1
「朝日歌壇」に坂口弘の歌がはじめて載ったのは、一九八九年五月のこと。最初は島田修二選の欄だった。そして二回目に載ったのが十二月。これは私の選だった。次のような作である。
死刑囚と呼ばるるよりも呼び捨ての今がまだしもよろしかりけり
私が選をしたこの歌は、死刑確定前の動揺する気分をうたっている。一審、二審で死刑判決をうけ、上告して最高裁の判決を待つ期間の作である。
細字の万年筆で書かれた投稿葉書には、小さく赤い検閲の印が押されていた。一点一画をおろそかにしないきっちりとした四角い字で、その葉書の字は、作者の几帳面な性格をあらわしているように思われた。
それ以後、彼の歌はひんぱんに「朝日歌壇」に掲載されるようになる。上告審の判決を待つ者の本音をうたった歌は、私だけではなく、他の三選者・近藤芳美・馬場あき子・島田修二の目にもかなったようである。
「朝日歌壇」には、毎週三〇〇〇首から四〇〇〇首ほどの投稿歌がある。掲載されるのは四選者の選による四〇首だけ。相当の倍率をくぐりぬけてのことであった。
投稿歌がはじめて載ってから約四年、一九九三年二月に、最高裁で死刑判決が確定する。そのときから坂口弘の「朝日歌壇」への投稿は途絶えた。
それからしばらくして、お母様の手を通して、短歌が私のところに送られてくるようになった。短歌をチェックしてほしいという。当時の「朝日歌壇」選者の中で私が一番若く、年齢が比較的近かったからだろうと思う。
年に一度ぐらいの割合で、三〇〇首から四〇〇首ぐらいの短歌が送られてくる。私は、用語・言い回しを点検し、短歌としての出来の良し悪しをチェックする。表現上・修辞上の疑問点があれば傍線を引いて「?」印をつける。文法的な疑問があれば答え、作歌上のポイントを折々にアドバイスする。そんなかたちで作品に目を通し、お母様を通じて送り返した。
送られてくる歌稿は、束ねた二百字詰の原稿用紙に、三行書きで二首ずつ、表記は旧仮名遣いで、これも四角い端正な字で書かれていた。旧仮名遣いを完全にマスターし、行分けの仕方、句読点の一つ一つにこだわりをもっていることが、原稿を見るとよく分かった。
坂口弘は、短歌にあくまでも真剣で、一字一音もおろそかせず、最善の表現へむかって懸命の努力を尽くした。たとえば、「揺蕩(たゆた)ふ」と表記するか「たゆたふ」と表記するか。一般の文章ではどうでもいいことであるが、短歌ではこういうディテールもおろそかにできない。坂口はそういう点で私以上のこだわりをもっている。
たとえば私が、この方が読みやすいからという理由で漢字表記を仮名表記に変えてはどうかと提案すると、次回の原稿を送ってくるときに、ニュアンスの違いや調べの問題等、自分がその表記を選んだ理由を書いてくる。彼の短歌へのこだわりがなみなみではないことを思わせた。
こうした彼のせっかくの短歌への情熱を、歌集というかたちにまとめあげることはできないか。
「歌集を目標にしてみませんか?」
そう提案したところ、彼もその気になってくれた。そんな縁で、私がここに解説を書くことになったのである。
本歌集は、多くの作の中から坂口弘自身が自選したものであるが、言ったようなかたちでのやりとりを経てきたうえの作品である。
2
坂口弘が短歌をつくりはじめたきっかけは、西行の『山家集』を読んだことによると聞く。後にふれる『坂口弘歌稿』の高橋檀氏「あとがき」にそうある。『山家集』を読んで、見よう見まね作歌をはじめたとのことである。
事実その通りなのだろうが、私が坂口の歌を読んで思い浮かべるのは石川啄木である。三行書きの表記はもちろん啄木を踏襲するものだろう。それだけではない。随所に、啄木を読み込んだ形跡が見てとれる。
芍薬の大輪の花見るたびに
思へり
わが生活(くらし)身に余れりと
自然を愛するやわらかい心をうたった佳作だが、「生活」に「くらし」と振り仮名を振るのは啄木の影響だろう。
振り仮名だけではない。次の歌のように、題材・ムードがよく似ている例もある。
春の宵房(へや)の灯漏れて 坂口弘
ゆかしくも
ほの白く見ゆる庭の草かな
こころよく 石川啄木
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき春の草かな
「ゆかしく」は古語で、「何となく懐かしい」「心惹かれる」の意味。啄木の歌の「目にやはらかき」と近似の感覚だ。啄木の歌は、目覚めてすぐに見た朝の庭草で、坂口作は夜の独房から見た庭草である。
同じ春の草とはいえ異なった視点と条件で見ているはずだが、惹かれる思いの質はじつのよく似ている。もともとの気質が、二人は似通っているのかもしれない。
夏の宵 坂口弘
ほの白きものが物憂げに庭を歩めり
猫にやあらむ
夜おそく戸を繰りをれば 石川啄木
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ
これは啄木の歌の本歌取りである。「夜」を「夏の宵」に変え、「走る」を「歩む」に変え、「犬」を「猫」に変えている。一世紀をへだてて、啄木と歌で対話を楽しんでいる風情だ。坂口は啄木が本気で好きなのである。気が合うのだ。
指笛のできるものなら 坂口弘
月の夜に
思ひの丈を吹いてみたきかな
叱られて 石川啄木
わつと泣き出す子供心
その心にもなりてみたきかな
「……みたきかな」という表現で、できることならしてみたい、でもできない、という歌である。次に引用する、「……こと」というフレーズで過去のある事実にスポットを当てる言い回しとともに、啄木の歌に学んだ表現と見ていいだろう。
「囚人だ、囚人バスだ」と 坂口弘
子どもらが
隣のバスより指さししこと
城跡(しろあと)の 石川啄木
石に腰掛け
禁制の木(こ)の実(み)をひとり味ひしこと
引用はこのぐらいにしておくが、坂口の歌が積極的に啄木の影響を受けている実情は、これだけで十分におわかりいただけるだろう。啄木の歌は基本的に青春の歌である。坂口弘の歌も大枠は青春の歌と見てよさそうである。
このように啄木の影響を進んで受けつつ、それでも、この作者独自の思いをさまざまなかたちで短歌に実現している。
集中の佳作を数首引用しておこう。高齢の母をうたった歌、孤独をうたった歌、監視下の日々をうたった歌、そしてかいま見るようにして自然をうたった歌。
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
隠れ家に星見るアンネを
思ひ居り
目隠しの間(あひ)に月見つつ吾は
雨の日は
傘の中をし恋ふるなり
寸時たりとも監視ゆるまず
気配せる
闇の外(と)の面(も)に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃(はばた)きなりき
短歌は人間の本音を引き出す。これらの歌には坂口弘という人物の本音が引き出されていると読む。死刑囚・坂口弘という枠組みでこの歌集が読まれるのはよんどころないことながら、彼の短歌をずっと読んできた者としては、枠組みを外して読んでもらいたいという気持ちはある。そうでないと、こういう短歌は読み過ごされてしまうだろう。
かなわぬ望みながら、同じく短歌を愛する者の一人として、そんな読まれ方を願うのである。
3
前にも言及したが、じつはすでに『坂口弘歌稿』という歌集が出ている。今から十余年前、一九九三年十一月に朝日新聞社から刊行された一冊で、三〇七首の短歌をおさめている。同書には、高橋檀氏による懇切な「あとがき」が付されていた。
高橋氏はそこで、連合赤軍事件にかかわる多くの犠牲者の方々、さらに犠牲者のご家族をはじめとする関係者の方々に対する、坂口弘のお詫びの気持ちをくりかえし述べておられた。
また、短歌には多様な読み方があり、作者の意図とは別の読みがなされる危惧に言及されていた。坂口のような特殊な立場にある作者の場合はとくに、その点に関する配慮の必要性を言っておられた。
この解説を書くにあたって、まず心に浮かんだのも、その二つのことであった。連合赤軍事件は、事件の異常性、残酷性、陰惨さ、悲惨さにおいて忘れることができない特異な事件だった。
年表を参照しながら、事件のあらましを記しておこう。一九七二年二月十九日、坂口弘ら銃を持った五人が「あさま山荘」に人質をとってたてこもり、十日目に警官隊が突入し、五人は逮捕された。この事件で、警察官二人が銃撃によって射殺され、民間人一人も射殺された。
その後、三月に入って群馬県の山林で十二人の遺体が発見される。遺体は軍事訓練中に仲間のリンチによって殺されたことが判明する。坂口弘は、これらの全ての事件に直接かかわった。
事件には多くの犠牲者・被害者の方々がおられる。あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族・被害者・関係者の方々の、今にいたっても傷の癒えぬだろう心中をお察ししつつ、擱筆したいと思う。
二〇〇七年七月三一日 佐佐木幸綱
「朝日歌壇」に坂口弘の歌がはじめて載ったのは、一九八九年五月のこと。最初は島田修二選の欄だった。そして二回目に載ったのが十二月。これは私の選だった。次のような作である。
死刑囚と呼ばるるよりも呼び捨ての今がまだしもよろしかりけり
私が選をしたこの歌は、死刑確定前の動揺する気分をうたっている。一審、二審で死刑判決をうけ、上告して最高裁の判決を待つ期間の作である。
細字の万年筆で書かれた投稿葉書には、小さく赤い検閲の印が押されていた。一点一画をおろそかにしないきっちりとした四角い字で、その葉書の字は、作者の几帳面な性格をあらわしているように思われた。
それ以後、彼の歌はひんぱんに「朝日歌壇」に掲載されるようになる。上告審の判決を待つ者の本音をうたった歌は、私だけではなく、他の三選者・近藤芳美・馬場あき子・島田修二の目にもかなったようである。
「朝日歌壇」には、毎週三〇〇〇首から四〇〇〇首ほどの投稿歌がある。掲載されるのは四選者の選による四〇首だけ。相当の倍率をくぐりぬけてのことであった。
投稿歌がはじめて載ってから約四年、一九九三年二月に、最高裁で死刑判決が確定する。そのときから坂口弘の「朝日歌壇」への投稿は途絶えた。
それからしばらくして、お母様の手を通して、短歌が私のところに送られてくるようになった。短歌をチェックしてほしいという。当時の「朝日歌壇」選者の中で私が一番若く、年齢が比較的近かったからだろうと思う。
年に一度ぐらいの割合で、三〇〇首から四〇〇首ぐらいの短歌が送られてくる。私は、用語・言い回しを点検し、短歌としての出来の良し悪しをチェックする。表現上・修辞上の疑問点があれば傍線を引いて「?」印をつける。文法的な疑問があれば答え、作歌上のポイントを折々にアドバイスする。そんなかたちで作品に目を通し、お母様を通じて送り返した。
送られてくる歌稿は、束ねた二百字詰の原稿用紙に、三行書きで二首ずつ、表記は旧仮名遣いで、これも四角い端正な字で書かれていた。旧仮名遣いを完全にマスターし、行分けの仕方、句読点の一つ一つにこだわりをもっていることが、原稿を見るとよく分かった。
坂口弘は、短歌にあくまでも真剣で、一字一音もおろそかせず、最善の表現へむかって懸命の努力を尽くした。たとえば、「揺蕩(たゆた)ふ」と表記するか「たゆたふ」と表記するか。一般の文章ではどうでもいいことであるが、短歌ではこういうディテールもおろそかにできない。坂口はそういう点で私以上のこだわりをもっている。
たとえば私が、この方が読みやすいからという理由で漢字表記を仮名表記に変えてはどうかと提案すると、次回の原稿を送ってくるときに、ニュアンスの違いや調べの問題等、自分がその表記を選んだ理由を書いてくる。彼の短歌へのこだわりがなみなみではないことを思わせた。
こうした彼のせっかくの短歌への情熱を、歌集というかたちにまとめあげることはできないか。
「歌集を目標にしてみませんか?」
そう提案したところ、彼もその気になってくれた。そんな縁で、私がここに解説を書くことになったのである。
本歌集は、多くの作の中から坂口弘自身が自選したものであるが、言ったようなかたちでのやりとりを経てきたうえの作品である。
2
坂口弘が短歌をつくりはじめたきっかけは、西行の『山家集』を読んだことによると聞く。後にふれる『坂口弘歌稿』の高橋檀氏「あとがき」にそうある。『山家集』を読んで、見よう見まね作歌をはじめたとのことである。
事実その通りなのだろうが、私が坂口の歌を読んで思い浮かべるのは石川啄木である。三行書きの表記はもちろん啄木を踏襲するものだろう。それだけではない。随所に、啄木を読み込んだ形跡が見てとれる。
芍薬の大輪の花見るたびに
思へり
わが生活(くらし)身に余れりと
自然を愛するやわらかい心をうたった佳作だが、「生活」に「くらし」と振り仮名を振るのは啄木の影響だろう。
振り仮名だけではない。次の歌のように、題材・ムードがよく似ている例もある。
春の宵房(へや)の灯漏れて 坂口弘
ゆかしくも
ほの白く見ゆる庭の草かな
こころよく 石川啄木
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき春の草かな
「ゆかしく」は古語で、「何となく懐かしい」「心惹かれる」の意味。啄木の歌の「目にやはらかき」と近似の感覚だ。啄木の歌は、目覚めてすぐに見た朝の庭草で、坂口作は夜の独房から見た庭草である。
同じ春の草とはいえ異なった視点と条件で見ているはずだが、惹かれる思いの質はじつのよく似ている。もともとの気質が、二人は似通っているのかもしれない。
夏の宵 坂口弘
ほの白きものが物憂げに庭を歩めり
猫にやあらむ
夜おそく戸を繰りをれば 石川啄木
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ
これは啄木の歌の本歌取りである。「夜」を「夏の宵」に変え、「走る」を「歩む」に変え、「犬」を「猫」に変えている。一世紀をへだてて、啄木と歌で対話を楽しんでいる風情だ。坂口は啄木が本気で好きなのである。気が合うのだ。
指笛のできるものなら 坂口弘
月の夜に
思ひの丈を吹いてみたきかな
叱られて 石川啄木
わつと泣き出す子供心
その心にもなりてみたきかな
「……みたきかな」という表現で、できることならしてみたい、でもできない、という歌である。次に引用する、「……こと」というフレーズで過去のある事実にスポットを当てる言い回しとともに、啄木の歌に学んだ表現と見ていいだろう。
「囚人だ、囚人バスだ」と 坂口弘
子どもらが
隣のバスより指さししこと
城跡(しろあと)の 石川啄木
石に腰掛け
禁制の木(こ)の実(み)をひとり味ひしこと
引用はこのぐらいにしておくが、坂口の歌が積極的に啄木の影響を受けている実情は、これだけで十分におわかりいただけるだろう。啄木の歌は基本的に青春の歌である。坂口弘の歌も大枠は青春の歌と見てよさそうである。
このように啄木の影響を進んで受けつつ、それでも、この作者独自の思いをさまざまなかたちで短歌に実現している。
集中の佳作を数首引用しておこう。高齢の母をうたった歌、孤独をうたった歌、監視下の日々をうたった歌、そしてかいま見るようにして自然をうたった歌。
これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる
隠れ家に星見るアンネを
思ひ居り
目隠しの間(あひ)に月見つつ吾は
雨の日は
傘の中をし恋ふるなり
寸時たりとも監視ゆるまず
気配せる
闇の外(と)の面(も)に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃(はばた)きなりき
短歌は人間の本音を引き出す。これらの歌には坂口弘という人物の本音が引き出されていると読む。死刑囚・坂口弘という枠組みでこの歌集が読まれるのはよんどころないことながら、彼の短歌をずっと読んできた者としては、枠組みを外して読んでもらいたいという気持ちはある。そうでないと、こういう短歌は読み過ごされてしまうだろう。
かなわぬ望みながら、同じく短歌を愛する者の一人として、そんな読まれ方を願うのである。
3
前にも言及したが、じつはすでに『坂口弘歌稿』という歌集が出ている。今から十余年前、一九九三年十一月に朝日新聞社から刊行された一冊で、三〇七首の短歌をおさめている。同書には、高橋檀氏による懇切な「あとがき」が付されていた。
高橋氏はそこで、連合赤軍事件にかかわる多くの犠牲者の方々、さらに犠牲者のご家族をはじめとする関係者の方々に対する、坂口弘のお詫びの気持ちをくりかえし述べておられた。
また、短歌には多様な読み方があり、作者の意図とは別の読みがなされる危惧に言及されていた。坂口のような特殊な立場にある作者の場合はとくに、その点に関する配慮の必要性を言っておられた。
この解説を書くにあたって、まず心に浮かんだのも、その二つのことであった。連合赤軍事件は、事件の異常性、残酷性、陰惨さ、悲惨さにおいて忘れることができない特異な事件だった。
年表を参照しながら、事件のあらましを記しておこう。一九七二年二月十九日、坂口弘ら銃を持った五人が「あさま山荘」に人質をとってたてこもり、十日目に警官隊が突入し、五人は逮捕された。この事件で、警察官二人が銃撃によって射殺され、民間人一人も射殺された。
その後、三月に入って群馬県の山林で十二人の遺体が発見される。遺体は軍事訓練中に仲間のリンチによって殺されたことが判明する。坂口弘は、これらの全ての事件に直接かかわった。
事件には多くの犠牲者・被害者の方々がおられる。あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族・被害者・関係者の方々の、今にいたっても傷の癒えぬだろう心中をお察ししつつ、擱筆したいと思う。
二〇〇七年七月三一日 佐佐木幸綱
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