一九六五年の「日韓条約国会」で衆院参院すべての審議を取材した「赤旗」記者吉岡吉典氏の著書「『韓国併合』100年と日本」(2009年新日本出版社)を改めて読んだ。 「1965年の日韓基本条約および日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府は植民地支配の不法性について一切認めようとせず、謝罪も反省も行わなかった」ことが生々しい。
一九五二年第一次会談から一九六五年第七次会談の妥結まで、日本政府の驚くべき歴史認識をめぐって難航、長い中断もある交渉だった。「36年間というものは資本主義経済機構のもとで平等に扱われた」「日本は朝鮮の鉄道や港をつくり、農地を造成し、大蔵省は多い年で二千万円も持ち出した」「韓国の独立はサンフランシスコ条約の効力が発生したとき、その前に独立したとは日本からみれば異例の措置」(第二次、第三次日韓会談久保田主席代表)。日本側岡崎外相「(久保田発言は)当たり前のことを当たり前に行っただけのものだ」。
一九六五年日本側日韓会談主席代表高杉晋一氏「(朝鮮植民地支配を美化し)敗戦でダメになってしまったが、もう二〇年間朝鮮をもっていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ。日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みんなおいてきた。創氏改名もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない。過去をいえば、むこうにもいい分はあるだろうが、わが方にはもっといい分がある」。
「日韓条約」の調印者になる椎名悦三郎外務大臣は著書で「日本が明治以来、‥台湾を経営し、朝鮮を合邦し、満州に五族共和の夢を託したことが、日本帝国主義というなら、それは栄光の帝国主義であり」とたたえる。椎名外相は「日韓条約」仮調印のために訪韓したソウルで「栄光の帝国主義者帰れ」と叫ぶ激しいデモ隊の抗議行動あった。
佐藤栄作首相は「対等の立場で、また自由意志でこの条約(韓国併合条約)が締結された」と繰り返し言明(一九六五年一一月五日、衆議院日韓特別委員会)
吉岡吉典氏は当時を「軍事クーデターによって成立した朴正熙政権が、日本の経済協力による経済発展めざして、日本の植民地支配の謝罪、精算を問題にしないで日韓会談を再開したことで急速に動き出し、なお紆余曲折を経ながらも、妥結へとむかった」と振り返っている。
一九五二年第一次会談から一九六五年第七次会談の妥結まで、日本政府の驚くべき歴史認識をめぐって難航、長い中断もある交渉だった。「36年間というものは資本主義経済機構のもとで平等に扱われた」「日本は朝鮮の鉄道や港をつくり、農地を造成し、大蔵省は多い年で二千万円も持ち出した」「韓国の独立はサンフランシスコ条約の効力が発生したとき、その前に独立したとは日本からみれば異例の措置」(第二次、第三次日韓会談久保田主席代表)。日本側岡崎外相「(久保田発言は)当たり前のことを当たり前に行っただけのものだ」。
一九六五年日本側日韓会談主席代表高杉晋一氏「(朝鮮植民地支配を美化し)敗戦でダメになってしまったが、もう二〇年間朝鮮をもっていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ。日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みんなおいてきた。創氏改名もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない。過去をいえば、むこうにもいい分はあるだろうが、わが方にはもっといい分がある」。
「日韓条約」の調印者になる椎名悦三郎外務大臣は著書で「日本が明治以来、‥台湾を経営し、朝鮮を合邦し、満州に五族共和の夢を託したことが、日本帝国主義というなら、それは栄光の帝国主義であり」とたたえる。椎名外相は「日韓条約」仮調印のために訪韓したソウルで「栄光の帝国主義者帰れ」と叫ぶ激しいデモ隊の抗議行動あった。
佐藤栄作首相は「対等の立場で、また自由意志でこの条約(韓国併合条約)が締結された」と繰り返し言明(一九六五年一一月五日、衆議院日韓特別委員会)
吉岡吉典氏は当時を「軍事クーデターによって成立した朴正熙政権が、日本の経済協力による経済発展めざして、日本の植民地支配の謝罪、精算を問題にしないで日韓会談を再開したことで急速に動き出し、なお紆余曲折を経ながらも、妥結へとむかった」と振り返っている。