言葉には二面性があります。
一面では、言葉は人に真実を教えます。もう一面では、言葉は人に嘘を教えます。
親が子どもに「海は青い」と教える時、「海は青い」という真実を親は子どもに教えることになります。と同時に、「海は青い」という嘘を子どもに教えることにもなります。
このことを、小林秀雄(1902-1983)はこう書いています。
以下引用
子供は母親から海は青いものだと教えられる。
この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもない赤くもない事を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然し嘗て世間にそんな怪物は生れなかっただけだ。
引用おわり
(Xへの手紙・私小説論 新潮文庫 104頁)
本物の海は、青でもなければ緑でもなく、赤でもない。
もっと言えば、それは海ですらない。
歴史上、古典とされる絵画を残す画家は、そのことを痛切に知っているために、その青でも赤でもない海、海ですらない海を描こうとして苦労するわけです。
ゆえに、本物の画家にとって、本物の苦労とは、自分の絵が売れないことでもなければ、評論家や美術館からほめられないことでもない。
目の前にある海ならざる海をどう描くかという苦労なのです。
空は青い、雲は白い。それを鵜呑みにしているだけなら、その程度の絵にしかなりません。
ゴッホの「星月夜」(1889年サン=レミ時代の作品)が理解されるにはほど遠いでしょう。
花の絵を描こうと思い、花という言葉を鵜呑みにして、目の前の花の形や色を描いてしまうのでは、その画家は二流です。つまり、風景画と言われてそのまま風景を描いてしまったり、自画像と言われてそのまま自分の顔を描いてしまったのでは、それは二流なのです。
ゴッホは、自画像を描くことで、人間ならざる顔が空気の中に浮かぶ場面を描き、麦畑を描いて、自分自身の顔を描いた。
そこでは、自分の顔は何かの事件を映す風景であり、麦畑の風景は自分の顔なのです。
この激烈な真実の描写は、当時は流行らなかった。それゆえ、当時は一枚しか絵が売れなかったのですが、ゴッホの死後、その真実は人々の心を打ち、一枚で何億円の価値がつくのです。
もちろん、「海は青い」と子どもに教える母親を責めることはできません。
なぜなら、まず母親は「海は青い」と洗脳されている。その洗脳のままに、子どもに言葉を教えるのだから、それしか教えられない。
また、もし母親が洗脳されていないにしても、言葉というものは存在の最もシンプルな顔である以上、母親はそれを嘘とわかっていようが、子どもに何かを話しかけようとすれば、「海は青い」とシンプルに話すしかない。
これは言葉という海を泳ぐ人間という生き物の宿命です。
言葉は、その在り方として、「真」と「偽」の二面性を持たざるを得ない。
どちらか片方だけで成り立つことは不可能なのです。
ゴッホも親や教師などの社会から、そうやって言葉を習ったはずです。「海は青い」と。しかし、ゴッホは狂人だった。
その狂気は、彼を単なる絵のうまいおじさんとして生きることを許さず、彼を物(もの ding)の真実の前に引きずり降ろした。
引きずり降ろされたその場所で、彼が見た風景は、海は青ならず、雲は白ならずという恐るべき深淵だったわけです。
ゴッホのように無理やり引きずり出されるか、我々のように自分から進んでそれを探究するか、その違いはありますが、いずれにしても、深淵を見るということは、言葉という表の顔を貫いて、その裏にまで出るということなのです。
その時、黒でも青でもない夜は、ただの風景ではなく、自分の顔になるわけです。
一面では、言葉は人に真実を教えます。もう一面では、言葉は人に嘘を教えます。
親が子どもに「海は青い」と教える時、「海は青い」という真実を親は子どもに教えることになります。と同時に、「海は青い」という嘘を子どもに教えることにもなります。
このことを、小林秀雄(1902-1983)はこう書いています。
以下引用
子供は母親から海は青いものだと教えられる。
この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもない赤くもない事を感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ、然し嘗て世間にそんな怪物は生れなかっただけだ。
引用おわり
(Xへの手紙・私小説論 新潮文庫 104頁)
本物の海は、青でもなければ緑でもなく、赤でもない。
もっと言えば、それは海ですらない。
歴史上、古典とされる絵画を残す画家は、そのことを痛切に知っているために、その青でも赤でもない海、海ですらない海を描こうとして苦労するわけです。
ゆえに、本物の画家にとって、本物の苦労とは、自分の絵が売れないことでもなければ、評論家や美術館からほめられないことでもない。
目の前にある海ならざる海をどう描くかという苦労なのです。
空は青い、雲は白い。それを鵜呑みにしているだけなら、その程度の絵にしかなりません。
ゴッホの「星月夜」(1889年サン=レミ時代の作品)が理解されるにはほど遠いでしょう。
花の絵を描こうと思い、花という言葉を鵜呑みにして、目の前の花の形や色を描いてしまうのでは、その画家は二流です。つまり、風景画と言われてそのまま風景を描いてしまったり、自画像と言われてそのまま自分の顔を描いてしまったのでは、それは二流なのです。
ゴッホは、自画像を描くことで、人間ならざる顔が空気の中に浮かぶ場面を描き、麦畑を描いて、自分自身の顔を描いた。
そこでは、自分の顔は何かの事件を映す風景であり、麦畑の風景は自分の顔なのです。
この激烈な真実の描写は、当時は流行らなかった。それゆえ、当時は一枚しか絵が売れなかったのですが、ゴッホの死後、その真実は人々の心を打ち、一枚で何億円の価値がつくのです。
もちろん、「海は青い」と子どもに教える母親を責めることはできません。
なぜなら、まず母親は「海は青い」と洗脳されている。その洗脳のままに、子どもに言葉を教えるのだから、それしか教えられない。
また、もし母親が洗脳されていないにしても、言葉というものは存在の最もシンプルな顔である以上、母親はそれを嘘とわかっていようが、子どもに何かを話しかけようとすれば、「海は青い」とシンプルに話すしかない。
これは言葉という海を泳ぐ人間という生き物の宿命です。
言葉は、その在り方として、「真」と「偽」の二面性を持たざるを得ない。
どちらか片方だけで成り立つことは不可能なのです。
ゴッホも親や教師などの社会から、そうやって言葉を習ったはずです。「海は青い」と。しかし、ゴッホは狂人だった。
その狂気は、彼を単なる絵のうまいおじさんとして生きることを許さず、彼を物(もの ding)の真実の前に引きずり降ろした。
引きずり降ろされたその場所で、彼が見た風景は、海は青ならず、雲は白ならずという恐るべき深淵だったわけです。
ゴッホのように無理やり引きずり出されるか、我々のように自分から進んでそれを探究するか、その違いはありますが、いずれにしても、深淵を見るということは、言葉という表の顔を貫いて、その裏にまで出るということなのです。
その時、黒でも青でもない夜は、ただの風景ではなく、自分の顔になるわけです。