蔵六の思いつ記

思いつきを書き連ねる

続障害について

2007-12-12 23:57:03 | 気になること
昨日の続きになります

 養護学校・普通の学校どちらにしても一般の人たちと同じように生活するには本人・家族にかなりの負担を強いることになる。両方の長所を生かし短所を補う上でもkさんの書かれていた"学校に「障害者学級が有る」程度"をもう一歩進めた専門の先生が多数いるような学校がベストではないかと思います。

 次に、健常者と障害者の関係について思うことを書きたいと思います。
 「人間は社会的な動物である」と自分は思ってます。しかも自然界において人間ほど、自分たちの社会に依存してる動物はいないでしょう。一人一人は社会に依存し、そして貢献して生きていけるのです。よく宗教家の方が言われる「すべてに感謝をして・・・」って言うのは間違いではありませんが、自分としては「貢献」の対価として「依存」してるのだから、なんでもかんでも感謝の気持ちを持つ必要も無いと思ってます。

 自分は受ける恩恵に対して全て当然と思っているわけじゃないです。食堂で食べれば、ご馳走様は言うし、お店で丁寧な対応してもらえばありがとうは言います。でも、サービス残業100時間もして給料もらって、「ありがたい」っていうのもおかしいと思う。ようは、「貢献」に対して相応な「依存」をさせてもらえなきゃダメだと思うのです。

 さて、障害者に話を戻すと、彼らは当然ですが健常者と比べて「依存」の度合いが大きく、「貢献」が少ない。つまり、彼らは社会にとってマイナスなわけです。そういった因子は社会的に淘汰されるわけですが、実際は十分な「依存」が受けられる社会システムになってます。それは、健常者だって、いつ障害者になるか分からないのです、もし自分がそうなってしまえば、待つのは「死」です。それはあまりに味気ないです。どんなにそれまで社会に「貢献」していても、障害者になったとたん「依存」できないのなら、「貢献」する意欲も下がるってもんです。つまり、障害者福祉のシステムは障害者のためだけでなく健常者の保険的な意味合いもあると思うのです。

 以上を踏まえて、自分の障害者・健常者の関係で思う事。まずは障害者はもう少し「貢献」ってのを考えるべきだと思う。自分の周り、あるいは見聞きする中で多くの障害者が「自分は障害があってかわいそう、だから健常者が手助けして当然」と思ってるようです。これは本人の責任ばかりではありません。割と多くの障害児の親が「この子はかわいそう」と思ってしまうのです。その考えは当然子供にも移っていきます。昔、テレビのニュース特集で難聴の双子を抱えるお母さんが「私は子供達をかわいそうだとは思わない、思ってしまえば子供達はそこで止まってしまう。」という様なことを、おっしゃられていました。とにかく止まってしまった障害者が多いのです。それは、必ず社会的に障害者の立場を危うくしていきます。障害児の親は「かわいそう」とは思わず、どうすれば子供が将来社会に「貢献」出来るようになるかを考えてください。また、障害者の方も自分がどれだけ「貢献」出来るかを考えていくべきです。そうすれば健常者たちの目も変わってきますし、社会的にも認められてくるはずです。

 健常者はまず障害者を他人事だと思わないことです。健常者といえど事件や事故でいつ障害者となるか分かりません、自分に降りかからずとも、親兄弟、子供がそうなる可能性はいつもあるのです。障害者と接するということは将来の保険あるいは予行演習でもあると思います。そんな風には考えられない場合でも障害は身体的特徴であると考えるのも良いです。健常者といえど背の高い人低い人、細い人太い人、近視遠視、色黒色白、記憶力の良し悪し・・・いろんな身体的特徴があるわけです。背の低い人はどんなに頑張っても高い棚にある物は取れないのです。そういう時は背の高い人が取ってあげる、あるいは踏み台を持ってきて押さえておいてあげる、そうした補助や手伝いはごく普通で自然なことだと思うのです。そんな風に考えていけ、ばもっと障害者をもっと身近に感じる事が出来るようになると思います。(もちろんですが、健常者と同じように良いヤツもいれば悪いヤツもいますが。)

 最後に現在の障害者福祉のシステムについて思うのは、お金のバラまきではなく、障害者をいかに社会に「貢献」させていくかというシステムしていくべきだと思います。そうする事で健常者・障害者の健全な関係を作ることもできるでしょうし、最終的には障害者福祉にかかる費用も抑えていくことも可能なはずです。よく言われる「障害者をもっと社会に!」というのは、こういった事でなければならないと思います。
コメント
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