真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第八十五回 心のジュゴンを取り戻す(その五)

2017-08-07 11:26:16 | 思索
前回、辺野古の基地問題は、「ある種の宗教的な感覚の問題なのです」と言いました。

「宗教的な感覚の問題」は、人間がいればどこでも起こり得る問題なので、沖縄だけの問題ではありません。沖縄という地球のごく一部の狭い地域だけに該当する問題ではないだろうということです。

だからといって、私は、辺野古の基地反対運動に、沖縄だけでなく、全国の人達がもっと積極的に参加すべきだと言いたいわけではありません。

辺野古の反対デモに、日本全国から一億人が集まって声を上げれば、確かに、辺野古の基地建設はなくなるでしょう。建設が中止になって、大浦湾が元通りになれば、ジュゴンも戻ってくるかもしれません。

しかし、それだけでは、一過性の現象に終わります。我々一人一人の心にジュゴンは戻って来るでしょうか。

大浦湾から基地がなくなり、物理的にもとの綺麗な海に戻り、物体としてのジュゴンがそこに戻ってきても、「宗教的な感覚の問題」は置き去りにされたままです。それでは、大浦湾は助かっても、今度は別の海が餌食(えじき)になることでしょう。

なぜ、大浦湾にせよ、あるいはどこかの綺麗な海にせよ、それは餌食になり、破壊されるのか。

今の世の中の心には、隣国の増大する軍事力に対する抑止力として、こちらもそれなりの軍備が必要だという思いがあります。私もそれに反対するわけではありません。

しかし、防衛や安全保障の問題の前に、私は宗教的な感覚の問題を考えます。

つまり、「死」に対する態度としては、二つあるだろうということです。

一つは「死の恐怖」、もう一つは「死への畏敬」。

前者からすると、「死」は生命に対立するものです。「死」によって、大切な生命が奪われるという感覚です。「死」は生命の外にあり、生命を襲ってくるという感覚です。近代的な自我を当然と思っている人間からすると、この感覚が人生の基盤となっているかもしれません。

他方、後者からすると、「死」は生命の中で静かに生きるものです。死は生命を奪うものではない。生命という大きなものが、「死」を内包しているのです。「死」は恐ろしいものではない。海が無数の魚をその中で生かすように、生命は「死」をその中で豊かに包むのです。

これは近代的な自我以前の人間、例えば日本国に編入される前の沖縄のシャーマン、未開人と呼ばれるアマゾンの人達や、何百年前のアボリジニやネイティブアメリカンなどの人達からすれば、当たり前の感覚です。

「宗教的な感覚の問題」と言いましたが、それは何々教と呼ばれるどこかの宗教団体の問題ではなく、もっと原初的な、古代から受け継がれている人間の宗教的な感覚のことです。

それは、「宗教」というわずらわしい呼び名さえ不要な「宗教」であり、太古から我々の血球を巡る畏敬の感覚です。

その感覚からすれば、ご先祖様とは、私の家系のDNAをひたすら遡ったホモ・サピエンスのことではない。

DNAをひたすら遡っても、そこから出て来るのは赤の他人です。遠い過去の、今の私とは関係ない他人であり、私と分断された原始人や猿のような生き物が出て来るのが精一杯です。

他方、「宗教」という呼び名さえ不要な「宗教」、その太古の感覚からすれば、ご先祖様とはそういう赤の他人やDNAのことではなく、今ここの海に実在し、実感するものです。

ゴーゴーと音を立てて荒々しく波を作り出す海の豊かさの前で、静かに目を閉じて手をあわせて祈る。

これはどこの宗教団体に属していようが、あるいはどこにも属していなかろうが、人間としての極めて自然な姿ではないでしょうか。

その姿を宗教と呼ぶならば、それはどれか特定の宗教という閉じられた組織の問題でもなければ、宗教学という学問的第三者の問題でもないでしょう。

それは正に太古から脈々と我々の中で続く、ある生きた感覚なのです。その生きた感覚からすれば、ご先祖様とは、はるか昔に死んだDNAのことではなく、今ここで生きている確かな実在なのです。

その実在を海で感じて、それを生きているのと、海を見てもただの塩水としか見えないのとでは、全く違います。

海を破壊して基地を建てるかどうかという問題の前に、海を見て何を感じるのかという問題の方がはるかに重要です。基地建設に賛成か反対かの話の前に、そもそも「海」という言葉の定義自体が全く異なっている可能性があるからです。