ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌5 足利義尚 1465年(寛正6)~1489年(長享3)

2016年10月03日 | エッセイ
 室町幕府の第九代将軍・足利義尚です。銀閣寺を建てたとされる八代将軍・足利義政の息子。母は「悪妻」として知られる日野富子。巨万の富を築き、将軍の後継者問題をはじめとする政治の問題に積極的に発言した女性です。

 日本史の教科書などでは、義尚が生まれたことが「応仁の乱」の遠因になった、そう書かれています。父・義政に実子がなかったため、義尚が生まれる前年に、義政の弟・義視(義尚の叔父)が養子となります。
 義尚・義視のどちらが九代将軍になるか。富子はもちろん義尚擁立にやっきとなりました。それに勢力争い・内紛をつづける山名・細川・畠山・斯波各氏の思惑がからんで複雑な様相を呈します。これが「応仁の乱」の原因だったというのです。
 つまり、この義尚の時代から「戦国時代」が実質的にはじまることになるのです。

 『宣胤卿(のぶたねきよう)記』は、義尚の生活は酒と女性におぼれきった日々だったと伝えています。将軍としての大きな「夢」を抱きながら、時代の急激な曲がり角に生まれ合わせたために、自分がイメージするようには生きることができず、ただただあせって日々をすごさざるをえなかった、そう見られています。そんな彼には、酒と女性そして和歌だけが、救いだったようです。
 義尚は九歳で将軍になり、わずか二十五歳で夭折しました。ただただ急いで駆け抜けたような短い生涯でした。学問を好み、とくに短歌が好きだったと伝えられています。残された歌の数も相当な数です。
 以下、二十代前半までの若い武将の歌と思って読むと、若さ独特の艶とあわれが読みとれるのではないでしょうか。

駒並(な)めて草かの山をわけゆけば浅茅(あさぢ)が末に霧たちわたる
(馬をつらねて草か山を行軍してゆくと、低く茂ったの茅萱(ちがや)のむこうに霧が立ちなびいている)

 「草かの山」は東大阪市の「草香山」が有名ですが、それかどうかは確定できません。秋の山路をうたった作で、「駒並めて」がいかにも武将らしいイメージをつくっています。やや地味ではありますが、歌としてはなかなか出来ではないでしょうか。
今日ばかり曇れ近江の鏡山旅のやつれの影の見ゆるに
(今日だけは曇れよ。近江の鏡山よ。軍旅の疲れが出てしまった顔が、鏡に写るのがはずかしい気がするから)

うき秋は思はざりけりささなみや浜辺に年の暮れんものとは
(秋のころには思いもしなかった。この琵琶湖の浜辺でつらい思いで年末を迎えようなどということは)

 この二首は、いわゆる「六角征伐」の折の歌です。「応仁の乱」により衰退した幕府権力の再建をはかって、義尚はさまざまな手を打ちます。その一つが、「六角征伐」でした。幕府を無視して力をふるう近江の守護・六角高頼の討伐です。義尚みずからが先頭に立って攻勢をかけたにもかかわらず、六角方の巧みな戦術で長期化してしまいました。近江の鈎(まがり)(現在の滋賀県栗東市)に一年半もの長期在陣を余儀なくされたのです。

 前者は、炎天つづきで長期在陣の兵たちの疲労がピークに達したときの歌です。
 「今日ばかり曇れ近江の鏡山!」。すると一天にわかにかき曇ったと伝えられています。「時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ」と源実朝がうたったことで、雨がやみ洪水がおさまったように、武家の棟梁の短歌が「言霊」を発揮したケースです。
 鏡山(滋賀県蒲生郡)は古歌では「鏡」のイメージでうたわれます。ここでは旅の疲れを映す鏡ですね。
 後者、琵琶湖畔で長期在陣のまま年末を迎えた感慨です。在陣のまま年を越す感慨ですが、しみじみとさびしい感じの一首です。

 最後に義尚の辞世歌をあげておきましょう。弱冠二十五歳(満年齢だと二十三歳)の作です。
 足利義尚はこの「六角征伐」の最中に死去するのです。急死だったので、死因は酒色に溺れたための脳溢血かともいわれていますが、確かなところは分かりません。

手を折りてすぎこし代々(よよ)をかぞふればむなしき床(とこ)の夢にぞありける 
 (指を折って、尊氏以来の代々の将軍の治世を数えてみると、わが一生はすべて、ただむなしい寝床の中の夢だったのだ)

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