蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夏の背中

2005年09月28日 | つれづれに

 無数の蝋燭が心字池にかかる太鼓橋を彩り、大宰府天満宮の秋の大祭が終わった。夏への訣別。昼間の日差しにはまだ夏の未練が垣間見えるものの、この祭が終わると太宰府の秋は俄かに足取りを速める。
 鈴虫の声が途切れようとしている。昨夜、生き残った3匹のうちの一匹が足を縮め、虫かごの片隅でひっそりと短い生涯を終えた。およそ2ヶ月の間、綺麗な声を聴かせてくれたことを思い、じんと来るものがあった。朝の涼しい風の中、庭の隅のアセビの根方に、ティッシュで包んで埋めた。それは過酷だった今年の夏の弔いでもあった。小さな身体で鳴き続けた2ヶ月の健気な一生だった。弔いに花を添えるように、淡くピンクを掃いた白花ホトトギスがこの秋初めての花をつけた。
 いつもの山仲間から、秋の久住高原に山野草探訪の誘いが来た。町内の行事が続く中の忙中有閑、山小屋の一泊が気持ちをそそる。先日痛めた右足に不安があり、暫く休んでいた天神山の急ぎ歩きに出掛けてみた。
 団地を抜け、県道を踏み渡って、間もなく開館する九州国立博物館の4つのアクセスのひとつ、九州歴史資料館脇の坂を上がる。太郎左近社の小さなお社の脇ののり面にススキが穂を開いて秋を告げ、下って右手には国立博物館の青い大屋根が日差しに輝いていた。西高辻宮司の屋敷の裏塀を迂回し、裏から菖蒲池の畔に出て右折すると、博物館へのアクセス・ステーション。甍を反り返したエスカレーターから動く歩道を連ねるトンネルは、七色のイルミネーションが変化するロマンティックな空間である。
 だざいふ遊園地の脇から天神山への山道を上がる。ジグザグ道を一気に登り詰めると、静かな遊歩道が遊園地を巻くように続く。まだ青いドングリが落ち、道端には丸い玉を頂に置いたウバユリの茎がすっくと立ち上がり、法師蝉が名残の声を落としてきた。伏見稲荷から分霊した天開稲荷のベンチでひと休みし、木立をくぐる秋風に吹かれた。汗に濡れた身体を撫でる風の心地よさはいつもながら喩えようがない。
 ドングリを拾いながら小さな起伏を歩き、下って車道を右折すると、道はやがて博物館へのアクセス道路と平行する。どの道もほぼ完成し、植え込みも根付いた。アジアへの文化の発信がやがてここから始まる。
 再び40度の急傾斜を身体を前に倒しながら登り上がる。ここは歩く人も少なく、台風で倒れた木や枯れ枝が散在していた。ひとつひとつ片付けながら梅林の中を下ると鬼すべ堂の傍に出て、やがて再び遊園地の前に戻ってくる。私のお気に入りの小一時間の散策路である。
 夕風が吹く。日除けの簾を巻き上げるように、時折強く吹きすぎる。夏の背中はもう遙か遠くに消えようとしていた。
        (2005年9月:写真:シロバナホトトギス)

ふたたびの怒り

2005年09月26日 | つれづれに

 ここに一冊の本がある。「だれも沖縄を知らない」(森口豁著・筑摩書房2005年7月15日刊、¥1900)。沖縄県下40の有人島、その27の島々を巡るルポルタージュである。それは紛れもない怒りの書であり、しまちゃび(離島苦)、悲惨な戦場(いくさ場)をの体験、アメリカ一辺倒の国策を皺寄せされた基地問題、本土並という美辞のもと、本土資本に翻弄され、美しい自然ばかりでなく人の心までむしばまれていった辺境の苦しみの足跡等々……それは決して沖縄だけの問題ではなく、日本の政治と行政(利権・金権という共通軸に貫かれた現在の政治家や行政官庁、土建屋をはじめとする財界、そして一部の御用学者も含めた集団の詭弁と愚行を政治と云えるのならば、だが)そのものの縮図でもあり、それに気付かず他人事として醒めた目で見ている本土の人間への糾弾の書でもある。読み終えて沸々と滾るものに身のやり場を失った。
 それには訳がある。以下は3年前の秋、多くの政治家を輩出する母校・修猷館高校の同窓会誌に投稿した叱咤の一文である。

 ……日差しが次第に鋭角となり、空気にピンと張りつめた気配が漂いはじめると秋が深まる。早くも、吹く風にかすかに潜む冬の予感。叩きつけるように苛烈な南の国の真っ盛りの夏が、ふと懐かしくなる。
 6月末、まだ梅雨たけなわの本土を逃げ出し、ひと月早く明けたばかりの沖縄に飛んだ。学生が夏休みで動き出す前のこの10日間が穴場なのだ。那覇のホテルで荷物をほどいて、翌日、泊港から高速艇に乗った。
 およそ50分、慶良間諸島・座間味島。その古座間味という小さなビーチでスキン・ダイビングに浸る。波打ち際から数メートル波に浮かぶと、もうそこはエメラルド・グリーンのサンゴ礁である。恥ずかしくなるほどの透明な水に眩しい光がしみ通り,色とりどりの熱帯魚が群がってくる。モンガラカワハギに臑毛をつつかれたり、大きなブダイの口に、餌付けする指を吸い込まれたりしながら、時を忘れ歳を忘れた。
 翌日、読谷の陶芸家礼子さんの窯を訪ね、その友人の浦島さんの案内で沖縄本島北部・山原(ヤンバル)の森を歩いた。
 名護経由塩屋湾に走り、福地ダムから玉辻山に登り、大宜味村で昼食を食べて奥間川を少し遡行し、与那覇岳の中腹を歩いて日暮れに追われるという慌ただしいトレッキングだったが、ズシンと心に響くものがあった。
 標高300メートルの玉辻山の頂に立つと、眼下に濃密な亜熱帯の原生林が広がる。自然保護と基地廃絶の闘士である浦島さんが、指先に怒りを篭めて淡々と語る。この目の下の深い森は米軍のゲリラ戦訓練場で立入禁止、向こうに見える美しい辺野古の海は稀少種ジュゴンの生息圏、そこに普天間基地の代替ヘリコプター訓練基地が珊瑚を破壊して築かれようとしている、と。
 ここに至る道筋、森が切り開かれて舗装され、発見されてまだ20年余りのヤンバルクイナやノグチゲラが早くも絶滅に瀕している現場を見た。ノグチゲラが営巣するスダジイの古木が新しいダム建設のために無惨に伐採され、その丸太を近くの若木に縛り付けて営巣させようという痛々しい、そして愚かな人間の浅知恵も見た。南部の眩しい日差しに輝いていたアリアケカズラの黄色と対照的に、ヤンバルの木漏れ日に震えるホソバボノノボタンの可憐が心にしみた。
 バンダナを巻いた頭頂に斧を打ち込むような真夏の日差しが痛かった。それは絶望にも似た怒りの痛みでもあった。政と経が利権と金権にまみれて、途方もない破壊を重ねている。ギロチンを釣瓶落としに叩き込んでいった諌早湾干拓工事のニュースの映像が、再び背筋が震えるような怒りと共に思い出される。
 生き物の頂点に立つという驕りを持ったときから、ホモ・サピエンスは地球(ガイア)という生命体を破壊する唯一最悪の種となった。環境破壊はもう既に折り返せる限界点を越えたという。人類は滅びの笛を聞きながら坂道を転げ落ちている。そして、その道連れに、これまでどれだけ多くの生き物たちを絶滅に追いやったことだろう。政財界に数多くのリーダーを輩出する母校に、ふとおぞましさを感じるのはこういうときだ。「政・経に携わる先輩後輩諸氏よ、もちっとシカシカッとせんかい!」と叱咤したくなるのだ。
 10月8日、国は沖縄で又新たな開発(破壊)工事に着手した。南西諸島最大の泡瀬干潟を埋め立て、リゾート施設を作るという。底生生物や藻類の豊かな海が、またひとつ消えていく。長い旅の羽を休めていた渡り鳥たちはいったいどこへ行けばいいのだろう。……

 この秋、この本で改めて工事の実態を知った。その「マリンシティー泡瀬」という「海殺し」公共工事、実は泡瀬干潟の65%を埋め立て、大小6つのホテルやゲーム場、映画館などを建てれば、年間56万4千人の観光客が、平均5.2泊するという“行政の言葉遊び”の杜撰な計画に基づくものだという。そして、工事が進む3年後の今も、進出を約束した業者はいない。「補助金」という税金を湯水の如くコンクリートで流し込み、土建屋とその後ろで蠢く政治屋を太らせるだけの公共工事という不気味な怪物。それを平然と進めている政治屋集団を圧勝させてしまったこの秋の総選挙。安易に一票を投じた人達に、この「だれも知らない沖縄」を是非読ませたいと思う。
 ふたたびの怒り、それは底知れない恐怖の予感でもあった。
        (2005年9月:写真:「だれも沖縄を知らない」表紙)

秋、つれづれに

2005年09月20日 | つれづれに

 蛇口をひねって、ふと水を暖かく感じる朝がある。秋風が立った。その空気の冷たさに追いつけず、大地はまだ夏の火照りを残して、水道の水を温かく感じさせるのだ。今年の秋は、こんな小さなことから始まった。
 ひと月以上懸命に鈴を転がし続けた5匹のスズムシが3匹になり、澄んでいたその声も少し掠れ始め、次第に勢いを増すコオロギの声に包み込まれていく。冬に備えて山に帰る途中のシジュウカラが名残の声を聴かせ、断ち切るような百舌の裂帛が冴える。夏と秋の小さなせめぎ合いも次第に秋の旗色が濃くなり、9月が進んでいく。庭先の思いがけない所から白い彼岸花が立ち上がり、棚の上ではかすかに緑に染まるオゼギボウシが高い茎の上に白い花を並べた。窓辺の夕顔、宵闇の月下美人……今、蟋蟀庵の庭は白い花の競演である。
 得体の知れない選挙が終わった。問題をすり替えた傲慢な権力者の詭弁に乗せられた人々が、世の中を大きく傾けた。日本人はここまで愚かになったのかと慨嘆しながら、不気味な足音を聴いている。イラク派兵がなし崩しに正当化され、やがて平和憲法に手が着けられるのも必至、無定見な外交が益々日本を孤立させるだろう、北朝鮮の拉致問題も結局権力闘争に利用されただけなのか、経済も年金問題も増税も、環境問題も少子化問題も、先行きは見えないままに、日本は人口減少時代にはいった。気が付いてからでは遅い。いつかきっと後悔を強いられる時代が、遠からず来るように思えてならない。若者の正義は何処に消えてしまったのだろう。今ほど学生の社会的存在感が希薄な時代はない。そう言えば、初夏のアラスカ・クルーズから帰って成田に降り立ったとき真っ先に感じたのは、日本の若者はどうしてこんなに薄汚いのだろう、ということだった。
 町内のお年寄りを招いて、敬老会が今年も盛会裡に無事終わった。携わって5年目、今年も喜んでいただいたという満足感の裏に、一年ごとに歳を取る姿を目の当たりにする寂しさがある。辛さがある。高齢化率30%を超える自治区を預かる重さが、ズッシリ肩に落ちかかる。
 その夜、近付いた九州国立博物館開館を記念して、大宰府天満宮で薪能が行われた。迫る闇の底から沸き上がる虫の音に呼応して響く鼓の冴え、篝火の揺らぎの中で繰り広げられる幽玄の舞いに心を鎮めた。やがて来る開館式に文化庁から招きを受けた。皇太子殿下の来臨を仰ぎたいという声もある。起工式、竣工式、そして開館式と、思いがけず100年の願いを篭めた歴史的瞬間に立ち会える幸せを思う。
 ひとり夜道を帰る頃、国立博物館の青い屋根の上に、見事な十六夜の月が出た。少し湿気を帯びながらも、吹く風は間違いなく秋だった。
           (2005年9月:写真:オゼギボウシ)