岩淸水

心を潤す

原発事故の被ばくで殉職

2013年07月11日 08時51分11秒 | 左近尉のつぶやき

 

 

 

2013 07 11 原発事故の被ばくで殉職【岩水・左近尉のつぶやき】

 

 

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1307829.html

上の【在日コリア人の通名一覧】で照会してみれば、吉田と言う姓は、12,000名の内 80名が「吉田」という姓なので、きわめて高頻度で存在している。

それが芸能とか政治そして官僚とか東電のような、戦後支配のレジーム体制のトップ層に居るのならば、ほぼ確定と言ってしまっても、良いくらいの確率だ。

 

そもそも東電などは、官僚組織よりも、なお一層普通の日本人には、ての届かない特殊な 「三国人の系統による代理統治」 が徹底されている組織機構なのだ。それともう一つは、だからこそ個々の上層管理者の任務は、東電など発電部門では、米英などのユダヤ支配の利益を最大限にすること。このことなのだ。なので福島第一原発所長の吉田氏なんぞも、

 

コストカットが最大の課題だったはずである。

 

それが元で、実際に大事故が勃発してしまった。

 

 

そもそもの原因が、米英などのユダヤ支配と、代理統治人たちのキムチ層があまりにも利益を抜き取りすぎてしまった。

   佐藤栄佐久
 
 
 (元福島県知事)  は、新外相・玄葉光一郎氏の夫人の父である。
東京一極集中や原子力発電事業の杜撰さと、激しく戦ってきた。

 

それで大津波の被害が予見され、そのことを各方面から強く指弾されていても、反対に福島県知事の、佐藤栄佐久氏 などを理不尽にも逮捕などをして、まともな人々を弾圧してきた。

 

 

日本人の死生観では死んだ人は、すべて仏になる。つまり、あれやこれやと非難がましことは言わぬこと。このようになっている訳なのだ。それで左近尉は、表サイトの【わが郷】では書かない。ところがわが郷の特徴は、デンパな記事で人々が、見落としてしまうような、本質的なことをリアルに描き出すこと。

 

ならば、吉田元所長のことは、書かずにはおれない。

 

日本国内では様々な思惑が渦巻いていて、これから左近尉が書くようなことは、だれもいないのではないか。

 

つまり、彼は放射線の大量被ばくによって、その障害で死亡した。

新聞記事では、

 

 

福島第一原発の吉田昌郎元所長が死去 事故時に現場指揮 【朝日】

  2013年7月9日20時38分
 
 東京電力福島第一原発事故発生時の所長で、事故収束作業の陣頭指揮をとった吉田昌郎(よしだ・まさお)さんが9日午前11時32分、食道がんのため都内の病院で死去した。58歳だった。葬儀の日取りは未定。

 2010年6月から所長を務めた。11年3月の東日本大震災で過酷事故が起きた後、免震重要棟に残り、9カ月間にわたり現場の作業員らを指揮した。テレビ電話を通じて本店との調整役も担った。

 事故対応では、1号機の原子炉格納容器の圧力を下げるためベント(排気)を指示した。

 東電上層部から原子炉を冷やす海水の注入停止を命じられたが、テレビ会議では中断したように見せかけ、独自の判断で注水を続行した。この行動は一部で英断と評価された。

 一方、政府の事故調査委員会の報告書は、福島第一で原子炉への注水に必要な事前の準備が不十分だったと指摘。原子力設備管理部長を務めていた08年には、大津波の試算結果を知りながら対策を取らなかったなどと批判した。

 大阪府出身。東工大大学院で原子核工学を専攻した。1979年4月の東電入社後は、福島第一、第二を含め、原子力部門で長く働いた。

 事故後に判明した食道がんの療養のため11年11月に入院し、福島第一原発所長を退いた。12年7月には脳出血で緊急手術を受け、自宅で療養していた。

 東電によると、吉田さんの原発事故後の被曝(ひばく)量は約70ミリシーベルトで、原発作業員の被曝限度である100ミリシーベルト(5年間)の範囲内。食道がんは発症まで5年以上かかるとされ、病気との関係はないとしている。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0709/TKY201307090196.html

 

 

上の色つき記事のように報道されている。

しかし是、たとえばロシアなどでは、原発事故の放射能を大量に浴びて死亡した。

などと報道されるのではなかろうか。

 

小泉政権時代に、三十数名の自衛官が、イラク派遣で死亡したと推測される。

このことは後で当時の首相福田康夫氏が、認めたとともとれる発言をしている。

 

そしてこのようなことは、フジテレビ抗議デモと同じように、戦後レジームのマスコミによって無視される。

 

ただ普段から小沢一郎などを支持している、わが郷云うところのキムチ・ブロガーたちは、「彼のことを特別に英雄視」 して書いている。

彼が本当の英雄ならば、大津波に耐えうる防潮堤を作らせたはずである。そして烈震にも耐えられるような、送配電のケーブル網を構築していたはず。なぜか鉄塔が倒壊したことが、無視されるとか、無かったことのようになっちゃった。何てことは、あろうはずもなかった。ハズである。

 

そもそも東電の業務は、建設土木事業のように、四層にも、五層にも多重化された、複雑な構造になっている。

これは、上層は現場には出ずに、利益のみ吸い取る。

そして、戦後体制支配者(つまりこの場合は、米国の原発メーカーと世界エネルギー・マフィアの利権を第一義とする)要望を冷酷に通知する。是だけが彼ら、支配者の代理の任務だったのだ。それが、あるはずもない事故が現実に突発してしまった。

 

 

つまり、現場にある、東電の管理部門、その下の東芝とか日立などの原子炉メーカー、そしてその下の系列のエンジニアリング子会社。これらの者たちは、すべてが「お役人然」として、現場では働かない。実際に働くのは、エンジニアリング会社の下請けの、つまり第四層目以下の企業とか、それに雇われた臨時雇いの技術作業員たちだった。左近尉は放射線関係の業務も請けていたから、このような現場で被ばくカウンターを外して原子炉に突入していた放射線技師とも、何度も話したことがある。

吉田所長は「英雄」でなければならない。

これが、脱原発のサヨクにとっても、あるいは原発再稼働派のウヨクにとっても、デタラメな現場の矛盾を糊塗するためには必要なことだった。

 

しかし、吉田元所長は死亡してしまった。

この現実は重い。

他にも何名も、これと似たように、「癌の進行で死亡した」とかされてしまった、現場の担当者が多くいた可能性がある。

しかしこれらの事実は、フジテレビ批判デモ以上に、厳重に秘匿されてしまうのだろう。

 

是では実際に死んだ者が浮かばれない。

それでネットなどでは、吉田氏は英雄として、実話以上に祭り上げられる。

わが郷・左近尉は吉田氏を貶めるために是を書いているのではない。彼は勇敢にも、被ばくをものともせずに、現場の事故処理の指揮を全うした。その末に殉職なされた。そして無念なことではあるが、このことは公式には絶対公表されない。かれはあくまでも、「業務とは無関係の、癌で死亡した。」このように言われ続けねばならない。

 

左近尉は思うのだが、これでは事故の真摯な反省の上に、無事故の原発を再構築する。このような日本国家の要請とは、相反する仕儀ではある。

現場は実際に命がけ。

 

このことは、現場担当者が一番骨身にしみている。

しかし、政治家とか、あるいはあってはならぬことだが、東電の役員とか原発メーカーの役員たちが、知らなかった。これでは事故の再発だって十分にあり得る。

 

なので、岡目八目。外部から余分なことで、当たっていない可能性もある。しかし、おなじ放射線に自分の身を晒して働いたものとして、書かずにはおられなかった。

 

 吉田 昌郎【岩水・人物】1955 ~ 2013 吉田 昌郎 原発事故

 

 

 

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