ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌8 上杉謙信 1530年(享禄3)~1578年(天正6)

2016年11月02日 | エッセイ
天正元年(一五七三)、上杉謙信四十四歳のときに生涯のライバル・武田信玄が五十三歳で他界します。川中島の戦い。謙信・信玄は川中島を舞台に十二年間、なんと五回もの戦いをくり返しました。信玄の突然の死を聞いて、謙信はさめざめと涙を流し、深く悲しんだといいます。

 家臣たちは、このチャンスを逃さず武田方を撃つべしと進言しました。が、謙信は聞き入れなかった。損得ではなく「美学」を判断・行動の基準として生きた謙信らしい選択でした。
 それから四年ののち、天正五年(一五七七)閏七月、謙信は能登を攻略しようとして越中に進出し、魚津城に陣を構えます。その折の短歌が残っています。

もののふの鎧の袖をかたしきて枕にちかき初雁の声 
 〈部下たちともども鎧をつけたまま野宿をしていると、寝ているすぐ近くに聞こえる初雁の声よ〉

 「初雁」は、秋に北方からはじめて渡ってきた雁のことで、「歌ことば」です。謙信には、後にふれる有名な漢詩がありますが、このように「歌ことば」を使いこなしているのを見ると、漢詩だけではなく短歌もかなり勉強したらしいことが分かります。
 戦陣で戦闘場面を思うのではなく、季節の微妙な移りを思いうかべて、その雰囲気を風雅なことばでうたっています。なかなかの作ですね。

 上杉謙信は二十代で二回も京都に行き、天皇(後奈良天皇・正親町天皇)・将軍(足利義輝)に会っています。その折、公家をたずねて古典について質問をしたり、歌道を談じたりしています。また、武将であり歌人としても有名だった細川藤孝から、「和歌口伝」一巻を寄せられたという記録もあって、謙信が和歌に深い関心を持っていたことが分かります。

 さて、後年、能登に入り七尾城を攻略した謙信が、城をおとして昂ぶる思いをたくして詠ったのが、有名な漢詩「九月十三夜、陣中作」です。

 霜満軍営秋気清
 数行過雁月三更
 越山併得能州景
 遮莫家郷憶遠征
霜は軍営に満ちて、秋気清し、
数行の過雁(かがん)、月三更(さんこう)。
越山あはせ得たり、能州の景、
さもあらばあれ、家郷、遠征を憶ふを。
 (霜はわが陣営にみち、秋気がすがすがしい。雁が幾すじか列をなして飛び、月が真夜中の空にさえる。越後・越中の山々に加えて、今や能登の山々が眼前にある。この絶景。家族がわれらを思っているだろうが…さもあらばあれ、そんなことはどうでもよいのだ)

 秋の月に照らされた越後・越中・能登の山々が目に浮かぶ、大らかで広々とした夜の風景が眼前するすばらしい漢詩です。
 上杉謙信は酒豪として知られています。自身も大いに酒を飲み、将兵たちにも酒をふるまって、この漢詩を詠ったと伝えられています。いかにも酒飲みらしい、「今」に充実しきる思いをびしっと結晶させた漢詩です。

 このすぐ後のことです。進出してきた織田信長の大軍を迎え撃とうと、謙信は越前の細呂木(福井県あわら市)に陣を敷きます。

野臥(のぶ)しする鎧の袖も楯の端(はし)もみなしろたへの今朝の白雪          
 〈野営して早朝目覚めてみると、自身の鎧の袖も枕頭に立てた楯の縁(ふち)も白くなっている。今朝の白雪よ〉

 夜中に降った雪で、あたり一面は真っ白。夜明けの光がだんだんもののかたちを明瞭にしてゆく。まだうす暗いなか、野宿していた何千もの将兵たちが、あちこちで少しずつ起きて動きはじめる。彼らの私語やざわめき。鎧や兜がふれ合う音。この一首の背景には、そうした何千もの将兵の影が動いています。何千もの将兵が動く音が聞こえます。

 この歌を作った翌年三月に、上杉謙信は急死します。まだ四十九歳。死因は脳溢血だろうとされています。関東に大遠征しようとする直前の死でした。辞世と伝えられる作を掲げておきます。

  極楽も地獄もさきは有明の月の心にかかる雲なし
〈この先に極楽も地獄もあり、どちらに行くか分からないが、月のように澄んだ今の心には、一点のくもりもない〉



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