真理の探求 ― 究極の真理を目指すあなたへ by ぜんぜんおきなわ

日々考えたこと、気づいたことについて書いています。

第五十回 不立文字(その二)

2017-07-03 14:31:36 | 宗教
「群衆は、あがめるために聖人を、相談するために導師を必要としています。」とアントニー・デ・メロは言いましたが(小鳥の歌 女子パウロ会 204頁)、その意味では群衆と聖人は需要と供給の関係と言えます。

自爆テロを推奨する団体の指導者も、自称か他称かはわかりませんが、聖人ということになっているのでしょう。

しかし、聖人VS俗人という二項対立の世の中で、聖人をあがめる需要と供給の関係は、この人類史において、いつまで続くのでしょうか。

結局、宗教的指導者と、それについていく民衆という構図が、いつの時代にも、どこの国にもあるわけですが、民族の違いはあっても、図式はいつも同じです。

それはやはり二見に住している点で、要は、
神の声VS神じゃない声
をきちんと二つに分けているということです。

神の声は尊い、他方、普通の声は普通だから尊くない、ということなんでしょう。

「職業に貴賤はない」という有名なフレーズがありますが、声に貴賤はあるのでしょうか。

人間はこの線引きをどういう基準で決めているのでしょうか。神の基準で決めているのでしょうか。こっちからこっちは「貴」であり、こっちからこっちは「賤」であると。

マルクスは「宗教はアヘンだ」と言って宗教を否定したようですが、宗教が本当にアヘンなのかどうかという問題より、なぜ人間は宗教をアヘンにしてしまうのかという問題の方が重要でしょう。

そうしたアヘンが宗教であるなら、禅は果たして宗教でしょうか。

禅を超宗教と言う人もいますが、禅からすれば、禅が宗教であるかどうかはどっちだっていいことでしょう。

ただそこで確実に言えることは、不立文字を徹底させていけば、そこには「聖VS俗」という二見が入る余地がなくなることです。

そこでは悟った人が悟ってない、悟ってない人が悟っているわけです。

悟った人VS悟っていない人
として区別される世界は、不立文字ならぬ、立文字の世界です。

禅ではこれを「柳は緑、花は紅」と言い、同時に、「柳は緑ならず、花は紅ならず」と言います。

鈴木大拙の言うように、竹は赤色です。しかし同時に、それは緑でもなければ赤でもなく、黒でもないのです。

今日はその言葉を引用して終わりましょう。

以下引用

大窪詩仏は竹を描くことで有名であったが、ある時、竹林を描いた掛物の作製を依頼された。かれはおのれの知るかぎりの技を尽して描き上げたが、絵の中の竹林は、赤一色であった。

依頼主は、これを受けとって、その技の見事さに驚嘆した。かれは芸術家の家に行って言った、「先生、わたしは絵のお礼に参りました。しかし失礼ながら、あなたは竹を赤く描かれました。」

「左様。」画伯は言った、「あなたは何色をお望みなのですか。」

「もちろん黒です」と依頼主は答えた。

「ところで、一体、誰が黒い葉の竹を見たことがあるのですか。」これが芸術家の答えであった。

人が一定の物の見方に慣れ切ってしまうと、方向転換をして新しい行き方を始めることは、この上なくむずかしくなる。竹の本当の色は、きっと赤でもなく、黒でもなく、緑でもなく、そのほかわれわれが知っているどんな色でもないのであろう。おそらくそれは、赤であろう。また黒かもしれない。誰が知ろうか。

引用おわり
(禅 鈴木大拙 工藤澄子訳 ちくま文庫 137-138頁)