コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

あの大統領はいい奴だ

2010-11-17 | Weblog
故エヤデマ大統領の時代から引きずってきた、トーゴの政治の負の遺産。それは、エヤデマ大尉によるオランピオ大統領殺害事件にはじまる、宿命の仇討である。エヤデマ大統領の没後、その権力を彼の息子であるニヤシンベ大統領が継承した。そして、そのエヤデマ大統領に40年にわたって仇討を挑んできたのが、オランピオ大統領の息子、ジルクリスト・オランピオ氏であった。

ジルクリスト氏は、最大野党UFCを率いて、このたび2010年3月の大統領選挙に挑もうとした。対するニヤシンベ大統領は、憲法に従えば立候補の資格審査でジルクリスト氏を排除できるところを、その憲法を適用除外にした。ジルクリスト氏の立候補を受け入れて、堂々と迎え討つことにした。親どうしの因縁を、息子どうしが引き継いで対決する。ところが、立候補届け出直前に、ジルクリスト氏は激しい腰痛に見舞われ、結局立候補できなくなった。

だから今年の大統領選挙は、宿命の仇討対決にはならず、ニヤシンベ大統領がきわめて順当に再選を決めた。平穏な大統領選挙となって一安心ではあった。それでも宿敵の関係は残ると思われた。なぜなら、ニヤシンベ大統領の「トーゴ人民連合(RPT)」の支持者は北部の部族、ジルクリスト氏が率いる「変革への結束党(UFC)」の支持者は南部の部族で、南北の部族対立という、根強い怨恨が背景にあったからである。

それを克服できるのは、二人の当事者だけであった。つまりニヤシンベ大統領と、ジルクリスト氏の二人である。その二人が、歴史的な和解を遂げた。RPTとUFCの両党が合意に至り、ウングボ首相のもとにUFCからも閣僚を迎え、挙国一致内閣を結成したのである。私は、過去の仇敵であったジルクリスト氏との和解を追求した、ニヤシンベ大統領の決断に敬服する。それとともに、ニヤシンベ大統領の呼びかけを受けて、国民和解の大義についたジルクリスト氏にも、たいへんな懐の深さがある。

今回ロメに出張した際に、ジルクリスト氏に会っておこうと考えた。大使として、トーゴの主要人物には、顔をつないでおきたい。野党党首であり、ニヤシンベ大統領の政敵であったから、これまでは用心をして会う機会を求めなかった。しかし、今やUFCは「与党」であるのみならず、ジルクリスト氏本人も、両党合同委員会の議長という公職についている。大使が会いに行っても、おかしくはない。

そこで私は、身支度を整えて、先方から指定されたとおり、夕刻になってジルクリスト氏の自宅に赴いた。私は、74歳の気難しそうな老政治家が、護衛に囲まれてものものしく登場するさまを想像した。何といっても、40年にわたって、宿敵エヤデマ大統領を追い詰めようとしてきた政治家である。独裁政権に挑んで、何度も殺されそうになった、筋金入りの闘士である。宿怨の人である。

こざっぱりした邸宅に到着した。車から降りた私を、秘書らしい女性が出迎えて、玄関に導きいれた。応接セットが1つだけ置いてある、殺風景なサロンに、普段着とスリッパで寛いでいる人がいて、その人が目指すジルクリスト氏であった。ジルクリスト氏は、私を見るなり破顔一笑、ようこそ来てくれたと言った。他に護衛も誰もいない。いきなり赤ワインを開けて、さっそく乾杯だ、と言った。

貴議長のご勇断で、トーゴの歴史を変える政治合意を達成されたことを、大使として祝福にお伺いした、トーゴの発展のために日本としてお力添えをしたい、と述べる私の口上をひとまず聞き置いてから、ジルクリスト氏は言った。
「いやぁ、日本の大使に会えて嬉しい。日本人は私にはとても懐かしいですよ。あれは、1970年代でしたね。日商岩井の人々と一緒に大きな仕事を進めていて、日本にはよく行ったものです。日本とは、いろいろな商売をしました。一番はコンゴの鉄道案件でしたね。案件自体は、その後うまくいかなかったけれど、愉快な思い出がたくさんあります。あの時の仲間は、今頃どうしているかなあ。」

さすがに、もう皆さん引退しておられるでしょうね、と私は相槌をうつ。
「日本は昔から、アフリカにいろいろ開発協力してくれていましたからね。それも、本気でアフリカの将来を考えている日本人の方々が、何人もいました。連中といっしょに、いろいろな事業をやったものですよ。」
日本人の商社マンたちとの思い出話が、いくつも出る。

「私はね、その頃から砂糖の生産に乗り出しましてね。コートジボワールのフェルケセドゥグ(北部の町)にも、2ヶ所の製糖工場を持っています。」
あのサトウキビから砂糖を生産する工場ですね。
「そうそう。故ウフエボワニ大統領が私に、コートジボワール北部で製糖工場を開いてくれというので、始めたのです。でも、ウフエボワニ大統領は、どうしても4ヶ所建設してくれと。私は言いましたよ。砂糖生産は、カカオやコーヒーとは違う。どこの国でも、砂糖は自国生産で自給している。たくさん生産しても、輸出商品にはならないのだ、と。それでもウフエボワニ大統領は、4ヶ所に固執した。なぜか、それは北部の国民に4ヶ所と公約したからだ、ということだった。これだから、政治は経済を歪める。」

あれれ、政治家のジルクリスト氏から、そういう言葉を聞くとは面白いですね。
「日本大使は、政治の話をしに来たのに、経済の話ばかりで調子が狂うでしょう。実は私は、本来は経済人なのです。1960年代には、国際通貨基金(IMF)に勤務していました。その当時、IMFの職員でブラック・アフリカの人間といえば、私とコートジボワールのアラサン・ウワタラ元首相の2人だけでしたね。アラサンとは、いつも二人で昼食に行っていたものだ。」
そのウワタラ元首相は、今まさに、コートジボワールの大統領選挙で、バグボ大統領との間で決選投票に臨もうとしているのである。西アフリカの人脈の世界は狭い。

「西アフリカのこの地域は、今こそビジネスの発展があるのですよ。最大の儲け口は、鉱山開発です。トーゴもコートジボワールも、はっきり言って鉱山開発を棚に上げてきた国です。未開発の鉱山がほうぼうにあります。もし、日本人のサムライたちが来てくれるなら、ぜひ鉱山を手掛けることを勧めますよ。私はもうすでに、いろいろ調べているから、協力できます。」

74歳の気難しい老政治家どころではなかった。まだまだやる気に満ちたビジネスマンである。ともかくも、民間経済の発展に軸足を置いて考える視点は歓迎だ。私は、トーゴの発展の可能性について、昼間にニヤシンベ大統領にしたのと同じような話をする。ビジネス環境の整備を進めれば、トーゴは必ずや貿易・投資を呼び込めるだろう。それには何より、汚職の追放である。そう論じると、ジルクリスト氏は少し間を置いて、昼間のニヤシンベ゛大統領と口裏を合わせたように言った。
「独裁政権の40年間に作ってしまったものを、数ヶ月で除去しようとしても、無理が出てしまう。汚職追放は、決して急いではいけないのですよ。」

私は、今や、ニヤシンベ大統領と二人三脚で国政を進める立場にあるジルクリスト氏には、是非ともトーゴのビジネス環境の整備に取り組まれることを期待する、と述べる。
「あの大統領は、いい奴だ。」
と、突然ジルクリスト氏が言う。
「彼と二人で、トーゴの将来像について、計画書を纏めているのですよ。できあがったら、ぜひ大使にも見ていただければと思います。そして、日本人が国造りに参加してくれれば嬉しいなあ。」

宿怨の気配はまったく見られなかった。過去はもう乗り越えられたと言っていいのだろうか。ジルクリスト氏は、ニヤシンベ大統領のことを、「いい奴」と、親しみさえ含んで呼んだ。経験豊かでビジネス感覚を備えたジルクリスト氏が、若いニヤシンベ大統領としっかり信頼関係を持って、国の経済社会開発の道を協力して探っていくならば、トーゴは予想以上にしっかりと発展するであろう。私は軽い興奮さえ覚えて、ジルクリスト氏の自宅を辞去した。

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