ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌7 武田信玄 1521年(大永元)~1573年(元亀4)

2016年10月04日 | エッセイ
 武田信玄は、「人は城人は石垣人は堀なさけは味方あたは敵なり」とか、「軍兵(ぐんぴよう)はもの言はずして大将の下知きく時ぞいくさには勝つ」等、格言めいた短歌で知られています(後者は『甲陽軍艦』には作者未詳とありますが、信玄作としてよさそうです)。しかし、伝統的な歌の素養をも、きちっと身につけた人物でした。

ただ頼めたのむ八幡(やわた)の神風に浜松が枝はたふれざらめや  武田 信玄
 (ただ頼めとのお心のままに、八幡宮にお頼みする。八幡宮のお力で吹く神風によって、浜松の枝は倒れないことがあろうか。かならず倒れる)

 この歌は、元亀三年(一五七二)十二月二十二日朝、世にいう「三方ヶ原の戦い」の直前に、八幡宮に戦勝を祈願した歌です。

 二俣城を出発した武田軍二万五千は、徳川家康の浜松城へ三キロの地点まで来ながら、城を攻めるころなく、迂回するように北西方向に向きを変えました。
 武田信玄としては、時間がかかる城攻めを避けて、野戦に持ち込む作戦でした。二俣城を落とすのに二ヶ月もかかっていました。ここは早く決着をつけたい。信玄の体調がすぐれなかったという事情もありました。信玄はこの四ヶ月後に他界することになります。じっさい、かなり体調不が悪化していただろうと思われるのです。

 家康はあえて城を出て、武田軍の後を追います。徳川軍八千と信長からの援軍三千、合わせて一万一千。浜松城にじっと籠もってやりすごす手もないではなかったのですが、予想外の少数といえども信長が援軍を送ってきた以上、戦闘を避けるわけにはゆかなかったのです。つらいところでした。
 徳川軍の追跡を確認した武田軍は、突然、向き直って徳川軍を迎え撃つかたちで陣形を整えます。徳川方も陣を組む。向かい合ったのが午後一時。両軍が激突したのは午後四時と伝えられています。
 武田方二万五千、徳川方はその半分。戦闘は一方的に武田方の勝利に終わりました。徳川方の死者は千人。武田方は犠牲者四百人と伝えられています。

 武田信玄はここで追撃の手をゆるめずに浜松城に攻め込み、徳川家康を討ち果たすべきだった。そうすれば歴史はまったく変わったはずです。信玄の体調の問題があったのでしょうが、歴史のすきまにかいま見える千載一遇のチャンス、そのチャンスを信玄は逃してしまったのでした。

 もう一度、前にあげた短歌を引用しましょう。

ただ頼めたのむ八幡(やわた)の神風に浜松が枝はたふれざらめや   

 この歌は、『甲陽軍艦』に、「三方ヶ原の戦い」の日の朝の歌として引用されています。「ただ頼め たのむ」とたたみかけた歌い出しの力強い調子に、緊迫した朝の空気と、戦いにのぞもうとする信玄の気迫が読みとれます。

 川田順『戦国武将歌』は、こう見ています。この歌の下句「……浜松が枝はたふれざらめや」がいけない。「浜松の幹は倒れざらめや」とすべきだった。そして、さらに次のように言っています。
 「ここで「枝」が折れるくらいを祈ったのは志小で、歌としても拙い。信玄らしい堅実な戦略から、まず枝を折り、おもむろに根幹に及ぼうとしたのかもしれないが、天が時間を貸さなかった。信玄は翌年四月に急逝する」。なるほどと思います。

さそはずばくやしからまし桜花また来む頃は雪のふる寺
(お誘いがなければ口惜しい思いをしたことでしょう。またの日に来たならば、今日満開の桜の花は、寺の庭に雪のように散ってしまっているだろう)。

 山梨県の塩山にある恵林寺の僧から、山門の左右に立つ名木の桜を見に来いとの誘いを受けます。この一首は、その席で書いた作です。これを見ればわかるように、即興歌においても、信玄はなかなかの詠み手だったことがわかります。

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