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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言

2015年02月24日 | 国際・政治

 2014年年11月15日、下村博文文部科学大臣は会見を行い「教科書改革実行プラン」を発表した。そして、今後はこのプランに沿って必要な制度改正を行っていく予定だと語った。その内容に驚かされる。

 文部科学省は社会科、特に近現代史が基準改定の対象であるという。そして、教科用図書検定調査審議会において、下記のような改定が了承された。

1、愛国心・郷土愛など改定教育基本法に盛り込まれた目標をどのように教科書に反映しているかを教科書会社に書面にて提出させる。
2、「通説的な見解がない事例」や「特定の見解を特別に強調して記述をする場合」には「バランスのとれた記述」とすること
3、政府見解や確定判例がある場合、教科書に記載すること
4、改定教育基本法や学習指導要領の目標に照らして欠陥がある場合を不合格要件とすること

 安倍政権は、いよいよ国家主義的な色彩を前面に出した教科書づくりに取り組み始めたということではないか、と思う。
 そしてすでに、昨年7月の「集団的自衛権の行使を容認する」という安倍政権による憲法解釈変更の閣議決定が、教科書の記述に大きな影響を及ぼしているという事実が報道された。それは、改定に、上記3の「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていること」を入れたからである。

 「政府見解」を教科書に記載させることは、ある意味で教科書の国家統制であり、日本の過去の過ちを再び繰り返すということではないか、と思う。
 国益や一部集団の利益を念頭に置いて、学者や研究者の客観的な歴史研究の成果とは異なる次元で議論される政府や特定の政治勢力の主張を、あたかも史実のごとく教科書に記載させることが、大きな問題であることは、領土問題に限らず、「従軍慰安婦」の問題や「南京大虐殺」の問題をめぐる最近の議論を考えれば、明らかだ。日本国内だけではなく、海外からも懸念の声があがっているようであるが、安倍政権の歴史修正主義的な主張を考えれば、当然のことだと思う。

 まさに、特定の政治勢力による教育の「不当な支配」にあたると思うのである。そして そうした安倍政権の姿勢に引きずられて、社会全体に再び、政治的に自由な言論が許されない雰囲気が広がりつつあるような気がしてならない。
 例えば、先だって「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ市民の俳句を、さいたま市大宮区の三橋公民館が「公民館だより」への掲載を拒否した問題があった。全国から抗議の声が相次いだようだが、市や市教育委員会は掲載拒否を撤回しようとしなかったという。これは、安倍政権の意向を敏感に感じた公民館側の自主規制なのではないか、と思う。
NHK籾井会長の「政府が右と言っていることは左とは言えない」などという主張は論外であるが…。

 「南京事件」については、多くの被害証言はもちろん、下記のような加害証言が相当数あるにもかかわらず、今、日本ではそうした証言をほとんど無視した主張が繰り返されている。もはや引き返すことが難しい状況になっているのではないかと心配である。
 下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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                              第3部 証言

                      2 南京陥落前後──城内や城門付近での虐殺

太平門で敗残兵を処分せよと言われた

                                                    大東真一
                                                1906年7月生まれ
                                南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                                 1998年5月取材

 昭和3年1月10日久居33聯隊に入隊。鳥羽から奉天駐箚。昭和5年1月10日除隊。以後6年間青年学校の指導員をし、初年兵の指導の功績を認められて表彰されました。

 昭和12年8月30日に県下で一番大きい第5動員〔26日から開始〕の召集を受けました。わたしは砲兵でしたが、村から近い久居に変えてもらい、第33聯隊に行きました。うちの村で50人くらいが召集を受け、歩兵は久居に、砲兵、輜重は京都の16師団の各聯隊へ入営しました。ずっと百姓や土方仕事をしていたので体は丈夫でした。

 南京攻略の時、紫金山へは登り降りしました。中国人百姓の鍋でご飯を炊き、分隊全員の分を飯盒につめて糧秣を運んだり、戦死者を運び降ろしたりしました。斥候にでて分隊の者が戦功により5級をもらいました。六中隊長の辻四五郎は、工兵の援護射撃を断り、独断で夜襲をかけました。激戦で夜明けに天文台の方からチェッコ銃の側射を受けて、山の中腹で一歩も動けず、岩山で身を隠す穴も掘れず難儀しました。自分の分隊12人のうち3、4人が戦死。うちの中隊だけでかなりの戦死者が出ました。

 夜が明けてから太平門に攻め下りる時、敵の工兵を捕まえました。地雷を撤去させながら、道案内をさせ紫金山から太平門まに進んだんです。太平門では、敗残兵がかなりいてね。

 あそこで虐殺があったと言うが、わしは行かなんだけれど、好きな人は見に行ったな。太平門で虐殺したかもしれん。太平門で敗残兵を何したかもしれない。しっかり覚えてないが、そこで中隊長が処分せいと言ったのを聞いていました。でも、わしはそんな所へ立ち合わなかったですよ。中国人を切ったり突いたりするのが好きな人はやりました。捕虜は次々捕まえ太平門の外にいました。あんまり覚えてません。

 その後、わしらは下関に向かい残敵掃蕩しました。掃蕩のことも覚えてないなあ……。六中隊には第二機関銃がついていました。私の初年兵の教官だった重機関銃の隊長がいた。

 入城式には参加しました。各聯隊からたくさんの聯隊旗が立っていて、あんなにたくさんの軍旗を見たのは初めてでした。中隊は玄武湖の近く太平門の警備に一週間ほどいました。あたりに手榴弾がいくつも落ちていて玄武湖に放りこむと爆発して魚が浮いてきて、いっぱい取りました。

 掃蕩もあったけど、城外に出かけるだけで、を回ってくるだけで敵はいなかったです。女がおるくらいでほとんどからっぽでした。分隊で難民久区に入った時、塔の中にひっぱり込まれたクーニャン〔娘〕2人を救けてくれと中国人に頼まれ救けだしたことがありましたな。
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敗残兵に石油をかけて焼き殺した

                                                   大沢一男
                                               1916年12月生まれ
                                   南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊
                                                 2000年12月取材
●──紫金山ではえらかった
 家は百姓で、両親がいて、3人兄弟の長男でした。甲種合格だったので、もう諦めてますわな。親に元気でやってこいと言われました。昭和12年1月10日、現役で久居の33聯隊に入営しました。昭和11年兵です。
 私らの中隊長は志願して上がってきた人で、歩く歩兵操典といわれた人でしたな。

 12年8月、私らの中隊が編成されました。聯隊本部を出て大阪で2泊、それから北支に行きました。子牙河というところで戦闘がありました。また大連に戻ってから上海ですわ。敵前上陸といっても第一戦やないからもう落ち着いておって、銃の音も聞こえませんでしたよ。南京行くまで道路道路で敵にあって、うちの中隊も戦死者がありました。

 紫金山では、3日ほど攻撃しましたかなあ。うちの中隊が第一戦となってそれはえらかったですわ。五中隊と先陣を争っていました。紫金山は、私らは正面から登ったんで、上から手榴弾をぽんぽんぽんぽん投げてくるんですわ。大きな石の山で手榴弾が跳ねますねん。中隊長が自分らの小隊に「突撃せい」と、言うたんですわ。それで、代理小隊長が、「突撃、突撃」言うて進んでも、上から石がごろごろ落ちてくるわ、人間が落ちてくるし、小隊長の声が聞こえんようになりましてな。またしばらくしたら、「上がっていくんや」の怒鳴り声がしましてな。ダーと行きましてん。そしたら、てっぺんにずうっと壕が掘ってあって兵隊がいる、そこへ飛び込んで、銃剣で敵を突きましたよ。紫金山の時は、擲弾筒を使いませんでしたよ。トーチかには、逃げやんように足を鎖で繋がれているのもいて、死ぬまで闘ってるのやね。びっくりした。大勢の中国兵はやられてるし、素早いのは逃げて、もう山の上には中国兵はおらへんの。山から見た南京は大きな街でそれはきれいやった。

●──城内に入ると、焼殺、強姦、掠奪
 夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあかんと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっとしている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。

 正月は南京城内で過ごしました。城内は荒れていました。家はどこも荒らされていました。支那人というのは道具をあまり持ってなくて、鍋釜ぐらい持って逃げてたようですな。駐屯は小隊単位でしたが、分隊で一軒家に固まりになって民家に駐屯していました。城内へ入っても危ないので、2人や3人ではぶらぶら歩けないでな。なにがおるかわからないから。掃蕩は分隊単位で行きました。

 揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや。「敗残兵は揚子江のふちに立たせて機関銃で殺せ」というのを聞いたことがある。私らの分隊は実際にはやってないけどな。揚子江に行ったとき、汚い河で渦が巻いとった。

 城内の死体は臭いにおいがするので、向こうの中国人を使って死体処理をしました。おかしな形でな、木の一輪車というのかそんなのに乗せて運ばせて、穴を掘って埋めました。私らは一日だけやったので、後は他の部隊がやったようですな。

 兵隊が南京の女学校に入ってそうとう悪いことしたと聞いてますな。駐屯するとな、一週間ぐらいもせんうちに慰安所ができますねん。韓国人がやってきます。支那人は支那人でそうゆう遊商売人がおりますねん。外からの慰安所ができる前は、部隊で女の子を何人か捕まえて連れこんで慰安所にするのもあります。駐屯してると、いつの間にか准尉さんが気をきかせて、女の子にお金を払って兵隊にあてがう。それは仕方ないわな。言うにいえんことやってる。敗残兵が隠れておったりした家をそのまま火をつけて焼いたりして、南京ではたいがい悪いことしたな。

 兵隊かどうかは目つきでわかるな。びくびくしたら兵隊や。20歳前後の人はまあ兵隊にとられとるからあやしい。怖がってびくびくしてるのは運が悪いんやね。あやしいと思った男という男は引っ張っていった。南京では、ほとんどの兵隊が虐殺をやってますやろ。

 今夜はここで一泊すると命令が出ますやろ、そしたら、みんな散らばって徴発に出かけて、家をバーと開けて、鶏盗ったり、卵盗ったり鍋やら釜、野菜を盗ったり、そういうことをするんですわ。どこの部隊もやります。略奪やわな。だせへんかったら殺してしまう。ほとんどの人は逃げてますわな。怖がってわらの中でごそごそ隠れてるのもいます。娘さんなんかは墨で顔を真っ黒に塗ってな。だれも鍋の墨塗って化けとるねん。若い女ってすぐわかるから捕まえて悪いことする兵隊はほとんどや。支那事変ではほとんどやっていた。風紀を乱したらあかんと言うのは、南京を出発する前のころはありましたで。それまでは、(戦闘状態で)こちらの兵隊が倒れたりやられたりすると、お互いワーとケンが立ってきますやろ。それでやられるとやりますがな。中国人だから殺す。酷いことしました。

●──戦争は負けてよかった
 昭和13年ごろ、大別山の戦闘では、聯隊で一個中隊のガス中隊をつくった。各中隊から何名かいきなり呼び出され、洗面器に顔をつけろと言われました。若いわしらは洗面器のなかに顔をつけて息を止めて長い時間できたので、お前はガス中隊に行けと言われた。それで、マスクつけてガスを撒きに行った。ガスはボンベを持ってガスマスクと手袋をつけてシューと播きました。風向きが大事で、撒くとすぐに逃げました。この時も第一戦でしたわ。ガス中隊には、中隊長がいてその下にすぐ分隊が5つありました。そのうちマラリアにかかって入院していました。

 中国、フィリピン、ビルマと外地ばかり戦争に行きました。今から見ると、あの戦争に勝っておったらもっと苦しいやろ。若い者が内地におらんやろ、外へ出ていかなならんで、負けてよかった。この戦争は東条さんに騙されとったんや。軍部が権力をもったらあかんのや。天皇陛下も言いなりやったな。天皇陛下万歳なんていう人おらんで。ビルマ行くときなんて木の大砲つんで、7歳下の弟も一緒だった。負けることはわかってた。こんなことは二度と繰り返してほしくない。私らで十分経験してるんでな、こんなことはあかん。

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言

2015年02月18日 | 国際・政治

 「南京大虐殺」は、「南京大虐殺」という言葉ではなく、時に「南京虐殺事件」と表現されたり、ただ「南京事件」と表現されたり、「南京残虐事件」、「南京暴虐事件」、「南京アトロシティー」、「南京大残虐事件」などという言葉で表現されりして語られてきた。「ザ・レイプ・オブ・南京」という書物も、「南京大虐殺」に関わるものである。そして、その正確な虐殺数は、今なお様々な議論があり定まらない。しかしながら、事件そのものは、中国ばかりではなく世界で語られ、歴史に記録されている歴史的事実である。その証拠は、戦後、中国の「南京軍事法廷」はもちろん、太平洋戦争関係国が関わる「極東国際軍事裁判」でも採用された。にもかかわらず、敗戦国日本で、それを日本史から消し去ろうとする勢力が日本には存在する。

 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏は、多くの人たちの助力を得て、元日本軍兵士延べ250人以上に聞き取りをし、うち150人分の証言をビデオや写真、カセットテープに記録したという。また、中国の南京を訪れて、被害者140人のファイルも作成したという。そして、そうした取り組みは、「…南京を葬り去ろうとする勢力との戦いは避けられません。…」と書いている。大変な苦労があったのだろうと思うと同時に、とても貴重な取り組みだとも思う。

 ドイツと異なり、日本は敗戦後、戦争責任にきちんと向きあってこなかった。また、戦争中の歴史的事実、特に加害の事実をきちんと確認し継承してこなかった。加害の事実を後世に伝えるための施設や碑は、日本にはほとんど存在しない。そして、現在の安倍政権にいたっては「侵略」の事実すら否定しようとしているように思われる。そんな中で、皇軍の一員として、中国で残虐な事件に加わった元日本軍兵士が事実を語ることには、個人的にはもちろん、社会的にも困難が伴うことは容易に理解できる。それだけに、同書に掲載されている証言は、被害者の証言と一致する部分もあり、歴史的事実の加害証言として貴重であり、重要であると思うのである。

 聞き取りでは、実名での証言公表の承諾も得たというが、同書では、証言者が卑劣な脅迫を受ける恐れを避けるために、不本意ながら仮名で通すことに決定したという。それに乗じて、仮名であるからということで、加害証言全てを否定する人たちが存在する。悲しいことである。また、加害証言を全てをでっち上げであるとして無視するような主張は、国際的には通用しないと思う。

 松岡環氏は、南京戦に参加した元日本兵の調査に4年の歳月を費やし、”「やはり南京大虐殺はあった」という結論に達した。”と書いている。しっかり受け止めなければならない結論であろう。

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            第3部 証言
1 南京陥落直後──揚子江一帯での集団虐殺

陸上から我々が、軍艦からは大砲で、揚子江は血の色になった

                             平山仁三郎
                          1914年10月生まれ
               南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第三大隊
                            1998年2月取材
 昭和九年兵です。4月に大阪から船に乗って朝鮮に渡り、そこから陸つづきで満州に入って北上しチチハルに到着、さらに鉄道に乗って泰安鎮までいった。ハイラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。あの時はまだ独身やった。

 わしはずっと第一線ばかりで(軽)機関銃の射手でな。しかし不思議なことに怪我一つしなかった。
 上海付近に上陸してから南京に向かったけど、上海では戦争らしい戦争はしてないな。夜も昼も歩いた。機関銃も担いだし、背嚢とは別に、後ろに240発、前に60発、計300発の機関銃の弾をぶらさげて歩いた。重かったな。きつかった。南京にたどりつくまでたいへにやった。食料がない。小行李〔弾などを運ぶ部隊。太行李は食料を運んだ〕もようついてこなんだ。兵隊には食料と水がないと一番困る。菜っ葉や大根、鶏や豚も近くの民家から盗ってきたな。村の人は抵抗せなんだ。日本兵がこわいから。紫金山の戦闘はすごかった。なにしろ相手は南京の精鋭やからな。紫金山から下りるとき野砲がどんどん撃っていたな。

 南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、二大隊も三大隊もいたわ。揚子江を河いっぱいに中国人が筏や戸板につかまって流れていく。大きいのには60人くらいかな、数人のものもあったな。目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。よく当たって、舟の人が倒れて河にもんどりうって落ちるんや。次々とな、河いっぱいに下って来るんや。筏に乗っている人には黒い服をきているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。我々が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2、3時間は撃っていたかな。流れる血で揚子江は血の色やった。

 南京が陥落して、すぐに掃蕩に入った。13日、14日と城内掃蕩をやった。挹江門から入った時、死体をようけ〔たくさん〕見た。死体が5,6尺〔1尺は約30センチ〕に重なっていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった。城壁には中国兵が逃げようとしたんやろな、紐がいっぱいぶら下がっていたわ。入るとな、あちこちの道路にも死体がばらばら転がっていた。

 城内に入ったら、掃蕩するんやで。捜索隊と誘導隊に分かれてやるんや。わしらは捜索隊やった。敗残兵が次々と手を上げて出てきよる。白い旗をもってなんだ。家の中に入っての掃蕩もしたけど、相手が勝手に出てくるんや。私らの一個分隊だけで、1日目の掃蕩戦で支那兵3個中隊ぐらい、つまり700人ぐらい捕まえたな。縛ってはおらなんだ。ぎょうさんやで。すごい数や。そのあとどうなったか分からん。誘導隊が連れていきよったからな。外国人のところは入るなといわれた。相手は抵抗せんけどな。民間人はほとんど逃げておらなんだな。

 その後、城外の掃蕩もやった。第一線部隊は女の人に悪いことしやなんだ。明日死ぬかもしれんので。忙しゅうてどうにもならん。悪いことしようにも憲兵隊〔陸軍兵科の一つ。

主として軍事警察を受けもつ部隊〕が入ってくるとどうにもならん。城内外の掃蕩が終わってから、わしらの部隊は南京の南方に移った。一か月ほどいたな。その間、私らの部隊は南京には入れさせなかった。兵隊が悪いことするんでな。駐屯地では支那兵とは仲良くなった。支那人の洗濯のばあさんを雇ったな(笑い)。憲兵隊はおらへん。大体戦争中はおらへんなんだな。
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揚子江に逃げる兵を重機関銃で撃った

                             大川俊介
                          1913年3月生まれ
              南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
      は                    2006年6月取材
 現役の時は両親が健在で、家の仕事は百姓やったけど、私は手伝いはほとんどしてませんでした。私は(昭和)八年兵で昭和9年の1月に33聯隊の第1機関銃中隊に入隊しました。久居には1年間いた。久居にいる間にいじめとかはあってね。下士官に箒で叩かれたことがありました。満州には予備兵として行って2年間いてね、初年兵の訓練もしました。1期検閲をすんで昭和11年、12年は予備役でした。満州から帰ってきてから伍長になった。
 
 始めは北支に行き、そして南京へ行った。紫金山は頂上まで上がって機関銃を撃ったな。紫金山の攻略は2日以上かかった。そこで私の機関銃中隊は消耗があんまりなかった。たてこもっている支那兵を撃った。そして逃げている兵隊に向けても撃ったね。苦労はなかったけれど撃った……南京のこと……あんまりおぼえてませんわ。

 揚子江を渡って逃げている支那兵を重機関銃で撃ったな。揚子江は大きかった。皆逃げていった。その後ろで撃っとったんだ。私は当時射手だった、戦争だから撃ったよ。揚子江を渡る時に援護射撃をしたが、援護射撃といっても向こうが撃ってくることはない。こっちがダーと追って行って撃ったね。こっちばかり撃ってた。

 城外に駐屯した。城内では戦争はなかった。勝ち戦のわけで、南京の南の方も戦争はほとんど終わってた。掃蕩戦に参加したね。城外、城内と掃蕩した。

 死体処理には行ってない。激戦で支那人の死体が転がってたが。
 駐屯してから徴発に行った。1ヶ月もいたので食わなければならないので、泥棒みたいに徴発に行った。豚や鶏などを捕まえて来た。
 私は行っていないけれど、隠れてした人もいた。クーニャン〔娘〕を捕まえるのを見たことがある。そしたら、逃げるわけ、逃げるのも早い。南京が治まった後もクーニャンを捕まえる人がいたね……。南京のことはね。あんまりね……。

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河辺で逃げ切れない数千人を九二式重機で連続射撃
                              佐藤睦郎
                           1914年2月生まれ
            南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
                            1999年1月取材 
 久居の33聯隊の(昭和)九年兵です。すぐ満州のチチハルに行きました。満期除隊してからは、おじに仕込んでもらい魚屋をしました。町には魚屋がなくてな、繁盛しました。月給とりとは比べ物にならんくらい儲かりましたよ。
 そうしているうちに、支那事変です。23歳の時でした。

 上海は覚えてますよ。機関銃中隊は戦闘が収まってから上陸しました。兵站〔後方にあって、食料や軍需品の供給や輸送にあたる場所〕の糧秣〔食料〕を取りにいったのを覚えています。

 句容の飛行場を33聯隊は一大隊で攻めたんですわ。重機関銃はね、銃手が4人、弾薬手が4人、銃馬が4人、弾薬馬が4人、5、6貫目ある弾薬の箱8箱積むんでな。それを山地になると馬が使えんで、人間が自力で担ぎました。そやから、紫金山はえらかったですわ。 
 紫金山へは、第1機関銃は登らず、二、三大隊が攻撃したんですわ。わしらは、紫金山第一峰の右手にある何百メートルかの山を攻撃しました。中国側は手榴弾と迫撃砲で反撃してきましたわ。戦いが終わって見ると、16師団と同じような大砲がまっさらで使っていないようなものが放棄してありましたわ。

 ●──下関の手前で中国人を撃ち殺し
  下関でさらに数千の男女を撃ち殺した 南京が落ちてすぐですわ。下関に向かえということでね、下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣〔銃剣〕持って大きな道を通って下関に向かうんですわ。攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない、男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、角度を決めて左右にスーと流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をバッと組み立てて全部殺すんや。
 
 その日下関に着いたら、もう勝った勢いでな、向こうに敵ということで撃ちまくった。エンジンのないような、櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる、それを全部ダダーと撃った。下関にいる歩兵のさまざまな部隊もここかしこで撃っている。

 同時に揚子江の河岸にも大勢の押し合いへし合いの人がなだれ込んできてな、人はドンドン増えてきた。向こう岸へ逃げ切れなくて人間のかたまりとなって岸壁に集まってきていますんや。もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです。機関銃中隊一個小隊で二銃、一個中隊で八銃の重機関銃です。押しまくりました〔押すと弾丸が出る〕。港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。4百~5百メートル向こうにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。人の固まりが崩れていくんですわ。せめて白い布でも掲げてくれたらとな、かわいそうと思ってたら戦争するんもんやないと思う。我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、(中国人ならだれでも殺すという)命令は、師団長が出したんですやろな。

 次の日も、同じように下関で重機関銃を撃ち、大勢の人を殺しました。機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することは少なかったけど、掃蕩には参加しました。逃げ遅れた兵は白い布を立てていてね。ほとんどが兵の服装をしていました。みな集めて軍司令部へ連れて行くんです。中国軍の服装はまちまちで普通の服を着てました。
 捕まえた捕虜を揚子江で処分するために、また、機関銃を撃ちました。

 その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんようになりましたんや。死体を埋めることになりました。焼くということもありました。

 南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。

 今新聞でいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目にあってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。

 ●──地獄とは地獄 赤ちゃんに小便かけ
 南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーと泣いていました。日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことをするのを見ていても、「そんなことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな。笑われて馬鹿にされるから何も言えなかった。

 自分と同じ年頃の中国人2人捕まえて、苦力(クーリー)〔人足・力仕事をする労働者〕として働かせたけど、1人がどうしても帰らせてくれ言うてね。治安がよくなってきたので良民証を持たせて帰しましたが、自分の隊を離れるとすぐ殺される。うまくいったらいいが、持っていてもやられる。無事に帰れたかどうか。かわいそうやった。助かった人は少ないですよ。治安ができてくると、憲兵とか入って強姦とか暴行とかも少なくなるんやけど。憲兵が入るのが早ければ、だいぶ犠牲が少なかったと思う。規則があるんやから、命令を早く出していたら、そんな無体なことをせずにすんだんや、子どもまで殺すことなかった。ほんとうにそれまで、無茶苦茶なことしてた。各部隊がそれぞれえげつないことやってました。目の前で見ていて、戦争に負けたらこうなるのは仕方がないことだと当時は思っていました。本当にかわいそうなことしました。

 

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南京事件 郭立言さんの証言

2015年02月08日 | 国際・政治

 2015年1月31日、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」という言葉で有名な、元ドイツ連邦共和国大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が亡くなった。私は、安倍総理に、このヴァイツゼッカー氏の言葉の意味をしっかりかみしめてもらいたいと思う。安倍総理の「未来志向」とやらは、この言葉の意味を無視して、不都合な過去をなかったことにしようとするものではないかと思うからである。私たち日本人は、いろいろな意味で「過去に眼を閉ざ」してはならないと思うのである。

 戦後世代はもちろん、直接戦争に関わらなかった人間は、戦時中に南京でいったい何があったのか知りたいと思っても、南京攻略戦で虐殺や略奪に係わった元日本兵の多くが沈黙を守ってきたために、戦後70年が経過する現在も、その実態を正しく認識しているとは言えない。そして、その歴史的意味が国民に共有されているとは言えない状況にある。
 しかしながら、関係者がその記憶を封印したまま亡くなり、当時を知る人たちがどんどん少なくなる中で、懸命にそうした記憶を甦らせ、記録し、公にしようとする取り組みが進められている。大事なことだと思う。

 口を閉ざす元日本兵や、不都合な過去を否定したい関係者の気持ちも分からないではない。でも、南京で虐殺や略奪があったことは否定できない事実だと思う。下記のような中国側被害証言は少なくないし、そうした中国側被害証言と合致する日本側の文書資料や元日本兵の証言も、数は少ないが相当数集められている。日本の将来を心配して語りはじめた元日本兵や、熱心に聞き書きに取り組む戦後世代の努力に報いて、記憶の呼び戻しに苦しみつつ語る元日本兵、当時の事実を知る関係者も出てきているからである。

 下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「郭立言さんの体験」と題された部分を抜粋したものであるが、文章の中に「18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ…」とある。その「中島部隊」とは、南京陥落後、南京城内の掃討にあたった中島今朝吾師団長が率いた第16師団のことであろう。
 
 そしてその中島今朝吾師団長の日記に「捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム、時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ」とか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ…」とか、「後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル」というような記述がある〔437 捕虜(俘虜) 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍NO1 参照〕。

 第16師団(中島部隊)は投降してきた中国兵を捕虜とはせず、国際法に反し殺害していたということであろう。
 特に、下記証言にも出てくる、「草鞋峡」における虐殺は、様々な立場の人が語っている。だから、 「今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています」というような主張は、不都合な証言や資料を無視するもので、国際的には通用しないのである。
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                    中国人生存者の証言
 郭立言さんの証言

 郭立言さんは、南京事件当時、21歳。中学を卒業後小学校の教師をしたことがあるが、日本軍が南京に来たころは、学芸中学の事務主任の仕事をしていた。住居は中華門内の本匠(大工)町にあり、家族は両親と男ばかりの兄弟6人であった。父は50歳過ぎで裁判所の書記、長兄は23歳で電気工、次男は郭さん、三男の弟は18歳で、肉屋に働いており、あと3人の弟のうち2人は小学生、末の弟は未就学児であった。

 郭さんは、現在71歳。すでに定年となり、南京市平北路紅旗新村10憧1号に住んでいる。細面の顔は色つやもよく元気そうで、あごの白髪と澄んだ目が印象的である。ひと通り、自分の体験したことを語り終わったとき、「当時を思い出すと、すぐに涙がでる」と言って、目を光らせていた。その体験は難民区の状況と崇善堂の手伝いなどを伝えていて貴重である。(聞き手=笠原十九司、由井正臣)

 1937年12月、南京陥落の数日前(多分、12月7日か8日頃)、日本軍が南京にせまったので、郭さん一家は、父の知り合いをたよって、難民区(国際安全区)内の鼓楼樓病院裏の興皋旅館に避難した。持ち物は布団とわずかな衣類に米だけで、家財道具はいっさい残してきた
。避難した旅館は数百人の人が逃れてきていたが、その中に知人は一人もいなかった。両親と6人のきょうだい、計8人の一家は一部屋で生活していた。

 13日に日本軍が城内を占領すると、建物が焼かれ、銃声が難民区内にまで聞こえてきた。あとで知ったことだが、郭さんたちが住んでいた本匠町一帯の1000戸の家はすべて焼き払われ、残っていた住民はほとんど殺されてしまった。もちろん、郭さんの家も焼かれ、家財道具はいっさい失われていた。

 日本軍が入城してから数日後、5人の日本兵が郭さんたちの避難している旅館にやってきた。彼らは男たちに銃を突きつけ、一人ひとり、頭に軍帽のあとがないかどうか、手のひらに銃を持ったタコがないかどうかを調べ、銃と軍服を捨てて逃げ込んだ一人の国民政府軍の兵士を見つけ出すと、その場で銃殺してしまった。当時、郭さんは頭を短く刈っており、日本兵に銃を突きつけられて兵士かどうかを訊ねられたが、かつて教師をしていて手が白かったので、難をまぬがれた。しかし、恐ろしさのあまり、3日間は食事が喉を通らなかったという。

 それからしばらくして、18歳の弟が、日本軍の中島部隊に「安居証」をもらいに行ったところ、兵隊に捕らえられ、南京から40キロも離れた句容まで連行された。その句容で雑役夫として使われていたが、4~5日して逃げ帰ってきた。そこで家族は相談し、兄、郭さん、それにその弟は青年であり、このままここにいるのは危険だということで、3人は寧海路21号の”ガラスの花園”(温室)に身をかくした。そこで十数日身をかくすのだが、その間、こっそり街へでかけて、店からメリケン粉などを買ってきて、「ソ」というパン・ケーキのようなものを焼いて生活していた。

 この温室の向かいが、寧波同郷会館であったが、そこには武器をすてたたくさんの国民政府軍兵士が収容されていた。そこへ十数台のトラックをもって日本軍が乗りつけ、1台に70~80人の中国兵を積んでつれ去った。これらの兵士は、上新河から草鞋峡につれていかれ、各グループが並ばされて銃殺されたという。

 またここで郭さんは、14歳~16歳ぐらいの女の子が6人の日本兵に暴行されるのを目撃した。女の子は歩けなくなってしまったが、両親は娘が暴行される傍で涙を流す以外に方法はなかった。
 もうひとつ郭さんが見たのは、清涼山虎踞にあった二つの大きな「万人塚」である。それは郭さんの家の墓地のすぐ近くで、山のように虐殺された死体がつまれていた。

 その後、郭さんは人の紹介で国際安全区(難民区)の仕事を手伝うようになった。安全区はアメリカ人など、外国人が主となって働いていたが、その「国際救済委員会」の事務所は寧波路二号にあり、スパーリングという人がいたのを覚えている。そこでの仕事は、郭さんは若かったのでお茶を売ったり、水を売ったりする雑用であり、暴行を受けた人たちの面倒をみたりした。この仕事は、同胞にたいする同情もあったが、なによりも国際救済委員会の腕章をつけていれば安全であり、自分の命を助けることが第一の目的であった。安全区にある金陵神学院などは、目印として赤い旗をたて、その間を麻紐などで囲っていたが、南京占領後の2ヶ月間ぐらいは日本兵が出没し、名は安全区だったが、実際は「非安全区」であった。城内が平穏になったのは日本軍の憲兵が出るようになってからであった。ほんとうに社会が安定したのは、4,5ヶ月してからであったという。

 その間、郭さんの父は慈善団体の崇善堂の仕事を手伝っていた。父が崇善堂の仕事を手伝うようになったのは、責任者の周一漁と以前からの知り合いで、周にたのまれたからである。父はその仕事を無料で手伝ったが、仕事は4、5ヶ月続いた。崇善堂の行った死体埋葬の数は数万人に及んだという。父がその数を知ったのは、埋葬隊の人びとに賃金を支払う会計の仕事をやっていたからである。

 郭さんの家が焼かれてしまったので、後になって石鼓路にあった周の家にしばらく住まわせてもらっていた。また、当時郭さんは現在の奥さんの陳光秀さんと婚約中であった(陳光秀さんの証言は本ページのひとつ前)。
 郭さんにとって、南京事件の体験は大変ショックで、それ以来、周期的に脳神経がおかしくなり、病院に通っているという。

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南京事件 陳光秀さんの証言

2015年02月04日 | 国際・政治

 安倍総理は8月に「戦後70年の談話」を発表するという。そして、「(歴代政権が)重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権として70年を迎えてどう考えているのかという観点から談話を出したい」と述べた。過去の植民地支配と侵略についても「痛切な反省と心からのおわび」を表明した村山富市首相の戦後50年談話の文言をそのまま用いることに否定的な考えを明らかにしている。

 まさに不都合な歴史の修正につながるものではないかと心配である。
 下記は『南京大虐殺の現場へ』洞富雄・藤原彰・本多勝一編(朝日新聞社)から、「陳光秀さんの体験」と題された部分を抜粋したものである。第Ⅱ部現地調査の記録「五人の体験史」の部分を担当した編者の一人、本多勝一氏は、この時の南京取材で6人から聞き取りをしたが、そのうち5人の証言は法廷での「反対尋問」に耐えうる証言と判断し、「ここに報告します」と書いている。「陳光秀さんの体験」を読んで、その意味がわかるような気がした。ただ、「見た」とか「聞いた」というような単純な証言ではなく、自分の家族や親戚、また近所の人たちがおかれた状況や行動を細かく証言しているからである。こうした証言を個人的に創作することは極めて困難であろうし、創作の場合、関係者にあたればすぐに創作の事実がわかってしまうからである。

 また、今見逃せないのが、イスラム国による後藤健二さんと湯川遥菜さんの殺害に関して、安倍総理が「テロリストたちを絶対に許さない」「その罪を償わさせる」「どれだけ時間がかかろうとも、国際社会と連携して犯人を追い詰め、法の裁きにかける強い決意だ」などと強気なコメントをしていることである。日本の植民地支配や侵略の事実には目を瞑り、こうしたコメントを発表することはいかがなものかと思う。

 イスラム国は、「日本政府へのメッセージ」ではっきりと安倍総理を名指しし、

日本政府へ。おまえたちは邪悪な有志国連合の愚かな参加国と同じように、われわれがアラー(神)の恵みによって権威と力を備え、おまえたちの血に飢えた軍隊を持つ「イスラム国」だということを理解していない。

アベよ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺りくする。日本にとっての悪夢が始まるのだ。

と言っていることなど、安倍総理は意に介さないようである。ふたりの殺害は残酷極まりない行為であるが、そこに至る過程を無視してよいものであろうか、と思う。イスラム国に結集する人たちは、生まれときからテロリストだとでも言うのだろうか。私は、下記のような指摘を目にして、考えさせられ、過去の歴史を無視して進もうとする安倍総理の「未来志向」とやらが、いよいよ危ない気がしてならないのである。

・第1次世界大戦後、イギリスとフランスが「サイクス・ピコ協定」によってアラブ地域を分割したことが、今も尾を引いている。イギリスやフランスの国益を反映させるかたちで、イスラム地域の実態にそぐわない秩序づくりをしたことが、こうしたテロを生む遠因といえる。


・第2次世界大戦後、欧米がパレスチナにおけるユダヤ人国家「イスラエル」の建設を支持したことは、アラブ人に様々な犠牲と混乱を強いることになった。


・全ては2003年の米ブッシュ政権のイラク攻撃から始まった。今イスラム国を統治しているのは、イラクのフセイン政権を支えた官僚のプロである。


・昨年、イスラエル軍がパレスチナ自治区を激しく空爆するとともに、ガザ地区へ侵攻した。名目はハマスやイスラム聖戦のロケット弾攻撃に対する反撃であるというが、イスラエル軍は、F-16戦闘機やアパッチ攻撃ヘリなど、アメリカから最新兵器を導入し、圧倒的な戦力を利用して攻撃した。ガザ地区のみで2158人以上の死者をもたらしたという。学校や病院まで爆撃し、子どもたちも多数犠牲になった。イスラエル人が一方的にハマスやイスラム聖戦の暴力にさらされてきたのでやむを得ないとする考え方があるが、占領という暴力の中で、大勢のパレスチナ人が差別され殺害されてきた事実は無視されている。


・イスラエルは『武器密輸やテロのためのトンネルを破壊している』と主張してるが、実態は無差別で徹底的な破壊であった。ガザ東部のシュジャイヤ地区では、住民が退避しきれていないのに空爆や砲撃が繰り返され、何百軒もの家々が全壊した。瓦礫の下に遺体が埋まるという状況になった。最初から子供をターゲットにしたとしか思えない攻撃も繰り返された。そもそも東京23区の半分ほどの面積のガザは人の出入りが厳しく規制され、難民キャンプも飽和状態。避難するにも避難する場所がないのだ。だから、大勢の人たちが死んだ。


・アフガンのタリバーンは遠くから見れば危険なイスラム原理主義かも知れないが、近くで個々を見れば飢えた孤児である。

 でも、安倍総理は、日本人ふたりがイスラム国に拘束され身代金を要求されている最中にイスラエルに行き、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦いに取り組む」とイスラエルとの連携を発表し、「イスラム国と戦う国々を支援する」と宣言した。そして、ふたりが殺害された後、海外では安倍総理の発言が 「Japan:We will never, never forgive' ISIS」などと繰り返し報道されている。そうした安倍総理の姿勢は、日本国憲法の精神に反するものであると思う。

 後藤健二氏も「対テロ戦争」などというような武力による解決など求めてはいなかったはずである。日本は、イスラム国空爆を繰り返すアメリカを中心とした有志連合などに同調することなく、日本国憲法の精神に則り、毅然として平和的解決を追及するべきだと思う。それが、国際社会における日本の信頼を高め、中東の親日的感情を取り戻すことにつながると思うのである。
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                  郊外農村での集団虐殺と強姦
                    ──陳光秀さんの体験──

 南京市から東へバスで30分ほどの許巷村(現在の西郷村)に、当時20歳(数え齢、以下同)の陳光秀さんは住んでいた。55~56歳だった農民の父をはじめとする家族は次の9人である。
 祖父(父系)・父・母・当人・弟(16)・兄夫婦・姪(メイ、兄夫婦の娘。7~8歳)・妹。
 ほかに姉もいたが、幼いうちから童養媳(トンャンシー)として近くの他家に嫁いでいた。

 この村へ日本兵が初めて現れたのは、旧暦11月8日(新暦12月10日)の夜明けである。陳光秀さんがまだ寝ていたとき、親戚の青年がかけこんできて叫んだ。──
 「二嬸(アーシェー)、二叔給打死丁!(アーシューケイタスーラ)(おばさん、おじさんが殺された!)」
 母がとびだしていった。光秀さんは寝台の下にかくれた。父は夜明け早々に農作業場へ牛の餌の草はこびに行っていたのだ。兄はこのときどこかへ出かけて留守だった。光秀さんはずっとかくれていたので現場を見ることができなかったが、このとき次のような事件が起きたことを母から聞いた。

 父が草はこびに行った農作業場は、数軒ほど離れた家の近くにあり、脱穀などの収穫作業に主として使われていた。ここで両脇に草束をかかえた父が歩き出したところへ、一人の日本兵が中国人の青年をつれて現れた。この兵隊は通信兵らしく、このとき電話線を取り扱っていたようだ。青年は24~25歳の顔見知りで、近くの村から徴発されて手伝わされているのだった。

 日本兵が父になにか日本語で言った。わからないので黙っていると、日本兵はいきなりピストルで撃った。弾が左腕の外側から斜めに内側へと貫通したので、父は2~3歩よろめいてから尻もちをつくような格好になった。そこへさらに日本兵が近づいて突き倒し、胸を撃って即死させた。日本兵はそのまま行ってしまった。光秀さんの家に急を知らせた親戚の青年は、この農作業場のすぐそばの家の住人である。

 もう安全と知らされてから光秀さんが農作業場へ行ってみたとき、父はすでに柩に入れられていた。殺されたときの様子は、日本兵に徴発されてきた青年から母が聞いたものだった。

 こんなことでは安心して村にはいられないので、若い女性たちだけでもすぐに山へ避難することになった。光秀さんの家では、当人と妹と嫂(アニヨメ)が避難する女性たちの群れに加わった。嫁いでいた姉も一緒だ。柩の父の姿はほんの一瞥(イチベツ)しただけのあわただしい出発だった。避難先の山までは、村から2時間あまり歩いた。

 ところがあくる日(12月11日になって、妊娠していた嫂が産気づいた。避難した女性群のなかには村の産婆さんもいたので、光秀さんと姉も手伝って計4人で500メートルほど離れた場所へ移った。ここで出産したのだが、当然ながら生まれたての赤ん坊は大声で泣く。日本兵が聞きつけて山にはいってくれば、村の若い女性たち全員に強姦や殺人の被害がおよぶ。(このときの様子を語る光秀さんは、声を押しころしたヒソヒソ声で、のどにつかえるような苦しげな告白だった。)本当にかわいそうだったけれど、嬰児は殺すことにした。みんなが助かるためには、ほかにどうしようもなかった。そばにあった「この机より大きな石」(と光秀さんはお茶のセットをのせた小卓を示す)の下へ、頭から下向きに押し込んで息をとめた。そのまま上に小石を積みあげ、死体はすっかりかぶせて元の避難所へもどった。

 女性たちが山から村へ帰ったのは、日本軍の南京城占領の翌日にあたる14日である。留守中の12日ころ、光秀さんの兄は日本兵に徴発されてどこかへ連行されていた。あくる15日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家を焼かれないし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。

 許巷村は200戸ちかくあって、その多くは道路沿いに東西に細長い街村状に並んでいた。16日の午後、村はずれで見張りに出でていた親戚のおじが「日本軍が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男あたちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の道の両側に並んで出むかえた。光秀さんは寝台の下にかくれ、その前に木の肥たご(糞尿を運ぶ桶)を置いた。農家ではこの肥たごを、夜はそのまま便所にしている。こうすれば少しでも兵隊どもを遠ざけると思ったからである。2軒西どなりの家から逃げてきた「石」姓の童養媳(トンャンシー)も一緒に寝台の下へかくれた。

 外は騒然となっているが、かくれているので何が起きているのか分からない。しばらくすると、光秀さんの家の戸口の石にすわっていた通称「蘇老太(スーロータイ)」という40歳くらいの女性が、一人の日本兵につかまって家の中へ連れこまれた。(「自分はもう年寄りだから大丈夫と彼女は油断していたのです。当時は40歳ならもう年寄り、50歳なら死んでもいい齢(トシ)でした」と光秀さん。)2~3軒離れた家の蘇仁発の妻である。

 その日本兵は、光秀さんのかくれている寝台に蘇おばさんを押し倒した。日本兵の足と皮靴が見える。恐怖のあまり、蘇おばさんは声も出ないようだ。母親も室内にいて、入口ちかくの寝台わきにかくれないでいたので、強姦は母の眼前で行われた。しかし42~43歳の母は白内障であまり見えなかった。寝台のきしむ音だけを光秀さんは聞いた。

 日本兵が去っても、寝台の下の2人はそのままかくれていて、夜もそこに寝た。おじが「もう大丈夫」と知らせに来たのは翌日17日の朝だった。その間に村で行われた以下のような惨劇を、虐殺の奇跡的生存者をはじめ多くの村人からきいた。

 村人たちが、「歓迎大日本」の旗とともに出迎えたところへ到着した日本軍は、歓迎に応ずるどころか、その旗を奪って近くの積み草にさすと、男たちを並べていろいろ検査した。帽子のあとなどをみて兵隊かどうか調べたらしいのだが、結局は兵役年齢に相当すると勝手に判定された若者が全部選ばれて100人くらいになり、そのなかに弟の陳光東(16)もいた。細長い村の中では比較的西の方の家の者が多かった。

 約100人のこの青年たちを、日本軍は少し離れた道路ぞいの田んぼに連行した。殺されるのではないかと老人たちが心配してあとをついていった。すると日本軍は、ブタやニワトリの徴発に応ずるようにと、それぞれの家へ追い返した。

 田んぼに連行された青年たちは、たがいに向きあってひざまずく格好で二列に並ばされた。この田んぼは陳家のもので、約0.8ムー(50平方メートル弱)のせまい面積だった。青年たちの列の一部は、L字状に道路ぎわの土手ぞいに並ばされた。そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺殺した。死にきれず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。

 この集団の中に、無傷で生きのびた例が一人だけいた。炭鉱労働者の崔義財である。青年らの列が一斉に刺されたとき、たまたま崔は刺されなかったのだが、刺された他の青年らと一緒に倒れ、まわりの血しぶきを浴びたまま死んだふりをしていて気づかれなかったのだ。ほかに劉慶志と時先の2人は、刺されたけれど急所をはずれていたため、あとで手当をして助かった。100人ほどのうち生存者はこの3人だけだが、いずれもこの数年内に老齢で亡くなった。

 集団虐殺が行われたのは午後4時ごろだった。午後5時ころになって「沈」の妻(35~36歳)は夫のことが心配になり、様子を見るため虐殺現場のそばの「史」家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫も弟も殺されて、彼女は声をあげて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見付け、虐殺現場に近い池のそばへ連行し、強姦してから殺した。

 さきに陳光秀さんの寝台で強姦された蘇おばさんの家には、15~16歳になる童養娘(トンヤンシー)がいた。この少女は3人の日本兵につかまって、光秀さんの伯父(母の兄)・時魏官の家へ連行され、輪姦されて下腹部がはれあがり、ひどい出血でたてなくなった。

 光秀さんの嫂(アニヨメ)は、山中での不幸な出産事件のあと避難先から帰ったが、産後の病状が悪くて寝ていた。日本兵は彼女も強姦しようとしたが、下がそんな状態とわかってあきらめた。しかしこの嫂は一週間ほどのちに死んだ。

 光秀さんの母は9人の子供を産んでいたが、男の子ばかり4人が死に、育った5人のうち光東は最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東も夫も殺されたため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭にはれものもでき、翌年の春死んだ。

 集団虐殺や強姦などで地獄絵と化した許巷村は、これでは今後どうなるか見当もつかないので、若い女性はみんな避難することになった。あくる17日、光秀さんも妹をつれて、棲霞というところにアメリカ人がつくった避難所へ、ほかの30人ほどの女性たちとともに行った。この日は光秀さんの誕生日(満19歳)であった。
 陳光秀さんは以上のような体験を語った。

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