ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

甲府・金桜神社・信綱歌碑の除幕式

2018年07月10日 | 日記
『思草』巻頭歌の歌碑を建てよう、数年前に晋樹隆彦が思いついたアイディアがついに実現しました。
 以前にこのブログに書きましたが、3年ほど前に、三枝昂之(山梨文学館館長)三枝浩樹(山梨県歌人協会会長)、晋樹隆彦、佐佐木頼綱と小生で、神社に下見に行ったりしました。

 7月8日12時から、昇仙峡に近い金桜神社の境内で、「心の花」会員をはじめ、山梨県歌人会等地元の人たちも来てくれて、70人ほどがあつまって歌碑の除幕式が行われました。
 雨が心配されましたが、幸い降られることなく、無事に式を終えました。私は、最近では、5,6年前に、成蹊学園に建てられた中村草田男句碑の除幕式に参加しましたが、それ以来のことでした。
 神主さんが祝詞をあげ、榊を供える神事のあと、除幕し、みなで祝杯をあげました。

 終わって、昇仙峡にある食堂でみなで食事。その後、多くの人たちは昇仙峡の散策に出かけましたが、例によって、晋樹隆彦、黒岩剛仁、田中薰、沃野の岩内敏行君ら、われわれは集合時間まで甲府のワインや岩内君持参のウィスキーを飲みながら時間を過ごしました。

 『思草』の巻頭歌は、「鳥の声水のひびきに夜はあけて神代ににたり山中の村」。
 この歌は明治36年(1903)、31歳の佐佐木信綱が、甲府の「心の花」会員たちの歌会のための三泊四日の旅の折、昇仙峡近くの旧宮本村での作、ということが分かっています。

 その旅については、「心の花」明治36年6・7・8月号に、小尾保彰の文章があって、かなり詳しいことが分かります。
 今度、あらためてその文章を読んでみました。読んでみて、115年の歳月を実感させられることが2点ありました。この機会に、その点だけ書いていておくことにします。

 一つは、中央本線がまだ甲府までつながっていなかったこと。中央本線は、勝沼に近い初鹿野(現・甲斐大和駅)までしか開通していませんでした(開通したのは信綱の旅の約2か月後)。ですから信綱は、初鹿野からは甲府まで行き、甲府談露館で歌会。それから武田神社や昇仙峡、金桜神社に行くのですが、電車、バス等はなく、馬車と馬と徒歩だったと考えられます。
 当時は、つまり、昇仙峡は東京からまだずいぶん遠かったのです。「……神代ににたり山中の村」は、雰囲気だけではなかった。心理的にも実感的にも、日常から遠い遠い村の夜明けだったのです。「神代ににたり」をそう鑑賞すべきだと思います。

 もう一つは、当時の金桜神社の壮大・華麗だったことが小尾の文章で分かります。今は立派な本殿はありますが、他に大きな建物はありません。
 「……幾百の石段は昼猶暗き老杉の木陰に通ず。少し登りたる処に楼門、中央に義公の筆になれる金櫻神社の額あり。登り果つれば左の方に本殿、其右に鐘楼、額堂並び立ち、彫刻精工を尽したる舞楽殿あり。かかる山中には珍しく美を極めたり」。
 これらは、昭和30年12月17日の火災で消失してしまいました。中宮本殿、東宮本殿をはじめ12棟の建築物や伝左甚五郎作の昇竜降竜が焼失しってしまった、ということです。ちなみにウィキペディアで見ると、信綱が見た当時の、つまり消失以前の金桜神社の写真が2枚掲載されています。

 115年前、信綱訪れた金桜神社、そして現在、新しい歌碑が建った金桜神社はずいぶん違うのだ、と思いつつ式の席に座っていました。
 金桜神社は、サッカーV2リーグのヴァンフォーレ甲府が必勝祈願に訪れる神社として知られています。今後、また変わってゆくことだろうと思います。

 歌碑にも、運のいい歌碑と、あまり運の良くない歌碑があるようです。『思草』巻頭歌の歌碑が、運のいい歌碑として、長く多くの人に出会えることを祈ります。

  


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