ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

名著探訪 川田順『戦国時代和歌集』  1943年9月・甲鳥書林刊

2016年07月26日 | 評論
 武道館で刊行している「武道」という月刊雑誌がある。そこに二年間「もののふの歌」というエッセイを連載した。武人や武士が作った歌、武道に関する歌等に関する短いエッセイである。その折に出あったのがこの川田順『戦国時代和歌集』(昭和一八年・甲鳥書林刊)である。これだけ多く武人の短歌を収録した本は他にない。
 まず武士の歌について書いた本が少ない。一昨年だったか、小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』という本が出て話題になったのをおぼえておられる読者もあるだろう。話題になって当然の充実した内容の本だったが、珍しさに注目した読者も少なくなかったはずだ。
 川田順は、そうした中で、武人の歌をもっとも広く読み、多く論じた歌人だった。ここでとりあげた『戦国時代和歌集』の他にも、有名な『吉野朝の悲歌』がある。そして『幕末愛国歌』『戦国武将歌』等、武人の歌に関する何冊もの著作を残している。

 武士たち、武将クラスの武人たちは、真面目に和歌に打ち込んだ者が多い。平安時代末期に最初の武士として歴史に登場する源氏・平家の武将たちから、江戸末期の大名・武士にいたるまで、しかるべき武人は当然のように和歌をたしなんだ。
 中には文学的に高い水準の歌を詠んだ武人も少なくない。川田順によれば、二十一代の勅撰集に入集した武人はおおよそ二百人ほどいるという。すぐれた家集を残した者も多い。有名なところでは、太田道灌の『慕景集』、細川幽斎の『衆妙集』、木下長嘯子の『挙白集』などがあり、これらは和歌史にもその名をとどめている。

 武人はなぜ熱心に短歌を作ったのか。
 武将にとって、人間関係の構築・調整は生き抜くための基本中の基本だった。歌には贈答という伝統的な方式があり、また、歌会という公認された形式があった。歌の贈答、歌会への参席は、武人たちの人間関係の構築・維持・調整の場として、重要かつ貴重な役割を果たした。
 上記の『武士はなぜ歌を詠むか』は、人間関係構築にかかわる和歌の効用を熟知していた人物として源頼朝の名を上げて、こう書いている。
 「頼朝自身はすぐれた歌才の持ち主であった。側近と詠み交わした和歌が吾妻鏡に記録されている。いずれも場の緊張を和らげたり、相手の機知を試したりした即興の詠である。家臣との人間的紐帯を強めるために、あるいは京都の要人との交渉にも、頼朝は和歌の力を利用したようである」。

 頼朝は盛んに慈円と歌の贈答を交わす。慈円は言うまでもなく当時の京都の最重要人物の一人であった。頼朝は歌によって慈円と深い人間関係を構築し、都の情報を得、貴族との人間関係を緊密にしていったのだ。頼朝は『新古今集』に二首採録されているほど、レベルの高い歌の作者で、歌が好きな人物でもあったが、それだけではなかった。鎌倉幕府の運営・安定のために京都方の情報収集のために歌を利用したのである。

 歌会を盛んに行った武将として知られるのは豊臣秀吉である。何度も大がかりな歌会を開催し、戦国武将を一同に集めてはそれぞれの忠誠心の軽重をはかった。
 たとえば天正十六年四月には、聚楽第に天皇の行幸を仰いで、作者七十人におよぶ盛大な歌会を行っている。徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、堀秀政、蒲生氏郷、細川忠興、織田信秀、丹羽長重、大友義統、長宗我部元親……等々、錚々たるメンバーが参会した。参加しなければ、秀吉にどう思われるか、何をされるか分からない。万難を廃して出席せなばならないのだった。
この歌会での題は「寄松祝」。松に寄せて祝いの心を詠むというのである。参加者は、それぞれの思いで、歌を詠み、歌が話題の会話を交わした。表と裏。表を流れる風雅な空気と裏に渦巻くスリリングな緊張関係がどきどきするほどあざやかである。

 さて『戦国時代和歌集』は、こうして歌われた無数の和歌の中で、たまたま記録に残された歌を、軍記、物語、日記、各種文書、歌合、手鑑等から探しだして収録し、注記を付した一冊である。川田順でなければ集められない、選べない、解説できない一冊である。根本資料にさかのぼっての確認がとれていない伝承歌のたぐいもあるが、この時代としては、じつによく拾ってある。
 応仁の乱から関ヶ原の戦い前後まで一三〇年ほどの歌を、年代順に並べ、注記として出典、作歌事情等が記してある。
 収録歌一一一二首。作者三二〇人。出典二三二点。コンピュータのない時代に、これだけの膨大な資料を編年体で採録した労力は大変なものだったろうと思う。太平洋戦争末期のたいへんな時代だったが、住友総本店の常務理事の激職を辞任して、自由な時間をやっと手に入れた壮年・川田順の渾身の編著である。

 川田順というと、「老いらくの恋」の歌人、あるいはまた財界で力をふるった経済人として思い出す人が多いだろう。
 私にとっての川田順は、木下利玄らとともに「心の花」の先輩歌人として親しい人物である。生前に何度も会う機会があった。信綱の葬儀では、葬儀委員長をつとめてくれた。小柄だが姿勢のいい、眼光の鋭い人だった。男っぽいフィーリングの人だった。 (「環」41号 2010年春号)
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