ゆかりんご

沢田研二さん、ジュリーについてのブログです。GREEもどうぞ。
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熱中世代 6

2014-02-06 23:20:04 | ジュリー
転機が訪れる。

かつみが失踪ですね。いなくなっちゃったんですね。渋谷の練習場で練習してたら突然いなくなっちゃって。それで、すべて番組に穴があいたんです。
僕はずっといっしょにこの先もやっていくと思ってたんですが、へぇ、そんなことありか、これはちょっと考えなきゃいけないなと。いろいろ考えさせられましたね。そういう意味では、僕は彼の失踪はありがたく思ってますけど。
その後の、これから先のこと、これまでやってきたことなど。
このころ、フランス人パリジェンヌと大恋愛に。
やっぱり色眼鏡で見られるの好きじゃないから、一個人として好きになってくれたことにたいして、これはほんとの、混じりけのない愛情だと感じた。
でも、うまくいかなくて、ど真ん中あたりで、かつみがいなくなっちゃったものですから、箱根あたりで僕らは合宿をせざるを得なくなっちゃって。
彼女とは芦ノ湖で別れたんですけど、中井さんというマネージャーが、ダメだよと言って、えー、なんでだよ、個人的な感情と仕事は同じにならないと思ったけど、いやだめだと。


1971年解散。
解散コンサート。やっぱり緊張してましたね。これ終わったらもう最後なんだ、自分の人生において、もう音楽生活とは別れるんだ、だから最後、きちっとした形で。泣くまい泣くまい泣くまい、冷静に冷静に冷静にと思って演奏してたのは確かです。
これは虚と実でいうと、虚の世界だと僕は思ってましたね。虚構の世界、作り出されたものだと。だから、その通り受け止めるのはできない。時代背景もありました。こんなことやってる場合じゃないだろうと。
60年安保、70年安保とありましたし、学生運動等、もっとも盛んな時期でしたから、われわれはこんな音楽やってていいのかな、という。

メンバーのみんなの涙は。
僕はこれでもう二度とタイガースという名前を使ってほしくないと思ってましたから、もうこれで永遠の別れだというつもりで、だからそれにたいするさまざまなメンバー自身の、タイガースとかその前のファニーズからひきずってきてる、そういう思いが去来したんじゃないでしょうかね。
打ち上げというか、最後の晩餐というか、みんなで飯でも食おうと内田裕也さんが連れてってくれて、有楽町のちゃんこ料理やでやるというから、その横に2トントラックを止めておいて、みんなと飯食って、じゃあねと言ってトラックに乗って、東名から名神と行って、翌日帰りましたけど。
それから37年ぶりに渋谷で会うことになったんですけど。
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サリー、ラジオ出演 2

2014-02-06 09:15:06 | ジュリー
つづきです。

子どもの頃のお話続きます。

誕生日にはカレーライス作ってくれた。カレーライス好きだったから。誕生日はカレーライスの日。その日は僕が好きなそれを作ってくれた。それだけですけどね。それが、唯一の楽しみだった。
ややこしいですけど、兄弟は一番小さいときは8人くらいいましたからね。
ひとりひとりの誕生日にはそれぞれが好きなものを作ってた。
たいしたもんじゃないけど、ふつうの野菜と牛肉が入ってたりとか。
昔はルーとかなかったから、メリケン粉っていうか、小麦粉をちょっと溶いてとろ味をつけるみたいな。

岸部さんが聴きたい曲サティスファクション

流れてるのは、ローリングストーンズのだけど、わたし、考えてみたら、この本家本元のあまり聞いたことないな。
この曲は、やっぱりジュリーとかタイガースので聞きなれてる感じ。

これ、アマチュアのころに京都会館でエレキコンテストというかエレキ合戦みたいのがあって、これを歌って優勝したんです。この賞金5万円でユニフォームを作って、大阪のナンバ一番というジャズ喫茶で出てた。ファニーズの頃ですけど。
カーキ色のミリタリーっぽいやつでしたね。ちょっとビートルズっぽい。

ローリングストーンズにはうまくスケジュールがあえば行くつもりしてるんですけど。特別なバンドなんで。

1967年にタイガースがデビューして、まる4年ですね。意外と短いんですよね。
それからPYGですね。タイガースから僕と沢田、スパイダースから大野克夫さんと井上尭之さん、テンプターズから萩原健一と大口ひろし、その6人でやったんですけどね。
すごいバンドだったんですけど、
すぐ1年くらいで解散しましたけどね。10年続くなんて、まぁ無理でしょうね。
PYGの途中で、ショーケンがやめて、解散してから沢田がソロになって、僕らは井上バンドということで、バックバンドになって、いっしょにやってたんです。
それでまたしばらく沢田とはやってたんですけどね。

当時のあだ名はサリー、のっぽのサリーですね。誰が言い出したのかは覚えてないですけどね。
京都でまだバンドやる前に、ダンスホールとかで踊ってたころにサリー、サリー、って言われてたんです。
そのころはギター持つとか、バンドやるのが流行ってて、そういうのやれば、女の子にもてるだろうと。みんなそうですよ。
沢田はそのあとだけど、4人で歌は歌わないグループをやりはじめて。それが最初ですね。

森本と加橋、ふたりはギターやってたんですよ。瞳と僕はなにもやってなくて。あとドラムとベースがいるということで。
瞳がドラム覚えるわということで。残ってるベースは簡単そうなのでやろうかなと。そんな感じでやり始めたんですよ。
みんなギターやるんですよ、最初。ドラムやベースはみんなやりたがらないんだよね。考えてみたら単純な動機だよね。

タイガースの思い出。
人気は確かにすごかった。日劇とかから出た後に、楽屋口から出ると、ファンが大勢いるんで押されて、メンバーかが宙にういてくんですよ。
あとは、アシベにでたときは、交差点で警察が止めてくれて、パトカーが交通を止めてだすようにしてましたね。

夏木さんはグループサウンズの追っかけだったそうですが、タイガースやテンプターズのような人気があるバンドだとファンが多すぎて話してもらえないので、わざとちょっと人気のないバンドの追っかけになって。そうすると出待ちのとき、しゃべったりしてくれるから、って。
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2月5日(水)のつぶやき

2014-02-06 07:13:47 | ジュリー

ANAから案内が来たので、5月の音楽劇に行くときの札幌行き飛行機、予約した~(^-^)/


ジュリーも言ってるけど、確かに食べると太る。わたしは正にこれだ。


神様お願い、あの人に会わせてよ~、って歌詞が頭をぐるぐる。


BGM:沢田研二『人間60年 ジュリー祭り』 08年東京ドーム。ジュリーの喉本当に強い。還暦を迎えたとはとても思えない。見事80曲歌いきっている。あと驚いたのはこのバンドにはベーシストがいない。低音はシンセベースでやってるみたい。ストリッパーなんてもろロカなのに違和感無かった。

ゆかりんさんがリツイート | RT

この寒いのに、どうして顔かゆいのだろう。


(*・д・)<図書館の「今日帰ってきた本」に置いてあった佐野洋子の『死ぬ気まんまん』をついでに借りて読んだら、余命告知済の作者が沢田研二のビデオを楽しみ、ジュリーを熱く語っておった
(*・д・)<最近なぜかあちこちの記事や文字で見かける氏だが、まさかこの本でも出会うとは……

ゆかりんさんがリツイート | RT

地方出身者の就活は厳しいという記事を読んだ。ほんとにそうだよね。
地方と東京の格差はかなりあると思う。学力からして違うから。


はじめちのスノースクートだモン!きもちよかモーン☆かおりお姉さんもあとで乗ってみるといいかモン! p.twipple.jp/cx5LJ

ゆかりんさんがリツイート | RT

我がオフィスもネスカフェアンバサダーになって、バリスタがやってきました(^-^)/


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