蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

想い、断ち難く……

2015年06月30日 | つれづれに

 薄明の中で遠くヒグラシが鳴いた。石穴稲荷の杜の奥、間もなく5時になろうとする頃だった。去年より3日早く、私の耳に届いた今年の初鳴きだった。間もなく、わが家の庭の八朔の辺りで、たくさんのセミ達の羽化が始まる。ワクワクする競演の季節が今年もやって来た。
 珍しくこの団地の中で、見事に熟練したウグイスが、鈍色の雲の重さを払うように軽やかな囀りを届けてくる。

 「断・捨・離」と心を決めて数百冊の本を処分した。売れるものはブックオフに持ち込み、変色して売り物にならないものは3度に分けて子供会の資源回収に出した。2階の書庫がスッキリと片付き、僅かに傾ぎかけた大黒柱の負担も幾分軽くなった。
 しかし、いまだに迷いに迷って捨てきれずに倉庫に置いていた一括りの本を、とうとう再び書庫に戻した。
 大杉 栄譯「ファーブル昆虫記」全10冊、付録としてファーブルの伝記が1冊付いている。裏表紙を開くと、「昭和28年6月29日 求」と下手な字で書かれてある。おまけに私の署名とゴム印まで押す念の入りように、やっと手に入れて舞い上がった当時の喜びの残滓が窺えて、懐かしく可笑しい。
 62年前の昨日、昆虫少年真っ盛りの14歳、中学2年の梅雨の頃である。地方定価350円、全11冊4000円近い買い物に、父に何度もせがんだ記憶がある。(「定価」と「地方定価」が併記してある。運搬費を考慮したものでもあろうか?)以来、座右に置く私の秘蔵本となった。
 大杉 栄。およそ「昆虫記」との接点は窺えない不思議な翻訳だけに、今となっては一層貴重である。当時はひたすら虫虫虫で生きる毎日だったから、翻訳者のことなど詳しく知ることもなかったが、彼は明治・大正における文学者であり、日本の代表的な思想家(アナーキスト)だった(アナーキスト:国家や権威の存在を不要・有害とし、その代わりに国家のない社会または無政府状態の社会を推進する思想)。
 「自立した個人の絶対的自由」を求める徹底した個人主義者であり社会主義者だった。「ファーブル昆虫記」を日本で初めて翻訳出版した翌年(、1923年、大正13年)関東大震災直後に、危険思想のリーダーとして憲兵隊に捕えられ、甘粕大尉により殺害された。
 彼は又自由恋愛論者でもあり、堀保子と結婚したが入籍はせず、やがて神近市子に続き、伊藤野枝とも愛人関係となった。3人の女性達からは常に経済的援助を受けていたが、伊藤野枝に愛情が移ったのを嫉妬した神近市子によって刺され、瀕死の重傷を負った。(以上、ネットからの受け売り)

 歴史に刻まれた名前が何人もちりばめられたこの生涯の中で、どこに「昆虫記」の存在があったのだろう?かねて「ファーブル昆虫記」を訳したいという思いがあって、投獄されていた中野の奥多摩監獄で思い立ったというが、その辺りの謎が、ますますこの本を捨て難くさせてしまう。
 スカラベ・サクレ、セルセリス、ベンベクス、カリコドマ……懐かしい虫たちの名前が、ふと少年期のときめきを甦らせる。
 うん、やっぱり、このまま書庫に残しておこう。いずれ彼岸に渡る時が来たら、棺桶の中に収めてもらって、久し振りに読み耽りながら三途の川を渡ることにしよう。

 ……などと、愚にも付かないことを考えながら、俄かに激しくなった雨音を聴いていた。梅雨前線北上、いよいよこの辺りも雨に閉じ込められる日々となる。
 今年も今日で折り返す。今朝初鳴きを聴かせたヒグラシは、今頃何処の葉陰で雨宿りをしているのだろう?
              (2015年6月晦日:写真:「ファーブル昆虫記」)


<注釈>
甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年~1945年)は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。
 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の混乱時に、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕はアナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(7歳)の3名を憲兵隊本部に強制連行の後、厳しい取調の結果、死に至らしめ、同本部裏の古井戸に遺体を遺棄した、いわゆる甘粕事件を起こした。
 事件では憲兵や陸軍の責任は問われず、すべて甘粕の単独犯行として処理され、同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。
 短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した

伊藤 野枝(いとう のえ、1895年~1923年)は、日本の婦人解放運動家、作家。雑誌『青鞜』で活躍。わがままと言われる反面、現代的自我の精神を50年以上先取りした。不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じた。甘粕事件で殺害された。

神近 市子(かみちか いちこ、本名:神近イチ、1888年~1981年)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家である。1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人伊藤野枝に心を移したことから、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷。殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。
 戦後は一時期、政治家に転身し、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。





遠くにありて……

2015年06月08日 | 季節の便り・旅篇

 50年以上憧れていた北アルプスの峰々だった。残雪頂く険しい山々の姿を一度見たい……そう憧れ続けてこの歳になった。井上 靖の「氷壁」や、新田次郎の山岳小説に読み耽った高校・大学の頃……山歩きは好きで中学時代から続けていたが、所詮は九州の久住連山を中心としたトレッキングに過ぎなかった。高さこそ富士山の3,776mの剣が峰を踏んでいるが、銀座状態の味気ない夏の富士山でしかない。北アルプス、南アルプス、谷川岳などの冬期登攀や雪山縦走、ロッククライミングなど、本格的登山家は遠い憧れの向こうにあった。
 だから、上高地はそうした山岳小説に描かれた聖地として、夢の中にあった。一度でいいから、峻険な峰々を身近に仰いでみたい!……だから、金婚式を迎えた記念旅行に、躊躇いなく選んだのが「上高地・立山黒部アルペンルート・黒部渓谷トロッコ列車・世界遺産白川郷3日間」という、あの頃には想像も出来なかった盛りだくさんのツアーだった。まさしく、憧れを一気飲みする強行スケジュールであり、多分最後のチャンスでもあっただろう。
 「セントレア Centrair)」という、知らなければ意味が分からない愛称を持つ中部国際空港。(英語で「中部地方」を意味する"central"と「空港」を意味する"airport"を組み合わせた造語だそうだが、わが町太宰府の中央公民館がプラムカルコアと名乗るように、おさまりの悪いネーミングが流行っている。プラムカルコアの意味は敢えて書かない)ここを起点に観光バスで走り出した総勢30名のツアーは、3日間で780キロをひた走り、階段や木立の中の散策など24,000歩を歩くハードな旅となった。
 上高地の梓川沿いに歩く木立の向こうに、西穂高岳、間ノ岳、奥穂高岳、前穂高岳、明神岳の峰々が残雪をいただいて聳えていた。黒部平(1,828m)→大観望(2,316m)→室堂(2,450メートル)とトロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイを連ねて積雪12メートルを残す大谷ウォークへと辿る道すがら、眼下黒部湖を覆い包むように聳え立つ立山連峰、後立山連峰の数々の山の姿に、ようやく50年来の夢を果たした。自らの足で踏みしめることは望むこともなく、鹿島槍ヶ岳など、多くの山々と記憶の中にある名前は一致しない。唯一、黒部湖を抱く針の木岳をしっかり記憶に残して、もうあとは何もいう事はなかった。これだけで、結婚50周年記念に十分見合うものがあった。山はやはり期待を裏切らなかった。
 団体の騒ぎが届かない「ホテル立山」で束の間の静寂に浸り、雪解け水で淹れた美味しい珈琲を喫みながら、「静かなり、限りなく静かなり」と閉じた「氷壁」の結びを思い出していた。
 
 しかし一方で、観光化が進み、秘境の神秘性を喪って俗化してしまった白川郷を含め、銀座状態に騒々しく乱れた上高地・河童橋も、アジアの異国語が姦しく湧きたち、それらの国々の文字が落書きされた猥雑な雪の壁が続く大谷ウォークも、何処に行っても傍若無人に振る舞う集団に席巻された観光地に、破壊された憧れも少なくなかった。夢や憧れは、年を経るごとに美化され輝きを増していく。一方、現実は年毎に退廃して色を失っていく。その落差の果ての出会いだった。
 遠くから憧れたままにしておく方がいいこともある……そんなことをしきりに思う旅でもあった。国を挙げて観光客誘致を押し進める陰で、急速に失われていくものがある。「おもてなし」の流行り言葉だけでは守りきれない、静かな佇まいと自然がある。

 留守の間に、九州はひっそりと梅雨入りしていた。
            (2015年6月:写真:黒部湖と針の木岳)