goo blog サービス終了のお知らせ 

学びつづけて

歴史がゆっくり大きく動いています。学び続けて50年。日々新鮮に感じたことを「徒然なるままに」書き続けます。

中村文則著「B」、「A」を読む

2020-08-14 15:53:50 | 日記
「現実にマズいと感じ、この辺で止めておかないと大変な事になる思って言わないのは、ビビって言わないということ。それは読者への裏切り。そんなヤツの書いた本、面白いのかと思う」とジャーナリスト青木理との対談で語っていた作家中村正則氏。1977年生まれ43歳。短編集「A」(河出書房)の慰安婦をテーマにした作品「B」、南京大虐殺を「A」を読む。戦争で日本人が犯した加害のありさまを正面から告発する。見事だと思う。

「戦前の朝日新聞に汚された名誉を、現在の朝日新聞で回復させてほしい」「治安維持法 なぜ父が 逮捕の真相」

2018-11-13 22:08:32 | 日記
「戦前の朝日新聞に汚された名誉を、現在の朝日新聞で回復させてほしい」
 11月13日「朝日」(大阪版)26面一面を使って、戦前の治安維持法被害者家族からの申し出に応える特集「治安維持法 なぜ父が 逮捕の真相」が組まれている。「治安維持法は共産党をつぶすという目的を達した後も、戦争に喜んで協力する人間への改造が狙いだったからその拷問は陰惨度を深めた。拷問などによる死者514人、全国民を抑圧・統制する戦時治安体制の完成」を、「警察・検察・裁判官による法の乱用を批判するどころか、被害者を撃ったのが当時の報道だった」と「朝日新聞」は権力と一体に暗黒政治の旗を振ったことを振り返っている。戦後治安維持法が失効して73年経過した。民主的な戦後社会への出発点、その原点をしっかり踏みしめなければならない。政府はいまだに「昨年の国会で金田勝年法相(当時)は治安維持法について「適法に制定」「刑の執行も適法」と答え、被害の救済も名誉の回復も拒んでいる。日本政府は被害者家族へ心からの謝罪と責任と追求、被害者への補償を終えるまでこれからも追求され続けられるだろう。とりわけ治安維持法被害者とその家族は絶対に忘れない。
 1910年日本が植民地にした朝鮮でも特高の網の目がつくられ独立をもとめる朝鮮人への弾圧、拷問は日本をはるかに上回る規模で行なわれた。日本は朝鮮の特高を同じ朝鮮人にも担わせ民族を分断させた。200万人を超える朝鮮人が立ちあがった三・一独立運動では3万を超える朝鮮人が逮捕殺害された。日本政府は戦後まったく謝罪も責任もとろうとしていない。朝鮮であろうと日本であろうと治安維持法の被害者とその家族は解決するまで事実の究明、責任と謝罪、賠償を追求しつづけるであろう。

『奪われし野にも春は来るのか』から100年ようやく朝鮮半島に春が来ようと

2018-11-11 21:42:05 | 日記
 生野コリアタウンすぐ横にある御幸森小学校体育で開かれた「第34回ワンコリアフェスティバル」に行きました。昨日行った李政美ライブ会場の近くでした。「生野コリアタウン」も初めて行きました。ものすごい買い物客で高校生・中学生がいっぱいでした。フェスティバルで李政美は出演者の一番はじめに、三曲「京成線」「奪われし野にも春は来るのか」「イムジン河」を歌いました。すばらしい声量で心をこめて。「今年の春も私の両親のふるさと済州島に行き、4・3事件慰霊式前夜祭でも『イムジン河』を歌いました。文在寅さんが追悼の辞の一番最初に『今済州に春が来ています』と言ったんです。それを聞いた会場の何千人もの人がみんな泣きました。1920年代の李相和の詩『奪われし野にも春は来るのか』から100年たってようやく朝鮮半島に春が来ようとしています。終戦までもう一歩、統一までは道のりは永いかもしれません。一歩一歩進んでいったらいいなと思います」と語って「イムジン河」を最後に歌いました。李政美さんの歌を聴いて会場を出て、地下鉄玉出駅まで歩き、寝屋川市駅から萱島まで歩きました。

「家(チベ)の歴史を書く」を読んで

2018-11-07 16:40:45 | 日記
 井上吉郎氏のFB10/30読書雑記に紹介されていた「家(チベ)の歴史を書く」を読んだ。
 済州島出身の父と日本人の母との間に生まれた著者が「私の家族は、いつどうやって、なぜ日本に来たのだろう」「自分がなぜ日本にいるのか」「なぜこういう名前で、こういう体験し続けなければならないのか知りたかった」とこの著の紹介にあった。著者は1984年生まれ。引き込まれた。私の知る在日の方も済州出身の方がたくさんいる。また真相究明と犠牲者名誉回復がすすむ「済州四・三事件」についてもどう語られるのだろうか。
 著者の「聞き取り」は、①南労党済州委員会の経歴をもち4・3事件前に日本に密航してきたおじさん、②密航に失敗し大村収容所、53年頃大阪に移り洋裁・焼肉・喫茶店のおばさん、③4・3事件での警察・右翼青年団の住民虐殺を目撃体験し密航、吹田事件に参加、ナット工場、産廃処理工場経営した親族の中心のおじさん、④大阪で生まれ44年ころ済州にもどり貧困と飢餓、夫の暴力、55年ころ密航、帽子づくり、ナット製造の一番年下のおばさん、の4人からおこなう。
 一番年下のおばさんの話には戦争も4・3も出てこない。「学校にいけなかったことが、つらかった。子どもの幼稚園の参観日、紙持ってくるやろ。わからへん。字知らんほどのつらさは人には言われへ。夜間中学で初めて机の上座ったらうれしかった」という。著者は「親族の中心であるおじさんよりも、はるかに筋の通った見事な物語である」とこのおばさんの話を紹介する。
 話を聞き取る聞き手の過去に対する認識や知識と食い違うことにつぎつぎと気がつく。なぜ?どうして?「私は単に面白かった」「こんなことがあったのか?」という単純な驚きに満ちていた。「彼らの生きている世界は日本人の築いてきた戦後社会の規範や知識を共有している。と同時に、彼らの世界にしかない知識や規範がある」(四・三事件七〇周年の晩夏に 朴沙罹)とこの本はむすばれている。
 読んでよかった。初めて知ることばかりだった。勉強になった。

日韓関係のよい手本ー世界史でも稀なほどの善隣関係を維持した徳川幕府と朝鮮王朝

2018-11-04 20:16:04 | 日記
 「徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたか」(康熙奉・カンヒボン 実業之日本社)を読んだ。わかりやすい解説書だ。
 16世紀末に日本と朝鮮半島の関係は最悪の関係になった。14万の軍を派遣した豊臣秀吉の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)。1598年秀吉の死で豊臣軍は撤退するが、豊臣軍は朝鮮半島を荒廃させ5万人の朝鮮人が日本の捕虜となった。この関係の修復をおこなったのが徳川幕府だった。文禄慶長の役で徳川軍は自前の兵を一人も朝鮮半島へ送らなかった。自らの政権の正当性を示すためにも、外国から墨付きを得ようと徳川政権。朝鮮王朝は「家康は信頼に足る」と判断、5万にのぼる捕虜を取り戻さねばならなかった。1607年1月第一回使節団460人が釜山出発、5月江戸城で将軍秀忠に謁見、1400人の捕虜を取り戻す。1609年徳川幕府は朝鮮王朝と己酉(キユウ)条約を結び本格的に貿易を再開。以降1805年までに12回の朝鮮通信使が派遣された。
 通信使の経路では「儒学の先進地域」朝鮮の儒学者との交流、漢詩を吟じ合い、書画の揮毫をかわし、漢文を添削してもらい、朝鮮医学は日本の手本であり名医は地域の医師から質問攻めに、庶民も異文化に接する機会だった。第8回、第9回使節に同行した対馬藩役人雨森芳洲は「誠の心をもって、互いに互いにあざむかず争わず、真実をもって交わること」との言葉をのこした。
 著者の康熙奉(カンヒボン)氏は「世界中どの地域でも、隣国関係というのは干渉と不信の歴史でもあったろう。しかし、江戸時代の265年間、徳川幕府と朝鮮王朝は世界史でも稀なほどの善隣関係を維持した。そのことは、今後の日韓関係にもよい手本となるのではないだろうか」と本文を結んでいる。