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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その23

〈長沙の大空襲(1944年9月18日)〉
 
 
 その後も米空軍は、パラシュート爆弾などの新兵器を使って連日空襲をつづけていた。そして六月十八日の長沙落城を記念するかのように、十月までの四ヵ月毎月同じ十八日に大規模な空襲をかさねた。この四回にわたる大空襲のうちでもっとも激しかったのは、九月十八日のものであらた。この日は長沙の落城記念日であるばかりではなく満州事変のぼっ発記念日で、中国側にとっては忘れられない日であった。朝から天気がよかったので、今日こそ大空襲があるのではないかと予想された。しかし、住民の動揺をふせぐために、特高班はあえて市内にがんばらなければならなかった。八月に二名の犠牲者をだしたばかりなので、部下に対する朝の注意には特に念を入れた。   
 
 午後一時をすぎた。いつも午後二時前後に空襲があるので念のため一応安全地帯へ退避した方がよかろう、と私は情報収集の拠点である桃園の店をあとにした。しかしこの日の空襲はいつもより三十分ほど早かった。北方の空から地軸をゆるがすような爆音がきこえてきたのは、私が八角亭の十字路を北へまがり、つい先日まで憲兵隊が使っていた建物から七、八百メートルほどはなれたときだった。憲兵隊跡には立派な防空壕があった。私はそこまで引きかえそうかと迷った。しかしもう時間がない。何とか防空壕のある特務機関へ逃げこもう、と百メートルあまり走った。爆音は早くも頭上にせまってきた。   
 
 空を見上げると一波、二波、三波とわかれた米軍爆撃機B29の大編隊が護衛の戦闘機とともに押し寄せてきた。くわしくはわからないが、その数はおそらく五十機をくだらないと思われた。   
 
 私の走っている道路は、ちょうど大編隊の進路の中心にあたっていた。特務機関まではまだ二百メートルあまりある。私は一瞬、俺も今日でおしまいか、と覚悟を新たにした。ところがこうして覚悟を決めると、まったく不思議なほど冷静な気持になった。見れば百メートルほど先の町角に中国軍がのこしたレンガ造りのトーチカがあった。あるいは何とかなるかも知れない。ともかくあれにはいろう、と全身の力をふりしぼってかけた。   トーチカにとびこひ直前に空を見あげると、米軍機の第一波はすでに爆弾を投下しており、北の新市街方面でははげしい土煙りを吹きあげている。そして頭上間近かにも爆弾の雨がふってきた。   
 
 私がトーチカにとびこかと同時に、「ピッ」というのか「パッ」というのか、言葉ではいいあらわせないきびしい音とともに、猛烈な爆風と激動を体に感じた。つぎの瞬間、ズシン、ゴーと何かひどく重い物がトーチカの屋根に落ちたようだった。つづいて第二波の爆発音と激震が怒濤のようにおそい、そして遠のいていった。その直後に私は体が吹き飛ぶような衝撃を受け、トーチカの壁へたたきつけられた。それはまったく一瞬のできごとだった。
 
 硝煙の臭いが鼻をつき、息がくるしく、目を開いても何も見えなかった。私は自分が生きているのか死んでいるのか、判断がつかなくなり、右手の指で力いっぱい頬をつねってみた。しかし何の痛みも感じない。これは極度に緊張していたためだろうが、そのときには、ああ、俺はもう死んだのか、と思ったりもした。こうしてしばらく私は放心したように座りこんでいた。   
 
 そのうちに何分かたったのだろう、外の土煙りが風で吹きはらわれ入口からかすかな光がさしこんできた。私はまっ暗ななかをほの明るい小さな光にむかってはいよった。穴に近づいてはみたものの、こわれた民家のレンガや板きれが入口をふさいでいて、とてもはいだぜる状態ではなかった。それでも私は無我夢中になってレンガや板きれをかきわけた。   
 
 小さなトーチカのなかは酸素がうすくなったのか、ひどく息苦しい。穴に口をあてて外の空気を吸いながら全身の力をこめて入口をふさいでいる板きれを引き抜いた。板きれをとりのぞくと、その上に乗っていたレンガがくずれ落ち、何とか体が抜けられる大きさになった。   
 
 私は一刻も早く外へはい出ようと、穴の外へ手をだした。瞬間、何かグニャッとしたうす冷たいものを握り、ぞっとしてあわてて投げだした。このとき入口の土ぼこりがなぜかベトベトと手にねばりついて気味が悪かった。やっと外へはいだしてみると、それはちぎれてころがっていた被爆者の手をつかんだためで、土ぼこりがベトついたのは道路を流れた血が土ぼこりにしみていたのだ。   
 
 トーチカのそばには大きな穴があいていた。最後に衝撃を感じた爆弾の跡とおもわれるが、おそらく民家が壊れて一度埋まったトーチカをこの爆弾が堀りおこしてくれたのだろう。   
 
 しばらくするとあたりに立ちこめていた煙と土ぼこりがすっかり静まり、暑い太陽が廃墟の街を照りつけた。道路上にはとび散った瓦礫とともに土ぼこりをかぶった被爆者の死体が一面にころがっていた。それらの死体はほとんど満足なものはなく、首のないもの、手足のないものなど、その悲惨な姿は正視にたえないものだった。   
 
 この日、この町で被爆して死傷した者は日本兵数名をふくむ住民約七百名であった。そしてこの通りにいて生き残った者は、私をふくめてわずかに七名にすぎなかった。   
 
 トーチカからはいだし、あまりにも無残な光景にしばらく呆然と立ちつくしていた私は、まず隊へ帰らねば、と気づくとともに焼きつくような喉のかわきをおぼえた。直撃をまぬがれた特務機関にたちより、コップーぱいの水をもらって喉をうるおした私は、人影もない壊れた町をただ一人、東門へ向かって歩いた。すると城外から担架とシャベルをかついだ数名の憲兵が、息をはずませながらかけつけてきた。彼らは泥にまみれた中国服姿の私にぎづかぬらしく、見むきもせずに通り過ぎようとした。   
 
「おいどうした、どこへ行くんだ、誰かやられたのか?」   
 
 そのただごとではないようすに、私はつい大きな声でどなったのだが、中国服の男から急に声をかけられた彼らの方はかえってあわてた。   
 
「お前はだれだ、俺たちは憲兵隊の井上曹長どのの遺体を収容に行くんだ、じゃまするな」   
 
「おいおい、井上ならここにいる。俺は死んでやせん、心配かけてすまん、ほかの者に変わりにないか」   
 
「エッ、井上班長どのですって? よかった。よかった。無事だったのですか、あまり帰りがおそいので分隊長どのが心配しています。早く帰ってください」   
 
「そう思っていま急いで帰るところだ。それよりほかにケガ人はなかったかね」   
 
「ハイ、別にありません、それにしてもあまりひどい格好なので班長どのとは気がつきませんでした。頭と肩の泥をおとしたらいかがですか、ひどく積もっていますよ」   
 
 彼らにいわれて気がついてみると頭にも肩にもたくさんの土ぼこりが積もり、顔も手足もまっ黒だった。そういえば途中たちよった特務機関で何回も名前を開きかえされ、不思議に思ったが、この格好では無理もなかった。このときの私はあまりに激しいショックで気が動転していたのだろう。(227-229頁)
 
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