第一回は東常縁をとりあげます。戦国武将ですが、「古今伝授の祖」という和歌史の大物として知られている人物です。古今伝授とは、古今集の語句の解釈に関する秘説を、特定の者にだけ伝授することです。東常縁(とうのつねより)がこれをはじめ、弟子の宗祇に最初の伝授をした、というのです。
古今集が和歌史の最高峰とされていた時代には、重要な関心事だったのです。
岐阜県郡上市大和町は「古今伝授の里」として、いま盛んに売り出し中です。長良川上流部の、鮎がうまい、静かな町です。1987年に発掘された「東氏館跡庭園」が国の名勝に指定されたのを機に、1993年に「古今伝授の里フィールドミュージアム」を立ち上げました。郡上を治めた東氏の9代常縁が、この地で古今伝授を行ったことから、それを町おこしの起点にしようという試みです。
古今伝授の里の中心は、東常縁ゆかりの篠脇城跡および東氏の館跡・庭園跡です。篠脇城は標高五百余メートルほどの山の上にあった山城で、臼目堀と呼ばれる特殊な堀をめぐらした堅固な城でした。今は公園になっている館跡に立ってながめると、こんもりした木々の緑が美しい山です。公園では夏には薪能が行われます。また蛍が見られたりもします。
この篠脇城をめぐって、城を取り合った戦国時代ならではのドラマがありました。それも短歌が重要な役割を果たしたドラマです。戦争で取られた城が、武力ではなく、和歌の力で返還されるという前代未聞のドラマ。戦国武将の間で希有なドラマとして広く語り伝えられたと言います。
ここでは、そのエピソードを紹介しておくことにします。
故郷(ふるさと)の荒るるを見てもまづぞ思ふしるべあらずはいかが分けこん
〈戦乱で所領地が荒れてしまったのを見てもまず思います。短歌の友であるあなたがいなかったら、この城に帰ってくることはできなかっただろう、と。〉
応仁の乱がはじまってすぐの話です。応仁二年(一四六八)、西軍に属する美濃守護・土佐成頼は、守護代・斎藤妙椿をして東軍に味方する東氏の篠脇城を攻めさせました。
篠脇城を守っていたのは常縁の兄・氏数。氏数は奮戦したが力およばず、ついに落城。篠脇城は斎藤妙椿の手に渡りました。
関東に在陣していた東常縁のもとに落城の報がとどきます。折から亡父の追善法要をいとなんでいた常縁は、次の歌を詠んだと伝えられます。
あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなほも恋しき
生きて見る落城の悲哀。「人の昔のなほも恋しき」とは、父が元気だった昔が恋しいとの意味でしょう。
この歌は人々の涙をさそい広く人口に膾炙します。やがて城を攻め奪った斎藤妙椿の耳にも入り、いたく感動させたといいます。
妙椿は、歌の友人である常縁に対して「情(こころ)なき振舞をなさんや」として、「もし常縁が歌を詠んで送ってくれたなら、所領は元どおりにお返ししよう」と申し出ます。常縁は早速、十首の歌を詠み妙椿に送ります。中の一首を引用しておきましょう。このような作です。
思ひやる心の通ふ道ならでたよりもしらぬ故郷のそら
〈故郷の篠脇城の様子を知りたいが、いまは知るてだてがまったくありません。〉
常縁の十首を読んで心を動かされた妙椿は、京都で常縁と会談し、篠脇城は常縁に返還されることとなりました。信じられないような話ですが、事実だったのです。
最初に掲出した作は、篠脇城に入った常縁が、感謝の気持ちをこめて妙椿に送った一首だったのです。
東常縁と斎藤妙椿の篠脇城にかかわるこのエピソードは、戦乱の時代に血を流すことなく、城と所領地が返還された稀有なエピソードとして広く知られることになったのです。
「古今伝授の里」立ち上げのプロジェクトで重要な役割を果たした、地元の木島泉さんが「心の花」会員だった縁で、私は1990年代から何度も郡上大和をおとずれ、今では多くの友人もできました。
毎年秋に行われる「歌と言葉とかたち展」というイベントに参加します。そして友人と一緒に「ヘボ取り」(蜂の子取り)をして酒を飲みます。もう二十年ほど付き合ってもらいました。(「ヘボ取り」に関しては、このブログにエッセイ「味な話1 へぼ取り」としてアップしてあります)
そんな経緯があって、私は今、「古今伝授の里・フィールドミュージアム」名誉館長ということになっています。
古今集が和歌史の最高峰とされていた時代には、重要な関心事だったのです。
岐阜県郡上市大和町は「古今伝授の里」として、いま盛んに売り出し中です。長良川上流部の、鮎がうまい、静かな町です。1987年に発掘された「東氏館跡庭園」が国の名勝に指定されたのを機に、1993年に「古今伝授の里フィールドミュージアム」を立ち上げました。郡上を治めた東氏の9代常縁が、この地で古今伝授を行ったことから、それを町おこしの起点にしようという試みです。
古今伝授の里の中心は、東常縁ゆかりの篠脇城跡および東氏の館跡・庭園跡です。篠脇城は標高五百余メートルほどの山の上にあった山城で、臼目堀と呼ばれる特殊な堀をめぐらした堅固な城でした。今は公園になっている館跡に立ってながめると、こんもりした木々の緑が美しい山です。公園では夏には薪能が行われます。また蛍が見られたりもします。
この篠脇城をめぐって、城を取り合った戦国時代ならではのドラマがありました。それも短歌が重要な役割を果たしたドラマです。戦争で取られた城が、武力ではなく、和歌の力で返還されるという前代未聞のドラマ。戦国武将の間で希有なドラマとして広く語り伝えられたと言います。
ここでは、そのエピソードを紹介しておくことにします。
故郷(ふるさと)の荒るるを見てもまづぞ思ふしるべあらずはいかが分けこん
〈戦乱で所領地が荒れてしまったのを見てもまず思います。短歌の友であるあなたがいなかったら、この城に帰ってくることはできなかっただろう、と。〉
応仁の乱がはじまってすぐの話です。応仁二年(一四六八)、西軍に属する美濃守護・土佐成頼は、守護代・斎藤妙椿をして東軍に味方する東氏の篠脇城を攻めさせました。
篠脇城を守っていたのは常縁の兄・氏数。氏数は奮戦したが力およばず、ついに落城。篠脇城は斎藤妙椿の手に渡りました。
関東に在陣していた東常縁のもとに落城の報がとどきます。折から亡父の追善法要をいとなんでいた常縁は、次の歌を詠んだと伝えられます。
あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなほも恋しき
生きて見る落城の悲哀。「人の昔のなほも恋しき」とは、父が元気だった昔が恋しいとの意味でしょう。
この歌は人々の涙をさそい広く人口に膾炙します。やがて城を攻め奪った斎藤妙椿の耳にも入り、いたく感動させたといいます。
妙椿は、歌の友人である常縁に対して「情(こころ)なき振舞をなさんや」として、「もし常縁が歌を詠んで送ってくれたなら、所領は元どおりにお返ししよう」と申し出ます。常縁は早速、十首の歌を詠み妙椿に送ります。中の一首を引用しておきましょう。このような作です。
思ひやる心の通ふ道ならでたよりもしらぬ故郷のそら
〈故郷の篠脇城の様子を知りたいが、いまは知るてだてがまったくありません。〉
常縁の十首を読んで心を動かされた妙椿は、京都で常縁と会談し、篠脇城は常縁に返還されることとなりました。信じられないような話ですが、事実だったのです。
最初に掲出した作は、篠脇城に入った常縁が、感謝の気持ちをこめて妙椿に送った一首だったのです。
東常縁と斎藤妙椿の篠脇城にかかわるこのエピソードは、戦乱の時代に血を流すことなく、城と所領地が返還された稀有なエピソードとして広く知られることになったのです。
「古今伝授の里」立ち上げのプロジェクトで重要な役割を果たした、地元の木島泉さんが「心の花」会員だった縁で、私は1990年代から何度も郡上大和をおとずれ、今では多くの友人もできました。
毎年秋に行われる「歌と言葉とかたち展」というイベントに参加します。そして友人と一緒に「ヘボ取り」(蜂の子取り)をして酒を飲みます。もう二十年ほど付き合ってもらいました。(「ヘボ取り」に関しては、このブログにエッセイ「味な話1 へぼ取り」としてアップしてあります)
そんな経緯があって、私は今、「古今伝授の里・フィールドミュージアム」名誉館長ということになっています。
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