1
本歌集の作品は、著者・坂口弘から私の手元に送られてきた二〇〇〇年から二〇〇七年まで八年間に制作された七八四の中から、私が選歌して、三三四首を選んで一冊としたものである。
作者としてはもっと多く採録したかっただろうと思うが、スペースの関係でこの数になった。また、原作は石川啄木にならって三行書きなのだが、これもスペースの関係で一行書きとさせてもらうことになった。
前の歌集『常しへの道』の「解説」にも書いたが、私と坂口弘が接点を持つようになったのは、一九八九年に彼が「朝日歌壇」に投稿してきて、選者である私がそれを選んだ縁による。それ以後、彼は二十数年の間、中断することなく作歌をつづけてきた。
短歌という詩型は、一千四百年という長い歴史を持っている。自分勝手に作ったのでは、自分の思いを正確に表現することができない。それなりのレトリックをマスターしないと、伝統の重みにつぶされてしまう。その点、坂口は充分のキャリアを積んできたと言っていい。
坂口弘が浅間山荘事件で逮捕されたのが一九七二年二月、最高裁で死刑判決が出たのは一九九三年二月だった。彼は今日まですでに四十六年のあいだ獄中におり、そのうちの二十年間を死刑囚として生きてきたことになる。
死刑執行のその日がいつくるかもしれない不安と戦う日々である。彼の言葉をかりれば、その間、死刑執行は着実に行われてきた。正式に通知されるわけではむろんないのだろうが、気配でなんとはなしに情報が伝わってくるのだろう。
そのような状況の中で、彼は自分の番が廻ってくるかもしれない不安を、短歌にうたうことで乗り越えてきたのである。
在るままに生死巌頭(しやうじがんとう)に立つ身なり悪すぎる生といまは思は
壁に貼るカレンダーが欲し一日ひとひ安危の際を生きゐる身には
これらの歌の背景に広がる、坂口の生と心がたどった長い長い道筋を思わないではいられない。
2
次のような作を読んで、私はぎくりとさせられる。
切り抜きの新聞写真の大判の海原多かり海見たきかな
獄窓によりルーバーのすき間を往き来せる夜の電車をただただ見てをり
海が見たい。電車が見たい。なんとかして見たいという切実な思い。これらの作に私たちがぎくりとした気分を味わうのは、私たちが忘れていた飢餓の感覚を思い起こさせるからだろう。私たちが当たり前と思っている日常のあれこれに、飢餓感をおぼえるほど渇望する感覚。
「あとがき」によれば、現在の彼は全く建物から出ることがない生活をつづけているという。つまり、花鳥風月とまったく隔絶した空間で作歌してきたわけである。
春の若葉、夏の草花、秋の紅葉、雪野を照らす月などをまったく見ることがない日々。太陽、流れる雲、木の葉をゆらす風、家の屋根を濡らす雨といった変化する気象とまったく無縁の時間。虫の声や小鳥のさえずりを聞くことがない日々。そういう特異な環境の中でこれらの歌は作られてきた。
ゆつくりと白夜の空を染むるてふ夕焼けと聞けばなほし生きたし
死を待てるカプセルの室にチョモランマの頂の石あれとし願ふ
赤き皮に黄斑かぎりなき林檎をばつくづく見つつ銀河想へり
夕焼けが見たい、山の小石にさわりたい、想像力の翼を精一杯はばたかせることで、心の中に広がる夕焼けを見、思いの中のチョモランマの石にさわっている。一個の林檎を徹底的に見つめきる力で、一人の部屋に大空の銀河を誘い込んでいる。
3
坂口弘は一九四六年生まれだから、もう七十歳に近い。人生を見わたすことができる年齢である。
手を洗へばシャボン玉立てりシャボン玉を無数につくり幼に戻らむ
なりたきは総理と書きて笑はれし小学四年のわれなりしかな
足にかかる脱ぎし肌着の温もりに妻なる肌膚のぬくもり思ふ
あらざるにわが子の名前を考へをり死刑囚にして独り身のわれが
どれも、ほほ笑ましい作とも読めるが、なんとも悲しい作とも読める。私たち読者は、自身の子供時代を想起し、自分の人生を思いつつ、坂口弘という男性の人生について思いを及ぼすのである。
この歌集は、二〇〇七年の歌で終わっている。二〇〇八年以後の作はここにはない。ここで終わっているのに特別な理由がある訳でわけではなさそうだが、二〇〇八年に坂口の母・菊枝さんが九十三歳で他界されていることを思うと、坂口が二〇〇七年で歌が終わらせたことに、ある区切りの意味があったのではないかと思わせられる。
『常しへの道』にも母の歌が多かったが、この歌集にも母の歌は多い。
縮みたる母の身体に縮まざる大き双手がいつも目に付く
昨日ありし重信逮捕には触れももせで朝まだき母は面会に来つ
子の吾に悩める母が子のことでいま悩む人多しと言へり
仕切り越しに母の手の爪わが爪に似てゐることよと今に気づけり
牢のまはり桜さけりと母の言へばそを反芻しさくら思へり
甚兵衛の欲しと思へば交付されぬ送れる母の絶妙な手際
どれもいい歌だと思う。坂口の歌はどれもまなざしがやさしいが、母をうたう歌は格別は特にやさしい。面会室の仕切り越しに母の見るやさしい視線が読める。面会の折の母の言葉の一語一語をていねいに聞き、別れた後も反芻している様子が伝わってくる。
私は、坂口菊枝さんと『常しへの道』をつくるときにはじめてお目にかかった。たしか東京駅八重洲口近くのホテルの喫茶室だったと思う。浅間山荘事件のさなかに現場に行き、ご自身でマイクで呼びかけられたと聞いていたので、強いタイプの方かと思っていたのだが、まったくちがっていて、華奢でやさしい感じの方なので驚いた記憶がある。
その折は、息子がどれほど歌に熱心に取り組んでいるか、自分としても歌集刊行の実現を切望しておられるむねを熱心に話された。昼の長い夏の日だったが、日暮れ近くまで夢中で話をされていたのを思い出す。
『常しへの道』は菊枝さんにお読みいただいた。この歌集もできれば坂口菊枝さんに読んで欲しかったと思う。
著者は、母の死を、自分の人生の大きな区切りと考えたのだろう。そう思いつつ、私はあらためて坂口の母をうたった歌を読みかえすのである。
2015年2月
本歌集の作品は、著者・坂口弘から私の手元に送られてきた二〇〇〇年から二〇〇七年まで八年間に制作された七八四の中から、私が選歌して、三三四首を選んで一冊としたものである。
作者としてはもっと多く採録したかっただろうと思うが、スペースの関係でこの数になった。また、原作は石川啄木にならって三行書きなのだが、これもスペースの関係で一行書きとさせてもらうことになった。
前の歌集『常しへの道』の「解説」にも書いたが、私と坂口弘が接点を持つようになったのは、一九八九年に彼が「朝日歌壇」に投稿してきて、選者である私がそれを選んだ縁による。それ以後、彼は二十数年の間、中断することなく作歌をつづけてきた。
短歌という詩型は、一千四百年という長い歴史を持っている。自分勝手に作ったのでは、自分の思いを正確に表現することができない。それなりのレトリックをマスターしないと、伝統の重みにつぶされてしまう。その点、坂口は充分のキャリアを積んできたと言っていい。
坂口弘が浅間山荘事件で逮捕されたのが一九七二年二月、最高裁で死刑判決が出たのは一九九三年二月だった。彼は今日まですでに四十六年のあいだ獄中におり、そのうちの二十年間を死刑囚として生きてきたことになる。
死刑執行のその日がいつくるかもしれない不安と戦う日々である。彼の言葉をかりれば、その間、死刑執行は着実に行われてきた。正式に通知されるわけではむろんないのだろうが、気配でなんとはなしに情報が伝わってくるのだろう。
そのような状況の中で、彼は自分の番が廻ってくるかもしれない不安を、短歌にうたうことで乗り越えてきたのである。
在るままに生死巌頭(しやうじがんとう)に立つ身なり悪すぎる生といまは思は
壁に貼るカレンダーが欲し一日ひとひ安危の際を生きゐる身には
これらの歌の背景に広がる、坂口の生と心がたどった長い長い道筋を思わないではいられない。
2
次のような作を読んで、私はぎくりとさせられる。
切り抜きの新聞写真の大判の海原多かり海見たきかな
獄窓によりルーバーのすき間を往き来せる夜の電車をただただ見てをり
海が見たい。電車が見たい。なんとかして見たいという切実な思い。これらの作に私たちがぎくりとした気分を味わうのは、私たちが忘れていた飢餓の感覚を思い起こさせるからだろう。私たちが当たり前と思っている日常のあれこれに、飢餓感をおぼえるほど渇望する感覚。
「あとがき」によれば、現在の彼は全く建物から出ることがない生活をつづけているという。つまり、花鳥風月とまったく隔絶した空間で作歌してきたわけである。
春の若葉、夏の草花、秋の紅葉、雪野を照らす月などをまったく見ることがない日々。太陽、流れる雲、木の葉をゆらす風、家の屋根を濡らす雨といった変化する気象とまったく無縁の時間。虫の声や小鳥のさえずりを聞くことがない日々。そういう特異な環境の中でこれらの歌は作られてきた。
ゆつくりと白夜の空を染むるてふ夕焼けと聞けばなほし生きたし
死を待てるカプセルの室にチョモランマの頂の石あれとし願ふ
赤き皮に黄斑かぎりなき林檎をばつくづく見つつ銀河想へり
夕焼けが見たい、山の小石にさわりたい、想像力の翼を精一杯はばたかせることで、心の中に広がる夕焼けを見、思いの中のチョモランマの石にさわっている。一個の林檎を徹底的に見つめきる力で、一人の部屋に大空の銀河を誘い込んでいる。
3
坂口弘は一九四六年生まれだから、もう七十歳に近い。人生を見わたすことができる年齢である。
手を洗へばシャボン玉立てりシャボン玉を無数につくり幼に戻らむ
なりたきは総理と書きて笑はれし小学四年のわれなりしかな
足にかかる脱ぎし肌着の温もりに妻なる肌膚のぬくもり思ふ
あらざるにわが子の名前を考へをり死刑囚にして独り身のわれが
どれも、ほほ笑ましい作とも読めるが、なんとも悲しい作とも読める。私たち読者は、自身の子供時代を想起し、自分の人生を思いつつ、坂口弘という男性の人生について思いを及ぼすのである。
この歌集は、二〇〇七年の歌で終わっている。二〇〇八年以後の作はここにはない。ここで終わっているのに特別な理由がある訳でわけではなさそうだが、二〇〇八年に坂口の母・菊枝さんが九十三歳で他界されていることを思うと、坂口が二〇〇七年で歌が終わらせたことに、ある区切りの意味があったのではないかと思わせられる。
『常しへの道』にも母の歌が多かったが、この歌集にも母の歌は多い。
縮みたる母の身体に縮まざる大き双手がいつも目に付く
昨日ありし重信逮捕には触れももせで朝まだき母は面会に来つ
子の吾に悩める母が子のことでいま悩む人多しと言へり
仕切り越しに母の手の爪わが爪に似てゐることよと今に気づけり
牢のまはり桜さけりと母の言へばそを反芻しさくら思へり
甚兵衛の欲しと思へば交付されぬ送れる母の絶妙な手際
どれもいい歌だと思う。坂口の歌はどれもまなざしがやさしいが、母をうたう歌は格別は特にやさしい。面会室の仕切り越しに母の見るやさしい視線が読める。面会の折の母の言葉の一語一語をていねいに聞き、別れた後も反芻している様子が伝わってくる。
私は、坂口菊枝さんと『常しへの道』をつくるときにはじめてお目にかかった。たしか東京駅八重洲口近くのホテルの喫茶室だったと思う。浅間山荘事件のさなかに現場に行き、ご自身でマイクで呼びかけられたと聞いていたので、強いタイプの方かと思っていたのだが、まったくちがっていて、華奢でやさしい感じの方なので驚いた記憶がある。
その折は、息子がどれほど歌に熱心に取り組んでいるか、自分としても歌集刊行の実現を切望しておられるむねを熱心に話された。昼の長い夏の日だったが、日暮れ近くまで夢中で話をされていたのを思い出す。
『常しへの道』は菊枝さんにお読みいただいた。この歌集もできれば坂口菊枝さんに読んで欲しかったと思う。
著者は、母の死を、自分の人生の大きな区切りと考えたのだろう。そう思いつつ、私はあらためて坂口の母をうたった歌を読みかえすのである。
2015年2月
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