ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌6 北條氏康 1515年(永正12)~1571年(元亀2)

2016年10月04日 | エッセイ
 北条氏康は、祖父・北条早雲、父・北条 氏綱のあとを継いで、後北条氏の三代目当主となり、小田原城を本拠としました。
 氏康は、戦国大名の中では早く検地を行ったり、税制を改革して領国経営の基礎固めを行ったり、法定混合比率を制定して貨幣の統一を行うなど、有能な政治家として知られています。

 武将としてのほまれも高く、次回にとりあげる武田信玄、その次にとりあげる上杉謙信と並ぶ戦国時代の名将とされています。
 十六歳の年に、武蔵の国の「小沢原の合戦」に初陣してから、「河越の合戦」「国府台の合戦」をはじめとして、生涯に三十六回戦ってすべて勝利し、ついに一度も敵に後を見せることがなかったといわれています。
 体中に七ヶ所、顔に二ヶ所、刀と槍の創(きず)があったと伝えられ、それらがみな向こう傷だったところから、当時の人は、向こう傷を「氏康創」と呼んだといいます。たいへんな豪傑だったようですね。

 次の歌は武将としての歌です。天文十五年(一五四六)秋、三十二歳の作。鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣した折の作です。

頼みこし身はもののふの八幡山祈るちぎりは萬代(よろづよ)までに
 (ご加護を頼みにしてきた、もののふの矢にちなむこの八幡山(やわたやま)(鶴岡八幡大菩薩)に、武運長久をお祈り申しあげるのである)

 「八幡山(やわたやま)」の「や」と「もののふ」の持つ矢の意味の「矢」とが掛詞になっています。堂々たる調べの、いかにも武将らしい、武将ならでは一首です。

 彼の信心の深さに関しては、『小田原北条記』が、次のようなエピソードを伝えています。
 ある夏の夜、氏康が涼んでいると、狐の鳴く声が聞こえてきました。秋に鳴くべき狐が、夏に鳴くのは不審である。夏の狐の声をいぶかって、部下に歌を作らせた源頼朝の故事にちなんで、氏康は次の一首を作りました。

夏はきつねに鳴く蝉のから衣おのれおのれが身の上を着よ
(夏の狐よ。夏が来て、声をあげて鳴く蝉の抜け殻のように、各自が自分の身にあった唐衣を着るようにせよ)

 「来つ、音(ね)」と「狐」、蝉の「から」と「唐衣」の「から」が掛詞になっています。「夏に鳴く狐よ、自分にふさわしい季節に鳴け」、との意味ですね。
 夜が明けてみると、前夜、狐の鳴き声がしたあたりで狐が一匹死んでいた。氏康が日ごろから、「自分が合戦で勝利してきたのは、武力のためばかりではない。神仏を信じ、そのご加護を祈ってきたからだ」と言っていたのを人々は思い出し、「この狐が死んだのも、氏康の歌の徳によって、起こるべき凶事を、狐がわが身に引き受けたせいだ」と言って、おどろき合ったということです。
 戦国時代のことです。この不思議な狐の死は、神のご加護によって、敵方の間者が未然に防がれたのだ、と人々は解釈したと伝えられます。

 北條氏康は、風雅を愛する文化人でもあったようで、次のような歌も残っています。

なかなかに清めぬ庭は塵(ちり)もなし風にまかする山の下庵(したいほ)
 (かえって掃除をしないでおいた庭のほうが塵がたまらない。風の吹くままにまかせて、風雅を楽しむ山の麓の庵である)
 
 山の麓の山荘のイメージです。モノクロームの映像が美しい一首にしあがっています。体中に七ヶ所、顔に二ヶ所、刀と槍の創(きず)がある古今無双の武将が、こういう風雅な短歌をつくったのです。うれしいですね。



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