リルケは彫刻家のロダン(1840-1917)と親しかったそうです。
ロダンは早口のフランス語で喋るため、ドイツ人のリルケは、完全にはロダンの言うことを理解できなかったようですが、そんなことはロダンとの交友において問題ではなかったと言っております。
二人はきっと、形のある言葉を超えたもの、つまり形のない言葉で会話をし、心を通わせていたのでしょう。
そのことがよくうかがえるリルケの文章があります。それを引用します。
以下引用
ロダンが仕事をしているところを見るのは実にすばらしいことです。
彼の目は粘土と結びついて、確実に進んでいくその視線の多くの道すじが、空中に網のように張られているのが見えるようです。
そしてそんなときには、なんとすべてが一つになっていることでしょう、彼と、彼が生命を与えてやった事物(もの)とが―――そのどちらが作品なのか言うことはほとんど不可能です。
それは循環しながら成熟する一つの世界のようです。
そして彼が語るとき、その声はまるで奥深い塔のなかから響いてくるようで、彼の顔は流れる水のなかからもたげられたようです。
引用おわり
(リルケ 芸術と人生 富士川英朗編訳 白水社 171頁)
リルケがロダンという男を見た時の驚きが、この文章から伝わってきます。
このリルケの文章を見ると、思い出すことがあります。
よく「偉大な芸術作品」という言葉を目にしますが、その作品の偉大さと、それを作った人間の偉大さは、よく考えたら、区別がつかないものです。
私がモーツァルトの音楽を聴いて感動するのは、その旋律の美しさや壮大な楽曲の威容であるよりも、その音楽を通して見えてくるモーツァルトという偉大な男です。
もちろん、その人は必ずしも聖人のようには現われません。変人であったり奇人であったりする姿の方が多いかもしれません。しかし、その奇妙な外見と表裏一体となったものは、天才ゆえに持つ懊悩です。
彼は天才と言われるように、他の人が見えないものもよく見える。見えるゆえにつらいとは一言も言わない。そんなことは言ってもしょうがないからです。
心は物を触知している。音という物を触知するのは、モーツァルトと呼ばれる心だと言えるでしょう。
心は心単独では、心であることさえできない。そこには心によって触知される物が必要です。それによって、心は物を感じると同時に、心自身を感じるのです。
モーツァルトは、音という物を感じ、その裏側には音を感じる心という無限が常に横たわっていることを感じた。それは音ではない。しかし、音ならぬ心を表現するものは、ただ音のみ、なのです。
彼の心は音と心という有限と無限に触れて、常にそれを意識していたはずです。
結局、モーツァルトという偉大な感性と、モーツァルトの作品とは、どこかに分離線があるわけではありません。そのどちらが作品なのか言うことはほとんど不可能で、それは循環しながら成熟していく一つの世界です。
それはリルケにも言えます。彼の繊細な感性は、一個の虫けらにも偉大なものを見出し、驚嘆します。そんなリルケと、彼の作品を、別々のものとしてとらえることはできません。
彼が一匹の蚊(か)を見てそこに真理を見出す詩を引用して、今日は終わりにしましょう。
以下引用
おお、ちいさい生きものの至福さよ。
かれらはいつも胎内にある、かれらを時満つるまで懐妊していた母胎のなかに。
おお、蚊の幸福よ、かれらは婚礼の祝祭のときでさえ
なお母胎の内部で踊っている、なぜなら一切が母胎なのだから。
引用おわり
(ドゥイノの悲歌 手塚富雄訳 岩波文庫 67頁)
ロダンは早口のフランス語で喋るため、ドイツ人のリルケは、完全にはロダンの言うことを理解できなかったようですが、そんなことはロダンとの交友において問題ではなかったと言っております。
二人はきっと、形のある言葉を超えたもの、つまり形のない言葉で会話をし、心を通わせていたのでしょう。
そのことがよくうかがえるリルケの文章があります。それを引用します。
以下引用
ロダンが仕事をしているところを見るのは実にすばらしいことです。
彼の目は粘土と結びついて、確実に進んでいくその視線の多くの道すじが、空中に網のように張られているのが見えるようです。
そしてそんなときには、なんとすべてが一つになっていることでしょう、彼と、彼が生命を与えてやった事物(もの)とが―――そのどちらが作品なのか言うことはほとんど不可能です。
それは循環しながら成熟する一つの世界のようです。
そして彼が語るとき、その声はまるで奥深い塔のなかから響いてくるようで、彼の顔は流れる水のなかからもたげられたようです。
引用おわり
(リルケ 芸術と人生 富士川英朗編訳 白水社 171頁)
リルケがロダンという男を見た時の驚きが、この文章から伝わってきます。
このリルケの文章を見ると、思い出すことがあります。
よく「偉大な芸術作品」という言葉を目にしますが、その作品の偉大さと、それを作った人間の偉大さは、よく考えたら、区別がつかないものです。
私がモーツァルトの音楽を聴いて感動するのは、その旋律の美しさや壮大な楽曲の威容であるよりも、その音楽を通して見えてくるモーツァルトという偉大な男です。
もちろん、その人は必ずしも聖人のようには現われません。変人であったり奇人であったりする姿の方が多いかもしれません。しかし、その奇妙な外見と表裏一体となったものは、天才ゆえに持つ懊悩です。
彼は天才と言われるように、他の人が見えないものもよく見える。見えるゆえにつらいとは一言も言わない。そんなことは言ってもしょうがないからです。
心は物を触知している。音という物を触知するのは、モーツァルトと呼ばれる心だと言えるでしょう。
心は心単独では、心であることさえできない。そこには心によって触知される物が必要です。それによって、心は物を感じると同時に、心自身を感じるのです。
モーツァルトは、音という物を感じ、その裏側には音を感じる心という無限が常に横たわっていることを感じた。それは音ではない。しかし、音ならぬ心を表現するものは、ただ音のみ、なのです。
彼の心は音と心という有限と無限に触れて、常にそれを意識していたはずです。
結局、モーツァルトという偉大な感性と、モーツァルトの作品とは、どこかに分離線があるわけではありません。そのどちらが作品なのか言うことはほとんど不可能で、それは循環しながら成熟していく一つの世界です。
それはリルケにも言えます。彼の繊細な感性は、一個の虫けらにも偉大なものを見出し、驚嘆します。そんなリルケと、彼の作品を、別々のものとしてとらえることはできません。
彼が一匹の蚊(か)を見てそこに真理を見出す詩を引用して、今日は終わりにしましょう。
以下引用
おお、ちいさい生きものの至福さよ。
かれらはいつも胎内にある、かれらを時満つるまで懐妊していた母胎のなかに。
おお、蚊の幸福よ、かれらは婚礼の祝祭のときでさえ
なお母胎の内部で踊っている、なぜなら一切が母胎なのだから。
引用おわり
(ドゥイノの悲歌 手塚富雄訳 岩波文庫 67頁)