7月17日(火)、二本松市・真行寺を後にして、その南にある本宮市の仮設住宅に避難されている方(Aさん)と宿泊施設で交流し、翌18日(水)に仮設住宅を訪問しました。
Aさんは、75歳の女性の元教員で、大変明るい方です。小学校2年生の時満州で終戦を迎え、本土に引き上げてこられました。かつては支部教職員組合の書記長を5年間休職して専従した経験をお持ちです。当時福島県では初の女性書記長だったそうです。
浪江町から避難所を転々とし、この本宮市運動公園にある仮設住宅がなんと10か所目だそうです。こちらでは170戸の仮設住宅がありますが、入居率は約半数だそうです。
現在、夫婦2人で4.5畳2間と4.5畳と台所と玄関という狭い住宅にお住まいです。
冷蔵庫、洗濯機、炊飯ジャー、電子レンジ、電気ポット、電気こたつの6点セットは、日赤による募金から支給されたそうです。
浪江町は浜通りにあり、比較的温暖な地域でしたが、この本宮市は中通りに位置し、冬の寒さや雪がこたえたそうです。エアコンと二重窓の設置、湯たんぽと電気毛布配布の支給でしのいだそうです。
この地でもモニタリングポストが設置されています。Aさんは「放射能の数値を毎日見て、その値を気にしながら生きる生活なんて他県の方には想像できるでしょうか?」とおっしゃっていました。
女性たちは仮設住宅地にある集会所に集まり、米袋のひもでかごを編むなど手を動かしながら思いを吐露する機会があるけれど、男性は見知らぬ人ばかりのコミュニティになじめず、家に引きこもり、アルコールで紛らわしたりしているそうです。
一時帰宅は2度実現しましたが、「もう戻れないのでは・・・」との思いが強くなっているそうです。
とても明るいAさんが、「園芸用の土にはまだ触れない。放射能の値が高いのではと心配になり、どきどきしてしまう。人ごみも地震が起きたらと思うと行けない。スーパーへの買い物に行けなくて、宅配してもらっている」とおっしゃったとき、とても驚きました。このような気丈な方でもPTSDの症状が表れるのでしょうか。Aさんをご紹介してくださった友人は、Aさんにうつ状態のときがあり、仮設から連れ出して気晴らしを試みたとおっしゃっていました。
「モノはいらない、放射能に汚染されていない野菜が欲しい」とおっしゃっていました。後日、実家で作っているじゃがいもをお送りしました。
仮設住宅の中には、写真のようにプランターでもきゅうり、なす、すいかなどの野菜や花を立派に育てている家がありました。犬も車で連れてこられたそうです。元はおそらく農家で、家の周りや畑でたくさんの野菜や野菜を育てていらしたのでしょう。その暮らしが再び戻ってくるかどうか、先の見通しが持てない不安は想像を絶するものがあります。
一旦事故が起こればこのような状態になるのです。
Aさんは「私は国から2度捨てられた。一度は終戦直後、そしてもう一度は今回。まさに棄民だ。」
大飯原発の再稼働に際して野田首相は「国民の生活を守るために、私が責任を持って判断した」とおっしゃいました。
事故の責任を誰がとれるのでしょうか!?
誰も取っていません。誰も取れません。