陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

牛馬と見える道  があるから

2016-12-13 23:23:26 |  エッセイ
 おふでさき八号です。

  月日よりみなそれへとみさだめて 善とあくとをみハけするぞや 八 52
   月日よりみなそれぞれと見定めて 善と悪とを見分けするぞや
 「善と悪」ですが、「悪」は、54の歌「牛馬と見える」姿。「善」は、55の「受けとりたならみな助けるで」という自由自在の姿。
 先ず、「悪」については、11、51の歌で「どんなこと、何処のことでも知らぬ事なし」と言って「月日の方へみな映るなり」とその警鐘が鳴らされている。それは「良いなることと更に思うな」とある32~34の「ほうそ許し」とは違った「またの助け」、それが「悪」の姿だと断定しているのです。
 「おびや許し」、「ほうそ許し」とは、全ての生き物の生命を受け継ぐために安産させること、この世に生れた生命はどんなにか弱くても神が引き受けるという、神の自由の働きが「許し」です。対するこの「またの助け」は、呪符に『おびや許し』と同じ言葉を当てて、これを身につけると、出産を「早めること、延ばすこと」の自由自在の御利益があるなどと嘯いて、売りつけて儲けている姿を「悪」と決めつけて、そんなのは「世界並み」の拝み祈祷以外の何物でもないとこき下ろしている。みかぐらうた六下り目ではこれを「心得違い」と歌って、それでも信仰していると言うなら、一から「やり直す」しかない、と歌っている。

 その「悪」を53、54。55~67でやさしい言葉を配して追及する。
  たんへとをんかかさなりそのゆへハ きゆばとみへるみちがあるから 八 54
   だんだんと恩が重なりその故は 牛馬と見える道があるから
 そのような心得違いの「悪」の信仰の姿を、牛馬と見える道と言っているのです。ここでの「見える」という言葉は、この後の56、57の歌でも使います。「今まではどんな話をしたるとも、何も見えた事はなけれど」、― この道の教えをいくら説いて聞かせても、五感、物の世界でいう形、物が増えるという内容の話ではないから、形には見えない。けれども「これまでもみな見えきたる事なれど― 実際は「おびや許し」、「ほうそ許し」で全ての生き物の安産と生命を保証して、「病まず死なずに暮らす事なら」という月日の働きがあって、「今」のそれぞれの姿、生命が守られているのに…、そのことに気づいていない
 「見える」をこういう使い方をして、数え上げたらきりがない程の神の守護があっても、それを喜ぶどころか、「むしょうやたらに願い出る」と、更に求め続ける人間の姿を「恩が重なり」、それがゆえ、月日に「牛馬と見える」、と言わせているのです。
 その言い方、「牛馬と見える」をもっと言うなら、これだけ説き聞かせても、ただ耳を貸しているだけというような「馬耳東風」と当てるとか、もっとかみくだいて、「幼稚に見える」と当てもおさまりそうであるが…
 それを『牛馬に落つる』と歌を変えてしまって、善因善果、悪因悪果の話に無理やりこじつけてしまうと、みかぐらうたとおふでさきの過去と未来の一切ない「今がこの世の創まり」と宣言している「今」だけのストーリーから脱線してしまう。

  かみなりもぢしんをふかぜ水つきも これわ月日のざねんりいふく 八 58
   雷も地震大風水つき(増水)も これは月日の殘念立腹
 「善」とは、2、3で歌っている一人残らずの人間を助けるために教えるおつとめが表す、調和にあること、それが「善」の姿です。この世の全ては微生物から人間、銀河にいたるまで、本当は個別の存在ではなくて、互いに影響し合い、絡み合い、つながり合って永遠の生命がある。この世で独立して存在するものは何もなくて、人間もその一部だから、それを人間が忘れると「雷、地震、大風…」で神が忠告するのです。

  このさきハたすけ一ぢよにかゝりたら どのよなものもいさむばかりや 八 69 
   この先は助け一条にかかりたら どの様な者も勇むばかりや
 「善」の姿があれば、55「どの様な者でも月日真実を、受けとりたならみな助けるで」という月日の働きがある。それを受けるためには、みき様の教えを「上」が差し止めたことを口実にして、拝み祈祷に戻ってはならないのです(1)。直ぐにでもおつとめを再開する。「本元」をしっかり確かめて、それにそった行動ができるなら、もう「牛馬」でなく、真の人間としての姿に『見えますよ!』


     この宇宙 調和してないものなど 何もない
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                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講



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