コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

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エピローグ(1)

2012-04-06 | Weblog

あの激動のコートジボワールから1年が経ちました。このブログを通じて応援いただいた、そして何より、私のことをご心配いただいた読者の皆様に、お礼を申し上げたいと思います。

最後の記事に、多くの方々からのメッセージをいただきました。その一つ一つが、私にとってとても大きな励ましになりました。私のブログが、これだけ多くの方々に、しっかり受け止められていたことを改めて知り、心が熱くなりました。あの時、情勢を切り盛りすることで精いっぱいで、お返事をすることができず、たいへん失礼をいたしました。その後どうなったかの話を、かいつまんででもお話ししなければならないということは、この1年間にずっと心に思って来たことです。

ブログの投稿を断念した(2010年12月)あと、現地の情勢は日を追って厳しくなりました。大統領選挙の投票結果にかかわらず、憲法院の決定を盾に、バグボ氏は大統領職に居座りました。莫大な量の武器と、アフリカ各地から集めた傭兵の力を借り、そしてバグボ支持を叫ぶ青年団の乱暴や、国営放送局からの洗脳番組などにより、社会を恐怖と緊張で動けなくしました。彼は、そうして月日が経てば、そのうち「バグボ大統領」が既成事実として是認されると考えたのです。

しかし、彼の目論見は安易に過ぎました。国連をはじめ国際社会は、「バグボ大統領」を認めることを拒絶しました。とりわけ周辺のアフリカ諸国は、激しく反発しました。このようなやり方が通るなら、アフリカの民主主義に将来はない。そして、各国や国際機関による説得・調停の努力が行われる一方で、経済制裁が課されました。銀行はすべて閉鎖され、したがって商取引は麻痺し、アビジャン港から貨物船が消え、社会も生活も緊張の度合いを高めてゆきました。

人々はどうだったか。ここでコートジボワールの問題は、ほぼ同時に起こっていた「アラブの春」、たとえばリビアのカダフィの場合とは少し違っていたことを、念頭に置かなければなりません。「アラブの春」では、人々が独裁や強権政治に対して、民主主義を求めて立ち上がりました。しかし、コートジボワールでは、民主主義つまり大統領選挙はすでに公正に行われていた。民主主義の結果、つまり選挙結果の受け入れをめぐる対立だったのです。そしてバグボ氏は、負けたとはいえ45%の支持があった。彼は南部の候補者でしたから、アビジャンを含む南部だけをとれば、過半数を越える支持があったはずです。

そして、ここでは政権交代の意味も、違っていました。大統領が変わると、政治のみならず経済・社会のすみずみまで、いわば大激震が起こります。中央・地方の官僚だけでなく、ビジネスのトップたちも、入れ替えになる。経済権益などの支配権は、別の人々の手に移ります。一般の人々にとっても、これまでの生活がどうなるのか、おおいに不安を抱えることになります。とりわけ、ウワタラ候補は北部の支持を背景にしていました。南部の人々にとっては、これまでの既得権益を北部の人々に奪われるのではないか、という恐れもありました。ですから、バグボのやり方は強引に過ぎる、と誰もが分っていても、もしバグボが頑張り通せるなら、その方が自分にはいいかもしれない、と思った人々も多かったのです。

一方で、こんなやり方は正義に反する、と立ち上がった人々もいました。庶民の住む地区では、女性たちが街に出て、行進をしたのです。生活の混乱を何とかしてくれと訴え、そして何より平和を求め、女性たちは台所から鍋を持ち出し、がんがん鳴らしながら行進しました。バグボ側の治安部隊は、その女性たちに発砲で応え、犠牲者がおおぜい出ました。それでも、女性たちは家に籠って、日が暮れてから夜通し鍋を叩きました。支配階層の殆どは、家族とともに国外に避難していったけれど、大多数の庶民たちは街に残って、不穏ななかで生活を頑張るしかなかったのです。

そうした庶民の地区のなかで、北部からの移住者が比較的多いアボボ地区は、しだいにウワタラ派の抵抗の牙城に変わっていきました。地区といっても、人口は数百万を数える広大な地域です。そしてそこに、多量の武器と、北部からの旧反乱軍の兵士たちが、次第に集結していきました。バグボ派の治安部隊は、この地区を封鎖し、たびたび攻撃しました。アボボ地区は戦場になり、ものすごい数の家族が、身の回りの荷物だけ持って、逃げ出しました。攻撃のたびごとに、避難民の行列が、延々と続きました。

こうして政治的対立は、しだいに武力対立に変わっていきました。そして、アビジャンだけでなく、地方でもこの対立が表面化していきました。たくさんの部落で、略奪や殺戮があり、多くの避難民が出ました。不幸なことに、カラシニコフ銃などの武器は、手軽に手に入りました。また、部族対立の種火が燻っていたところもあったのです。

アフリカ連合(AU)や西アフリカ経済共同体(ECOWAS)が中心となって、何度も調停が試みられました。アフリカ各国の首脳が、何度も来訪しました。アビジャンでも、国連や外交団が、さまざまな打開策を図りました。それでもバグボ氏は、大統領の座を明け渡すとは言いませんでした。ウワタラ大統領は、ソロ首相ほか政権幹部と、もう数カ月もゴルフホテルに立て籠もっていました。バグボ派の治安部隊が彼らを攻撃する可能性があったので、国連部隊が何重にもホテルを取り巻いて守護していました。その周りを治安部隊が封鎖し、ホテルへの人々の移動はもちろん、食糧などの物資供給を止めました。国連は毎日、ヘリコプターを飛ばして、これに対抗して物資供給を継続したのです。

解決の見通しが全く見えず、経済と社会が閉塞する中で、殆どの店は扉を閉め、行政は機能を放棄していました。道路は穴だらけ、街の角々にはうずたかくゴミが積もりました。国営放送局は相変わらず「バグボ大統領」の正当性を訴える番組を流していました。バグボ支持者の青年団は集会を繰り返し、国際社会と国連の内政干渉を非難し、国の「独立」を守るために立ち上がるのだ、と熱狂的な調子で人々を扇動していました。

ウワタラ大統領の側は、政治的な解決の手段は尽きた、と言うようになりました。そして、3月の下旬、北部に集結していた軍(旧反乱軍)が、やおら南下を始めました。南北をつなぐ幹線道路を、完全武装した兵士たちがトラックに乗って、アビジャンに向けて進軍し始めたのです。これは国内全土で大戦乱になる、と思って見ていたら、驚いたことに幹線道路ではほとんど抵抗を受けず、北部軍は1~2日のうちに、アビジャン近郊まで到達しました。

もうアビジャンが完全包囲されているのに、それでもバグボ氏は譲りません。後で分ったことですが、バグボ氏は大量の武器と、相当数の傭兵を集めて、戦いに備えていた。アビジャンさえ手放さなければ、何とかなると思っていたのでしょうか。どちらからの手出しもないまま、奇妙な平穏がしばらく続いた後、3月31日に突然、市街戦が始まりました。道路からは車が一切消え、随所にバリケードが築かれ、街の方々で、迷彩服の兵士たちが激しく撃ち合いはじめました。もちろん誰も家の外に出ることはできない。私も、大使公邸に閉じこもったまま、情勢を追っていました。市街戦は一進一退で、情報も錯綜し、とにかく早く決着が付くことだけを願っていました。

市街戦が始まって1週間ほど経った4月6日朝、迷彩服の兵士たちが、突如私の公邸を襲いました。対戦車ロケット砲を公邸建物に撃ち込み、20人ほどが乱入してきました。何の意図があったか分りません。とにかく公邸は、戦場そのものになりました。私は現地職員らとともに、一室に立て籠もって、携帯電話をあちこちに掛けながら、何とか切り抜ける策を探しました。約15時間の後、フランス軍が救援部隊を派遣し、周辺を掃討したうえで、ヘリコプターで私たちを救出してくれました。

その後しばらく、私はフランス軍の基地に厄介になり、そこから事態の推移を把握しました。私の事件は、戦況の転機になったようです。私だけでなく、私の公邸のある地区に住む多くの大使たちが、危険な状態に陥っていました。事件を境に、外交団の救出を理由に、国連部隊とフランス軍部隊が、市内に装甲車を繰り出すようになったのです。私の公邸のある地区には、バグボ氏の本拠である大統領官邸もありました。そうなると、傭兵たちは動きにくくなり、戦況はバグボ氏に不利になりました。ついに4月11日、バグボ氏は追い詰められ、大統領官邸の塹壕で逮捕されました。

長く複雑な話を、非常に簡略にして述べると、こうして大統領選挙後の混乱は終結を迎えました。私は、市内に残る大使館員を救出し、在留邦人の方々の安全を確認した後、4月14日にダカール行きのフランス軍用機に乗って、アビジャンからひとまず退避しました。その後、ウワタラ大統領は、ゴルフホテルを出て、正式に大統領の職に就きました。

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1 コメント

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あれから1年 (Kouame)
2012-04-10 12:24:42
あれから1年。コートジボワールの情勢をずっと気にしておりました。
ブログの更新ありがとうございます。

まだまだ小型武器がアビジャンのみならず、地方にもかなり出回っていると聞いております。

様々な部族が一緒に暮らしていた地方の村々でも争いがあったと聞くと、心が痛みました。

ウワタラ大統領就任後のコートジボワール庶民の様子は大使の目から見てどうであったか、また教えていただきたいです。

コートジボワールの人々が心穏やかに過ごせるよう、日本人としてできることを考えていきたいです。

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