下げてお願いされました。

元々、加害者に怒りの感情があったわけではなく、自分の体調が悪いからといって、加害者の生活ができなくなるのは申し訳ないと思ったのと、目の前で頭を下げられると何だか可哀想に思って、人好しもここまで来れば馬鹿だと父からは言われましたけど、嘆願書を書いてあげることにしました。

それが、良くなるどころか落ちるところまで落ちて、命さながら東京に行き、自費治療を受けることになろうとは、嘆願書を書いてあげた時は思ってもなかったのです。

東京での静養を経て、3ヶ月後に帰って来て、せめて、貴方の運転で何が起こったのかを知ってもらいたいと、本当にそれだけの気持ちで、加害者に電話をかけました。
7月と10月に入院し11月に高知に帰り、その年の暮れのことだったと思います。

携帯に電話をして、事故で何が起こったのかを聞いてほしいと私は加害者に話しました。
怒りは無く物静かに言ったと思います。

そしたら、若いお兄ちゃんは嘆願書を頼んできた態度と全然違っていて

えっ、年内ですか?忙しいから無理です!

と言って、プチっと電話を切られてしまいました。
その後、相手の保険会社から電話があり、加害者は貴方と金輪際会わないと言っている。。。
と告げられました。

最悪期は脱したものの、体調はまだまだでした。
そんな中、せめてこの出来事のかけらでも知ってもらいたいと思っただけなのに、理不尽な対応に、悔しさと哀しさから込み上げる怒りで自分自身が燃え尽きてしまいそうでした。
空虚感と、こんな人に嘆願書を書いてあげた自分の馬鹿さ加減と、自分の身体に残る残存の苦しみに、中から込み上げる怒りの炎が、物凄い勢いで湧き上がってきました

逃げることはできない身体の苦しみに、
ここまで怒りに震えるほど、加害者を怒れる自分がいて、
身体の苦しみと、怒りの炎の両方は、私をさらに苦しめ、
そして、もう耐えられないと思いました。

怒りのエネルギーは心身の消耗が凄いのです。
身体が辛い、心が辛い、こんなの無理。。。

そんな時、私の中のもう一人の私が、
もうやめなさい。。。
両方は無理だから、ひとつにしなさい。。。
と怒ってる私に、怒りを手放すように諭しました。

逃げられない身体の苦しみを選択する以外に方法はなく
勝手に込み上げてくる怒りの感情を、
もう一人の私が支配して、
私の外の場所に置く努力をさせられたような、
そんな感じがしました。


続く



人生山あり谷あり 13.竪山勲さんとの出逢い

2022-02-23 05:38:00 | 脳脊髄液減少症
脳脊髄液減少症という病名を頂き、これで治療も安心して受けられると、何も知らない私は思っていました。

だけど、この病は保険会社に雇われた医師が、交通事故の衝撃で髄液が漏れ出るといったことはあり得ないとの書籍を出していたことにより、保険適用もされておらず、殆どのお医者さんから、そんな病はない、そんな病だという病人はおかしな人といった感じの扱いでした。

一回の治療が30万円。私の場合、交通費も入れて一回の入院で50万円弱かかりました。
それが全て自費診療。
一回で良くなる人は少なくて、2回から3回繰り返しブラッドパッチをしなければならず、私の知る人は7回繰り返したという人もいました。

私は脊髄に針を刺す治療が痛すぎて、あと少し怖かったこともあり、回復を感じていたから、2回でこの治療は終了し、あとは自分の力を信じることにしました。

そんなこんなで、患者の置かれた状況は可哀想なもので、お金が無ければ助からないなんて酷いと、この病気の悲惨な状況を改善する為に、ある患者会が集めていた署名活動に協力することにしました。

自分が辛い悲しいを知ってもらいたいのではなく、この病気を知るだけでも、肉体的、精神的、経済的に今後助かる人が増えるかもしれないとの思いからの協力でした。
有難いことに、友人、親戚、近所の方など色んな方が協力してくれました。

その集めた署名を、国に提出する際に、ハンセン病元患者で国賠訴訟原告団の最初の13人のお一人である竪山勲さんが協力してくださる事になり、そのご縁で知り合うことができました。

竪山さんと何度が電話でお話しするうちに、私の事を気にかけてくださるようになり、体調が悪く、ダウンしていた時に、私を喜ばせようと、お忙しい中、鹿児島から高知に車で来てくれたりしました。

どこか芯のとおった凄みがある方なのですが、本当に気さくでお優しくて、人の為に真心で行動する、全く我欲のないその姿に、この方は生き神様だと思いました。

その頃、何もできない私は実家でお世話になっていて、遠方から来てくださったので、実家の2階が空いてるから泊まっていってくださいと言ったのですが、忙しいから泊まれないとその日に帰られました。

後に、自分はハンセン病で隔離されてた身だからそんなことはできないと遠慮した、でも、その泊まっていってくださいの言葉がどれだけ嬉しかったか。。
と仰ってくれて、本当にお忙しいから帰られたと思っていたのに、そんな事思われていたのかとびっくりしました。
ハンセン病元患者の方を差別するような気持ちは、自分の中に微塵もありません。
ただ、国が取っていたこんな酷い隔離政策を私は知らなかったのです。

母と同じ歳生まれの竪山さんの事を、私は心の父だと思っています。
私たち双子の事を娘と思っていると言ってくださり有難いです。
隔離なんかされなければ子供くらい持てただろうに。。。と仰ってたのを覚えています。

塀の中で外から見えないようにされ、人権を奪われ、子供をつくって育てることも許されなかった元患者さんたち。
竪山さんは13歳で隔離され40年塀の中で、生き延びてこられました。
その、理不尽極まりない人生被害を受け、それすらも今となっては面白い人生を歩んだと言う心の父を、尊敬しています。

その竪山さんの持つ、国との大きなパイプのお陰で、脳脊髄液減少症患者さんとその家族が集めた10万筆を超える保険適用を求める署名を国に提出することができました。

当時はNHK19時のニュースとかでも取り上げられました。

あれから10年以上たって、昔よりは認知され理解も進んでいるようですが、まだまだみたいな感もあり、こういう利害が絡む病への対応は難しいですね。

私も元気になって、離れていた部分もあって、喉元過ぎたら熱さ忘れる自分を反省することもあります。


続く





人生山あり谷あり 12.手紙

2022-02-22 05:55:00 | 脳脊髄液減少症
色んな人から、お電話をいただいたりもしたのですが、その当時は頭に響く音が、処理しきれなくて気持ち悪く、近しい人以外と話すのを避けていました。
早口で話されると頭がついていけなくて、音に耐えられないのです。

そんな時、2通手紙が姉の家に届きました。

1通目は親友から。

しんどいのに気付いてあげられなくてごめんね。
本棚から一冊の本が不思議と落ちていたので、手にしたら、柳澤桂子さんの本やったよ。
長年の闘病に苦しまれながらも人生を達観されたような方で、素晴らしい小説を書いている方です。
その方の病気が、何十年も苦しんだ末に、やっと近年わかってね、その病名が〇〇(私)と同じ病名やったがね。
柳澤桂子さんが苦しんでいることを知っていたから、驚いて、神様にみせられたと思ったよ。
そんなに、しんどかったのに、何にもわかってあげられなくてごめんね。
自分を信じて。。。

そう書いていました。
お互い生活があるから、親友とはいえそんなに会ってなかったのに、自分のことのように心配してくれる親友の手紙に涙しました。
有り難かったです。

もう1通は従姉妹から。

今年亡くなった悟くんの奥さんで、お山の神様の麓の出身です。

優しく、面白い文面に
こんな時は焦りなよ。。
亀みたいにコチコチいこうみたいなことが書かれてあって

   ニコ
  ニコニコ
 ニコニコニコ
ニコニコニコニコ
 ニコニコニコ
  ニコニコ
   ニコ

と文面とは違う色で、便箋いっぱいに
( ◠‿◠ )←こんな絵と
カタカナで書いたニコニコ
を送ってくれました。

こっちはもう泣き笑いでしたね。
悟くんと従姉妹は、私を見ないと安心できないとか言って、愛知から関東まで車でお見舞いにも来てくれました。

悟くんは亡くなったけど、悟くんのニコニコ顔しか思い出せなくて、従姉妹も寂しくなったと思います。
人に愛を与えられる人って素晴らしいなと、心から思いました。


続く


人生山あり谷あり 11.ハンドパワー

2022-02-21 06:17:00 | 脳脊髄液減少症
退院後も暫くは辛い日々でしたね。
回復しているのか、悪化しているのかわからなくて、充電が切れかけ状態でした。

そんな時、無料遠隔ヒーリングを紹介され、姉が予約をしてくれました。
こうなったら何でもすると思ってました。
どこに頼んだのかも今となっては覚えてないのですが、
○月○日○時から遠隔からヒーリングをしますので、その時間は横になっていてくださいと連絡が来て、言われたようにしました。
お金は一切支払ってません。何処の誰がこのような事をしてくださってるのかも知らなくて、お礼も言えてないのですが本当に無料でした。

その言われた時間になり、私の横で、姉も一緒に上向きになって横になってくれました。
手を繋ごうと姉がいうので、手を繋いで目を瞑りました。

手を繋いだまま横になっていると、姉の手から私の手にピリピリと電流が流れ始めました。
姉のもう片方の手は、上に上げて、天からエネルギーを受けるようにしていたと思います。

何か電流が流れてるというと姉もわかると言います。
手から流れる軽いピリピリが、ビリビリと強い電流に変わり、そのビリビリが身体中に流れ始めて、それがとてつもなく多量の電流に変わっていき、あまりの電流の量に、このままでは感電してどうにかなるのではないかと思ったのですが、とても気持ちが良かったのを覚えています。

途中で、姉の手が離れてからも、暫く電流は体内をグルグル流れていました。
一人で電流に満たされていた時に、母がそっと、横たわる私をみたようですが、頚椎がえら呼吸のように脈打っていて、波打つ首に大丈夫かびっくりしたと言います。

その時は、部屋中に電流が流れていたようです。
気持ちよく電流に満たされていると感じていた時、母が部屋に入ってきたようですが、ビリっと飛び上がるくらいの静電気を感じ驚いたと言います。
私は、目を瞑ってましたけど、蜃気楼か陽炎の中にふわっと横たわっている感じがして、とても気持ち良かったのを覚えています。
何かしら眼にみえない力に治療してもらった感じがしました。

天から頂き、姉の手から私に流れた電流。
充電3%くらいで壊れる寸前だった私は、姉に急速充電をしてもらって、姉の手から流れてくる電流に助けて貰いました。
姉は私にパワーを送って、何も出来ないくらいぐったりしたというので、自分の顔を分け与えたアンパンまん状態だったのかもしれません。本当に感謝ですね。

その頃、身体を金の輪っかがくぐり抜ける感覚があったり、目にみえない力に守られ、完治には程遠いものの、気がつけば回復していると実感できる状態にまでなっていました。

私が寝ている部屋に、姉がゆりの花を買って来てくれました。その一輪のゆりの花が綺麗で、こんなに花が綺麗だったとはじめて知りました。
何も求めず、ただ柔らかい優しさを与える花に、心身が癒されました。
そして今、我が家には沢山の植物があります。
頂いた胡蝶蘭は毎年花を咲かせてくれます。
花びら一枚、人間はつくることは出来ないんですよね。
草木花全て神がつくられたのだと、日常の忙しさから離れてはじめて、気付くことができました。

私は、身の回りに溢れていた神の恵みに少しずつ気付きながら、薄皮を剥ぐように、ゆっくりゆっくり階段を上がり始めました。


続く



人生山あり谷あり 10.治っても治らなくても

2022-02-20 05:13:00 | 脳脊髄液減少症
心ある医師に巡り会えて、私は治っても、治らなくても、悪化しても、この先生に感謝しようと心から思いました。

今はその病院で脳外科部長をされ、学会でもこの病気の発表をしたりと活躍されているようです。
私がその後治って、社会復帰をし、独立し頑張って自営業を営んでいる事をとても喜んでくれています。

この病気は治っていく過程も大変でした。
退院しても、高知へ帰る力が無くて、3ヶ月姉の家でお世話になる事になりました。
落ちてしまった体力もさる事ながら、身体に起こる症状も凄まじかったです。

干上がって傷だらけになった脳は髄液が少しずつ満たされ始めたのか、まさに傷口に塩を塗られるように痛く、余りの痛さに自然と涙がこぼれます。

因幡の白兎が皮を剥がされ、意地悪をされ塩水を塗られた感じを想像しました。

頭は痛くて熱を持ち熱くて沸騰しているのに、足は氷のように冷たくて、全身が痛く毛布すら身体に当たるのが怖かったのです。

今となっては、どんなに痛かったのか、痛みそのものはすっかり忘れてしまったけど、あの時の感情は思い出すことができます。

余りの苦しみに、私は悪化の10%に入ってしまったのかも知れないと思ったりもしました。

姉も私をみているのが辛くて、泣いてたみたいですね。SOSを高知から呼び、次々と高知から家族がやって来ました。
私は横になって2週間は動けませんでした。

やって来た母は、泣いてる私に、笑えと言います。
笑えるか!と思ったのですが、もの凄く可笑しな出来事があったと話して大笑いするのです。
その話のアホさ加減に、笑えるか!と思ってた私もあまりに可笑しくて笑ってしまいました。

暫くの安静期間を経て、リハビリと言って家の周りを散歩に連れてってくれたのですが、少し歩いたらもう無理と言って座り込む私に、80歳のお婆さんより弱ったねと母は言いました。
あの頃は、どうしようもなく狭まってしまった行動する力に、私自身辛過ぎて、全身で哀しみを抱えていた気がします。

そして、
何にも出来んなってもかまん。
ご飯食べて息して笑いよってくれたらそれでえいき。。。
と母は言いました。

夫は深々と姉に頭を下げて帰ったと言います。
あの時は、自分の無力さに打ちひしがれたと話してくれました。
娘の参観日に私の代理で行った母は、娘の担任の先生の前で、私の話をして泣いていたと後に先生から聞きました。

両親が氏神様に、お百度参りではなく百日詣りをしてくれたのもその頃です。

家族はそれぞれ、家族らしい愛で、私を心底心配し、応援してくれたんだと思います。


続く