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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮戦争 国際婦人調査団報告

2008年07月21日 | 国際・政治
 下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際民主婦人連盟17カ国の代表からなる調査団の報告書である。この報告書は24カ国語に翻訳され世界中に衝撃を与えたのみならず、この報告書を受けて「国際民主法律家協会」が調査団を組織し、調査に乗り出したということでも、重要な役割を果たしたといえる。また、それがさらに「国際科学委員会」の調査団派遣へと続き、朝鮮戦争において原爆使用を辞さずと宣言していた米国などの動きを抑制し、朝鮮戦争の停戦を求める国際世論を高揚させる上で果たした役割は計り知れないといわれる。「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)からの抜粋である。(旧字体は新字体にした)
----------------------------------
              アメリカ軍の残虐行為(付録)
                                    国際婦人調査団報告

国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書

 国際民主婦人連盟の招きをうけて、さまざまな婦人団体──国際民主婦人連盟やその他の婦人団体──から派遣された代表として、わたしたちは朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍のやった残虐行為を調べるために、国際婦人調査団に参加しました。わたしたちはヨーロッパ、アメリカ、アジアそれにアフリカの17カ国を代表しています。調査団のメンバーは次のような人たちです。団長ノラ・ロツド(カナダ)副団長リウ・チンヤン(中国)同イダ・バツハマン(デンマーク)書記ミルセ・スヴァトソヴァ(チェコスロヴアキア)副書記トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)

……以下略

・・・

 各民族の、さまざまな宗教や政治的見解をもっているわたしたち婦人──その中には種々な政党員もいるいし、政党に関係のない人もいる──は、目のまえに一つの共通の仕事をもったのです。つまり、この調査団にわたしたちを派遣した婦人たちや、全世界の平和を愛する人たちにたいして、わたしたちが見たままの事実を、良心的に正しく伝えるという仕事です。(……以下略)

第一章

 調査団は、朝鮮と中国の国境の一都市シニジュ(新義洲)をおとずれた。この町は、ほとんど完全に破壊されていた。残った建物はひどくこわれていた。町はいく度も爆撃されたが、被害のほとんど全部は1950年11月8日の夜3回にわたる空襲と、11月10日、11日の空襲によるものであった。調査団がシニジュ(新義洲)をおとずれた日には、3回警報がでた。
 シニジュ(新義洲)市人民委員会の公式発表によれば、この町は1950年7月には1万4千戸に12万6千人の住民が住んで、働いていた。調査団は、この町にはすこしでも軍需生産に役だつような工業はなかったということをきかされた。町には軽工業があっただけである。つまり、大豆、豆腐(大豆製品)の加工、靴、マッチ、塩、箸の製造である。1950年11月8日この町は、朝鮮にいるいわゆる国連軍に属する空軍百機の爆撃をうけた。この時、総計3017あった国の家と市の建物のうち2100が破壊され、住宅11000余戸のうち6800戸がこわされた。5000人あまりの住民が殺され、そのうちほぼ4000人は婦人と子供であった。17の小学校のうち16は破壊され町の19の中学校のうち12が焼夷弾で焼かれた。各派17の教会のうち残ったのはたった2つだけであった。二つの市立病院は、国際慣習の規定通りそれぞれ屋根に大きな赤十字をつけていたのに、焼夷弾で焼かれた。調査団のメンバーは、残った屋根にこれらの赤十字の跡があるのを見うけた。ある病院では、26人の患者が焼夷弾の焔で焼け死んだ。調査団は、大きなプロテスタント教会が直撃弾をうけた時、250人の人たちが死んだということをきいた。調査団が耳にした他のエピソードの中には、市営食堂の爆撃後避難しようとしている間に30人の母親と子供が殺されたという話があった。人口の密集している市場地区では、2500人の人々が死傷した。11月8日のシニジュ(新義洲)市の負傷者の総数は3155人であった。調査団のメンバーはガラクタの中から掘り出された爆弾の破片をしらべ、次の記号を書きとめた。Amm.LotRN-14-29 shell MJ For M 2 a MF MEL 1 Lot-GL-2-116 1944 MJBCA 2 ACT464


・・・

 3回にわたる大空襲が、おもに多数の焼夷弾によってやられたことは明らかであった。だが、団員たちは、なぜ被害がこのように広くおよんだのか、はじめはわからなかった。たまたま、わたしたちと話しあうために集まった市の、吏員や公衆の人たちから話をきいて、やっとその理由がわかった。わたしたちと話しあった人たちは、すべて次のようにいっていた。焼夷弾の最初の波が落とされた時、火を消そうとして街路に飛び出したものは、低く飛んできた飛行機に故意に銃撃された。市が大規模に焼失したのは、火を消そうとしていた市民を、故意に銃撃したことに原因があった。
 市の一婦人チャン・ユンチャ(張潤子)は、彼女の父親と夫は、焼夷弾で燃え上がった自分たちの家の火を消すために水を取ってこようとしている時、低空飛行の銃撃で殺されたといった。他の婦人キム・インタン(金仁丹)は11月8日の空襲で3人の孫と娘をなくしたと語った。子供たちは、かれらの燃えている家から走ってでる時、低空飛行の銃撃によって殺されたのである。娘は、自分の末っ子を火の中から引きづり出したところを射たれた。キム・ホンユン(金洪潤)は、かれの妻は焼夷弾で燃え上がった家から走り出したところを、機銃掃射で殺されたと話した。
 シニジュ(新義洲)から平壌へゆく途中で、調査団は、通過した町や村のすべてが、完全にあるいはほとんど完全に破壊されているのを見た。それらの町はナムシ(南市)、チェンチュ(定州)、アンジュ(安州)、スクチェン(順川)、それにスンアン(順安)である。大部分の村は廃墟同然であった。
             以上には1951年5月18日調査団の全員が署名した


第2章以降は後程抜粋予定。

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一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。

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朝鮮戦争細菌戦 国際科学委員会報告書

2008年07月15日 | 国際・政治
 朝鮮戦争で「米軍が細菌戦を展開している」という中国や朝鮮の抗議を受け、調査団を編成し調査に乗り出したのは国際民主法律家協会だけではなかった。科学者も調査団を送り科学的見地からの厳密な調査を実施した後、結論を出したという。そして、1952年8月31日その結論を発表し、北京で記者会見も行ったが、極めて慎重な手続きを踏んで実施された調査の結論は、正当に評価をされることなく、「共産主義者の宣伝」として、ほとんど無視されることとなった。世界的に有名なノーベル賞科学者ジョリオ・キューリ博士やオーストラリア政府の閣僚ジョン・W・バートンなどが、その正しさを公表しても状況はあまり変わらなかったようである。調査団の一員であったケンブリッジ大学のジョセフ・ニーダム博士がイギリスに帰国した際も、わずかに取り上げられる程度で、その調査内容はあまり問題にはされなかったというのである。下記は、『アメリカ軍の細菌戦争』と題された国際科学委員会の調査報告書からの一部抜粋である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)
---------------------------------
            Ⅲ 『アメリカ軍の細菌戦争』 
                            国際科学委員会1952年9月15日

もくじ
 まえがき………………………………………………………………(2)
 委員会の組織と活動………………………………………………(12)
 文書の考証…………………………………………………………(27)
 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連……………………(30)
 委員会の採用した事件分析の方法………………………………(34)
 プラーグ文書の昆虫学的資料……………………………………(37)
 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈………………………(45)
 植物病理学的資料…………………………………………………(53)
 朝鮮の事件(ペスト)………………………………………………(57)
 甘南事件(ペスト)…………………………………………………(63)
 寛旬事件(炭疽病)…………………………………………………(68)
 遼東と遼西の事件(呼吸器炭疽病)………………………………(71)
 大同事件(コレラ)…………………………………………………(76)
 容器または「爆弾」の型……………………………………………(80)
 捕虜諜報員の証言 ………………………………………………(97)
 捕虜飛行士の証言………………………………………………(100)
 新中国の衛生……………………………………………………(109)
 概観………………………………………………………………(113)
 結論………………………………………………………………(126)

付録

 46件の付録の表………………………………………………(131)
 アメリカ帝国主義はどうして細菌戦を始めたかの真相
   (ケニス・L・・イノック中尉の告白)…………………………(136)
 どうしてわたしはアメリカのウォール街がやりはじめた非
 人道的な細菌戦争に参加させられたか)
           (ジョン・クイン中尉の告白)…………………(147)
 新中国の公共保健衛生運動についての覚書…………………(171)
 中国のキリスト教会と細菌戦
 (ヒューレット・ジョンソン博士…………………………………(187)
 アメリカ軍の残虐行為(国際婦人調査団報告)………………(201)
 
 訳者あとがき……………………………………………………(268)



 まえがき

 1952年のはじめ頃から、朝鮮と中国の領土で、すこぶる異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、じぶんたちが細菌戦争の攻撃目標になっているのだ、と主張するようになった。
 世界各国の人民は、こういう戦争のやり方を否認する意志、いや、それどころか憎悪する意志を、ずっと前から明らかにしてきていただけに、そういう事態がどんなに重大なものであるかがよくわかった。そういうわけで、国際科学委員会をつくって、現地の証拠をしらべるべきであるといういことになった。
 委員会のメンバーは、じぶんたちの責任がどんなに重いかということを自覚していたので、先入観から免れるためにあらゆる努力をはらい、じぶんたちの知っているかぎり、一番厳密な科学的原則にしたがって、その調査をおこなった。いまここに、その活動のくわしい内容と、委員会のたどりついた結論とを、報告書として読書のまえに提出する。この報告書をつくる仕事には、8つの国語をつかう人たちが参加した。だから、もしそれが優雅さにかけていたとしても、あらゆる大陸の人びとにとって、明快で、あいまいなところがなく、わかりやすくせねばならなかったためであることを、読者の方は理解してくださることと思う。


 委員会の組織と活動

 朝鮮民主主義人民協共和国の外相は1952年2月22日、また中華人民共和国外相は3月8日、アメリカ側が細菌戦をやっていることに公然と抗議した。2月25日にはには、中華人民世界平和擁護委員会主席が、そのことについて世界平和評議会にアッピールをよせた。
 3月29日、郭沫若博士は、オスロでひらかれた世界平和評議会の執行局会議の席上で、同伴してきた中国代表たちの援助をうけ、また朝鮮代表李箕永氏の立会いのもとで、執行局のメンバーやその他の国民代表に、問題となっている現象について、たくさんの情報をつたえた。郭博士の言明によると、国際赤十字委員会は、政治的影響力をうけることを十分に免れていないので、偏見のない現地調査をする能力がないと、中国と(北)朝鮮の政府は考えているとのことであった。こういう反対論はのちになって、国連の専門的機関である世界保健機構にもむけられた。しかし、朝中両国政府は、公平で独立的な科学者の国際的団体を中国にまねき、両国政府の主張の基礎になっている事実を調査させることを、心から希望していた。それに参加する科学者たちは、平和をまもるために活動している組織に関係があろうとなかろうとかまわないが、しかしその人たちは当然人道主義的事業に貢献している著名な人物でなければならないというのであった。そして、この団体の使命は、両国政府の主張が正しいか、正しくないかを判定することであった。徹底的な討論をつくしたのち、執行局は、そういう国際科学委員会の形成を要求する決議を満場一致で採択した

 そこで、オスロー会議がすむとすぐ、この問題に関係のある分野でできるだけ有名な、ヨーロッパと南アメリカとインドのひじょうにたくさんの科学者たちのなかから、この団体に参加する承諾をえるように努力をはらった。仮承諾の通知がまとまると、すぐ中国科学院近代物理学研究所所長であり中国平和委員会の一メンバーであり、オスロー会議後科学委員会を組織するためヨーロッパにのこっていた銭三強博士は、中国科学院と中国平和委員会の主席郭沫若の名前で招請状をはっした。この委員会にとって最低限どうしても必要なメンバーの数が、六月中旬までにそろったので、一行はただちに中国にむかって出発した。
 国際科学委員会は、6月21日と28日に北京につき、中国科学院と中国平和委員会の代表からあたたかい歓迎をうけた。

 そのメンバーはつぎのようであった。
  アンドレア・アンドレーン博士(スウェーデン)=ストックホルム市立病院管理局
      中央臨床研究室主任。
  ジャン・マルテル氏(フランス)=農学士、ギリニヨン国立農業大学動物生理学
      研究室主任 前アンラ畜産技師。イタリアとスペインの牧畜学会通信員。
  ジョセフ・ニーダム博士(イギリス)=王立協会員。ケンブリッジ大学生化学サ 
      ー・ウィリアム・ダン講師。元重慶駐在イギリス大使館参事官(科学)前 
      ユネスコ自然科学部長。
  オリヴィエロ・オリヴォ博士(イタリア)=ボロニャ大学部人体解剖学教授。前ト
      リノ大学一般生物学講師。
  サムエル・B・ペッソア博士(ブラジル)サン・ポーロ大学寄生物学教授。前サン
      ・ポーロ州公衆保健局長。レシフェバライバ両大学医学部名誉教授
  N・N・ジューコフ=ヴェレジニコフ博士(ソ連)、ソ連医学学士院の細菌学教授
      兼副院長、細菌戦参加のため起訴された元日本軍軍人のハバロフスク
      裁判の主任医学鑑定人。

  (途中参加者や接待委員会のメンバーは略)
 以下略

 文書の考証

 委員会のメンバーがはじめてあつまった時に、かれらに利用できた文書は、朝鮮と中国の政府が発表し、プラーグの世界平和評議会書記局から、また各国にある中国当局の種種の通信機関の手で、西欧に流布された文書だけであった。
 朝鮮保健省の第1回報告(SIA/1)は、1952年1月と2月の事件を扱っているだけであった。そのなかにある資料は、国際民主法律家協会調査団の報告書のなかでもう一度吟味された。この報告書には、朝鮮のペスト出現についての資料、それに当然のことながら、国際調査団のメンバーのおこなった目撃証人の調査の結果がつけくわえてある。
 いちばんくわしい報告書は、中国の「アメリカ帝国主義細菌戦犯罪調査団」の二つのほうこくであった。
(以下略)

 第2次世界大戦中の日本軍細菌戦との関連

 東アジアで細菌戦がおこなわれているとの主張を調査するときには、日本側が第2次世界大戦中に中国にたいしてたしかに細菌戦をやったという事実をけっして無視してはならない。委員会としては、わりとよくこの問題についての知識をもっていた。というのは、委員会のメンバーの一人がハバロフスク裁判の鑑定主任であったし、もう一人は細菌戦そのものが中国におこっていた当時、中国で公式の職務についていたごくわずかな西欧科学者の一人だったからだ。1944年、この科学者は、自分の任務の一つとして本国政府につぎのように報告したのである。
──はじめのうちこそ大きな疑惑を感じていたが、いくつかの地方で日本軍がペストに感染した蚤をばらまいたし、またばらまいていることを、中国軍医署のあつめた資料はあきらかに示しているようにおもわれる、と。それで、これらのメンバーは、ふつうなら腺ペストなど発生しないけれども、そこの条件がその蔓延にすこぶる有利な土地に、腺ペストが発生した例を、かなりたくさんあげることができた。周知のように、腺ペストというものは、ふつうの状態のもとではある種のはっきりと限られた地方(たとえば福建省)にだけ発生するがそこ以外にはひろまらないのである。

(以下略)

 委員会の採用した事件分析の方法(略)

 プラーグ文書の昆虫学的資料(略)

 ばらまかれた昆虫についての医学的注釈(略)

 植物病理学的資料(略)

 朝鮮の事件(ペスト) 
  先にのべたように、日本が第2次世界大戦中にやったペストその他の細菌戦の古典的方法は、容器または噴撒の方法によって、ペスト菌に感染している大量の蚤をばらまくことであった。1952年のはじめから、北朝鮮のあちこちに、ぽつぽつとペストの流行の中心点がたくさんあらわれた。その際いつでもそれといっしょにたくさんの蚤がとつぜんああらわれたし、そのまえにはかならずアメリカ機がそこ
を通過していた。2月11日の事件をはじめ、そういう事件が7つほどSIA/1に報告されているが、そのうち6件ではペスト菌が蚤のなかに見つけだされたことが証明された。文書SIA/4は、2月18日安州付近に蚤がばらまかれたことをつけ加えている。蚤は細菌学的ににみて、ペスト菌をふくんでいることが明らかになったが、その撒布後の20日その地区の発南里にペストが発生した。村の人口六百のう
ちの50人がペストニかかり、36人が死んだ。

 委員会が受けとることのできた報告によると、過去5世紀のあいだ朝鮮でペストがおこったことはなかった。ペストが流行した一番近い中心地は、中国東北(満州)から遠く300マイルはなれた土地か、それとも福建の南方1千マイルのかなたの土地であった。そのうえ、2月という月は、この土地の気候からみて、人間のペストがはやるにはふつう3ヶ月以上はやすぎる。とくに、またその出現した蚤は、自
然状態でペスト菌を運ぶ鼠蚤ではなく、人蚤(plex irritans)であった。そして、この蚤は、われわれが中国側の同定(付録12)その他の指摘(付録19)から知っているように、第2次世界大戦中日本軍が細菌戦につかったものであった
。……
(以下略)   

 甘南事件(ペスト)(略)

 寛旬事件(炭疽病)(略)

 遼東と遼西の事件(呼吸炭疽病器)(略)

 大同事件(コレラ)(略)

 容器または「爆弾」の型(略)

 捕虜諜報員の証言
  朝鮮当局は委員会にたいして、戦争がはじまって以来諜報員が北朝鮮におくりこまれていて、細菌戦についての疫学的情報をあつめて送るというはっきりした目的をもって、仕事をしていることを知らせてくれた。これらの諜報員の多くは捕虜になったが、かれらの自白はアメリカ側の諜報組織とこれらの諜報員に命令された活動に大きな光を投げかけた。もはやSIA/17の中にある諜報員、たとえば一人の中国人と一人の朝鮮人とについてのくわしい情報が公表されている。

  委員会のメンバーには、これらの諜報員の一人とながい時間会見する機会が平壌であった。(付録36)この青年は学校を中途でやめ 、1945年南朝鮮政府の「青年団」に参加したが、アメリカ軍がついに撤退するとき、それについていった。かれが北朝鮮に反対したおもな動機は、あきらかに政治的信念よりも、むしろちっぽけな個人的利益であった。
  ほかに生活する道もなかったので、この証人はアメリカ軍の補助情報部隊に参加した。かれは1951年12月から1952年3月までのあいだにソウルの「K・L・O」という組織でうけた政治上、軍事上、衛生上の訓練について説明した。(付録36)。その組織で、かれは、ほしいとおもう情報を手に入れる技術を教えられた。細菌戦がはじまったのは、まさにこの期間であった。かれは2月のはじめ頃、たくさんの予防注射をされたが、それがどんな性質のものであるかは知らされなかった。かれは出発の直前まで、外国軍の将校とはぜんぜん接触がなかったが、いよいよ出発というとき、アメリカ軍の少佐が通訳を通じてかれに指令をあたえた。その指令のなかでは、かれの活動すべき特別の地域が指定され、アメリカ軍が知りたいとおもう病気の精密な細目があたえられた(チフス、ペスト、コレラ、脳炎、赤痢、天然痘)。この証人は、北朝鮮の統計資料の編集制度をおしえられ、できれば保健省その他の政府機関と接触をしてそれを手にいれ、必要とあれば、それを盗みだせとの命令をうけた。またかれは、食べ物にとくに注意し、昆虫が伝染病をひろめた場所で夜をすごさず、わかした水以外はのむなといわれた。「北朝鮮は病気でいっぱいだ」と、かれはきかされた。「しかし、大丈夫おまえの注射がおまえを守る
だろう」といわれた。

  そこで、証人は3月29日北朝鮮にもぐりこんで、5月20日につかまるまで、つれていっていた無線電信技師といっしょに活動した。質問にこたえるとき、かれはむしろ口数がすくなかったが、それは協力者をかばうためのもののようであった。かれは、北朝鮮の保健要員との接触には、ほんのわずかしか成功しなかったし、アメリカ軍司令部には、ほとんど、いやぜんぜん情報をおくることができなかったといった。
  この証人は、北朝鮮に不法入国するまえには、細菌戦をやっていることについて、何の示唆もうけていなかったことを明らかにした。かれはただ、北朝鮮にはたくさんの伝染病があり、南朝鮮の軍隊は「いちばん近代的な科学兵器をつかって、いい成績をあげている」ときいていただけであった。かれが細菌戦について知ったのは、警察の告示を読んだのがはじめてであった。
  委員会としては、この証人の態度と、その使命やうけた指令についてのかれの証言とには真実性があること、この証言をうるためには、肉体的にも精神的にも、すこしの圧迫もくわえる必要はなかったということで意見が一致した。
 

 捕虜飛行士の証言

  1952年1月13日、アメリカ空軍の、B-26爆撃機一機が、朝鮮の安州上空で打ちおとされた。5月5日までに、その航空士K・L・イノック中尉と操縦士ジョン・クイン中尉は、じぶんらが細菌戦に参加したことをみとめたすこぶる長い供述をして、それが北京から世界に発表された。先にのべたように、これらの文書はSIA/14と15にそれぞれおさめてあり、またプラーグで発行された小冊子のなかにも、その原稿の石版刷りといっしょにおさめてある。そのうちの細菌戦に関係のある部分はこの報告書の付録にもいれておいた。
……(以下略)

 概観(略)

 結論

 1952年のはじめいらい、朝鮮と中国にひどく異常な性質の現象がおこっているので、これらの国の人民と政府は、アメリカ軍が細菌戦をやっているのだと主張するようになった。細菌戦に関連のある事実をしらべるためにつくられた国際科学委員会は、現地に2ヶ月以上も滞在し、いまその活動をおわるところまできた。
 委員会の面前には、多くの事実があらわれたが、そのうちいくつかは首尾一貫した型をしめしており、これらの型は、高い論理性をもっていることがあきらかになった。そこで委員会は、その努力をとくにそれらの型の研究に集中した。委員会は、つぎのうような結論にたどりついた。

 朝鮮と中国の人民は、たしかに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器をつかっているのはアメリカ軍部隊であり、その目的に応じてじつに種々さまざまのちがった方法をつかっているが、そのうちのいくつかは、第2次世界大戦中日本軍のつかった方法を改善したものであると思われる。
 委員会は、論理の階段を、一歩一歩のぼって、この結論にたどりついた。委員会としては、いやいやながらそうなったのである。 というのは、委員会のメンバーは、こんな非人間的な技術を、各国人民の面前で、じっさいにつかうことができるなどとは、信じたくなかったからである。
 いまこそ、すべての人民は、その努力を倍して、世界を戦争から守り、科学上の発見が人類の破滅のためにつかわれることを食いとめねばならない。


 付録(ここではすべて省略、ただし、37は捕虜飛行士の証言としてリンクさせた)

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朝鮮戦争 細菌戦 第一海兵飛行大隊参謀長の証言

2008年07月13日 | 国際・政治
 北朝鮮・中国側が細菌戦の非難をはじめてから、捕虜になったアメリカ空軍軍人の自供が戦争終結まで続いた。「現代朝鮮史第2巻」D・W・コンデ著陸井三郎監訳(太平出版社)によると、その数38人にのぼるというが、そのなかで、もっとも階級が高い将校の一人は、52年7月8日に撃墜されたアメリカ海兵隊フランク・H・シュウァーブル大佐で第一海兵飛行大隊参謀長の立場にあった人物であるという。下記はその証言の一部であるが、捕虜になった操縦士や飛行士に長時間の面接をした国際科学委員会の調査団は、「かれらは完全に正常で、申し分なく健康であるようにみえた。……したがって調査団は、飛行士の証言を真実で信頼できるものとして受けいれた。この証言は、すでに戦地で集められた厳密に科学的な観察による証拠を、実に多くの点で補完した。」と報告しているのである。
----------------------------  
   第一海兵飛行大隊参謀長フランク・H・シュウァーブル大佐の証言

 「朝鮮における一般の細菌戦計画は、1951年10月に統合参謀本部によって指令されたものである。この月に統合参謀本部は、極東軍総司令官(当時はリッジウェイ将軍)に指令を手わたした小規模な実験的段階から始まるが、しだいに規模を拡大して、朝鮮での細菌戦に着手するようつたえた。
 この指令は、東京の極東空軍総司令官ウェイランド将軍へわたされた。そこでウェイランド将軍は、朝鮮の第五空軍司令官エヴェレスト将軍ならびに沖縄の第十九爆撃大隊司令官をまねいて、個人的に会談した。……計画は……エヴェレスト将軍個人が口頭でひきうけ、朝鮮へ持ち帰った。なぜなら機密保護のため、この問題については文書にして捕獲されるかもしれないものはなにも朝鮮におかないことに、決定されていたからである。

 当時の基本目標は、実験場で細菌戦のさまざまな要素をテストし、得られた結果や朝鮮の情勢にもとずいて、のちに野戦実験を正規の戦闘作戦に拡大することであった。……各種の装置や容器が実験場でテストされ、各種の飛行機が、細菌爆弾の運搬手段としての適性をテストするために、使用されるはずであった。……とくに敵の反応は、利用できるあらゆる手段で、テストまたは観察をうけるはずであった。それは、敵の対抗措置はなんであるか、どのような宣伝措置をとるであろうか、敵の軍事作戦はこの種の戦争によってどの程度影響をうけるであろうかを、たしかめることであった。
 沖縄のB29は、1951年11月に細菌爆弾を使用そはじめた。それは、北朝鮮全土を対象にしたもので、無差別爆撃といえるようなものであった。……細菌爆弾作戦は、経済性と安全性の措置として通常の夜間武装偵察と組んでおこなわれた。
 この計画における海軍の役割は、朝鮮東部海岸沖の航空母艦を使って、写真撮影とは別にF9F戦闘機(パンサー)、AD(スカイレーダー)、スタンダードF2H(バンシー)によってはたされた。

 空軍もその作戦を拡大して、各種の飛行機の集団によって細菌戦をおこなうさまざまな方法や戦術を試みた。これが、わたくしが朝鮮に到着するまでの情勢であった。それにつづいて、つぎの主要な事件がおこった。」

 ここでシュウァーブル大佐が報告したところによると、52年5月下旬に、第一海兵飛行大隊の新指揮官ジェローム将軍が、第五空軍司令部によばれて、細菌作戦を拡大せよという指令をうけた。指令はついで第五空軍の新指揮官バーカス将軍に個人的に口頭で伝達された。5月25日に、参謀長のシュウァーブルや第一海兵大隊のほかの参謀部員は、バーカス将軍から指令をうけとった。この指令は、その朝から伝達され、かれらはそれについて検討したが、それは次のようなものだった──

 「朝鮮を横断する感染地帯を設け、差し止め計画を効果的にして、敵の補給品が前線に届くのを阻止する。海兵隊は、新安州と郡隅里の両地域および両地域の中間と、その周辺地域をふくむこの地帯の左岸を担当する。この地帯の残り部分は、空軍が中央部を、海軍が東部すなわち右翼をひきうける。
 これらの地域はすくなくとも10日おきに汚染しなおされるはずであった。作戦は、コレラ爆弾をもちいて、6月の第一週に開始された。その後黄熱病、ついでチフスによる汚染が計画された。敵の領土上空での安全をつよめるために、細菌爆弾の投下後まで、ナパーム爆弾を機上に残しておくはずだった。これは、飛行機が墜落した場合に、ほとんど確実に証拠をいんめつするためであった。……あらゆる指示は、それが軍事機密であるだけでなくて、国家政策の問題でもあることを強調するはずであった。」


 要するにシュウァーブルの自供は、その結果が「それにともなった努力、危険、不正にいくらかでも見合うものであるという見方は聞いたこともない。全体の結果についてわたくしにいえることは、失望的で無益だったということだ」というものだった。かれはつづいて述べた──

 「つぎのことは、わたくしをふくめてだれかを弁護するためにいうのではない。わたくしは、まったく直接の見聞にもとずいて、こう報告せざるをえない。アメリカが細菌兵器を使用しようとしていると最初に知らされたとき、どんな将校でも衝撃をうけ、恥ずかしい思いもする。われわれはすべて、国民や政府に忠実な将校として、そして、われわれがつねに細菌戦について聞かされていたこと──それは、第三次世界大戦で報復に使うためにのみ開発されている──を信じて、朝鮮へやってきたものとわたくしは思う。
 将校達は、朝鮮へやってくると、自分達の政府が、細菌戦をおこなっていないと世界に宣言しておきながら、自分達を完全にあざむいていたことを発見するが、そのため、政府が一般の戦争について、とくに朝鮮について言明しているその他のすべてのことを心中で疑うことになる。


 52年の4~7月にかけて捕虜になったアメリカの空軍将校は、いずれも長文の調書をとられているが、それには共通して細菌爆弾は日本から持ちこまれたこと、公式報告でふれる場合には、「不発弾」と呼ばれること、細菌戦を始める決定は、「1951年秋の初め」になされたこと、そりわけ、問題そのものが最高機密であることなどの点が出てくる。以前にマクアーサー将軍が望んだものとおなじような朝鮮を横断する「感染地帯」をつくる目標についても、のべられていた。飛行士は、搭乗員同士のあいだでも、この問題を口にすることを禁止されていた。そしてやがて、秘密を守る宣誓書に署名を強制された。誓約に違反すれば、軍法会議はまちがいなかった。けっきょく、細菌戦にたずさわっていた飛行士の士気は、ひじょうにひくかった。かれらは基地へ帰投すると、ナパームや細菌投下の任務を忘れようとして、大酒を飲んだ。しかしかれらの気分の底流をなすものは、無慈悲な軍命令であった。「命令は命令だ」、かれらはこういっていた。

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朝鮮戦争 米軍の細菌戦 捕虜飛行士の証言

2008年07月11日 | 国際・政治

 下記は、『アメリカ軍の細菌戦争』と題された、国際科学委員会調査団の調査報告書に「付録37」として付けられたもので、朝鮮戦争で細菌戦を展開したという捕虜飛行士の供述書である。「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)から一部抜粋した。
----------------------------------
  アメリカ帝国主義者はどうして細菌戦をはじめたのかの真相(付録37)
                   (1952年4月7日・捕虜ケニス・L・イノック供述書)
 1951年8月末の2週間、わたしは日本の岩国にいた。第3爆撃連隊は8月いっぱいかかって、朝鮮の群山に引っこしをやった。一番最後に引っこしたのは、地上学校であった。地上学校が群山にうつったのは、9月のはじめであった。わたしが岩国にいたときには、アメリカからやって来たての乗員が15人いて、みんな地上学校にかよっていた。
……

・・・

 1951年8月25日の午後1時、われわれは地上学校航空教室の秘密講義に出席した。わたしの記憶では、この講義に出席したのは、10人の操縦士と15人の航空士であった。操縦士のなかには、ブロートン中尉、シュミット中尉、レマク大尉がいたのをおぼえている。航空士のなかでは、ブラウン中尉、ハーディー中尉、ド・ゴー中尉、ジーリンスキー中尉、カーヴィン中尉、ラーソン中尉と、それにわたしがいたのをおぼえている。わたしは、ラングリー飛行場でいっしょに仕事をしたことのある操縦士や航空士をのぞいて、ほかの人は誰も知らなかった。われわれの教官は民間人のウィルソン氏であった。かれ以外の教官はこの講義にだれ一人参加しなかった。
 ウィルソン氏は、この講義が細菌戦に関するものであると語った。われわれの側では、いま細菌戦をやる計画はないが、いずれやるときがくるかも知れないのであるから、講義は秘密であって、その内容は誰にも洩らしてはならないし、仲間同士でもしゃべってはいけないと、かれはいった。
 ウィルソン氏の講義はおもに、細菌戦の兵器についてであった。かれは標本をもっては来なかったが、細菌をそのまままいたり、虫やけだものにつけてまいたりする細菌撒布のいろいろの方法を論じた。ウィルソン氏の講義の内容は、次のようなものである。
 細菌をそのまままく方法。(1)チリと細菌をまぜたものをつめた爆弾をおとす。この爆弾は空中でひらき細菌のついているチリを風でまきちらす。(2)噴撒装置によって、飛行機からじかにチリをまく。こうしてチリをまいた所では、どこでも空中に細菌がちらばる。(3)細菌とチリをいっぱいつめた容器をおとす。つまり水の中にはいると口をあける爆弾か、水にぬれると口をひらくボール紙製の容器を貯水池や湖の中に投下する。この水を人や獣がつかい、また昆虫がそれらの細菌をつけて伝播する。
 昆虫をおとす方法。(1)外形は普通の爆弾のように見えるが、中には細菌をつけた虫をいっぱいつめてあり、地面にふれると口がひらき、細菌をつけた虫が外へ出るようになっている爆弾をおとす。(2)地面にふれると口がひらいて、細菌をつけた虫がとび出すようになっている、ボール紙製の容器をおとす。(3)動物に虫をくっつけばらまく。
 動物にくっつけて細菌をまく方法。(1)地面にふれると、動物を外へ出すようになっている落下傘容器で、ねずみ、うさぎその他の小動物をおとす。その小動物には細菌のついた、のみやしらみがくっついている。(2)舟をつかって、このようなけだものを敵の後方の海岸から陸にはなす。
 細菌をまくその他の方法。(1)細菌のついたビラ、チリ紙、封筒その他、紙で出来たものをおとす。(2)細菌のついた石けん、衣類をおとす。(3)細菌の入っているインキを入れた万年筆をおとす。(4)細菌のついた食物を敵陣におとす。また、榴弾砲や迫撃砲を使って細菌をまくことができるが、前線からの距離がちかいので、この方法をつかうのは安全でない。
 まくことができる細菌の種類は、たくさんある。あまり知られていない特別の細菌のほかに、発疹チフス、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、天然痘、マラリヤ、黄熱病など、よく知られている病気の細菌をつかうことができる。細菌をはこぶ虫の種類は多く、いちばん普通なのは、しらみ、のみ、はえ、蚊である。
……

・・・

 わたしの、次の飛行は、1952年1月6日であった。われわれは、緑八号ルート(平壌と沙里院の間)にそって飛行することになり、午前3時に出発した。搭乗員は、操縦士アモス大尉、航空士がわたし、砲手トレーシー軍曹であった。いつものように、アモス大尉とわたしは、出発一時間まえの午前2時に大隊訓練室と大隊作戦部へ報告にいった。いつもそこで、さいきんの天候と飛行任務についての通達をうけることになっていた。その夜、わたしの知らない当直将校の大尉から、黄州へ飛行し、そこで外翼の爆弾2個をおとし、それから他の爆弾をできるだけ早く投下して群山へかえれとの指令をうけとった。
 また、黄州では、高度500フィート、最高時速200マイルで投弾するように、かれは命令した。われわれは訓令によると500ポンド爆弾10個をつまねばならないので、高度が低すぎはしまいかと、かれに注意した。しかし、かれは、これは極秘だが細菌爆弾なのだから、この仕事については、誰にも話してはいけない、といった。かれは翼の爆弾はもう積込ずみで、われわれにかわって点検してあるから、心配はないし、かえってきた時は、不発弾として報告するように命じた。それから中隊作戦室へいった。そこで砲手にあった。かれは大隊には報告にいかなかったので、わたしの知っているかぎりでは、われわれの特殊任務のことは知ってしなかった。外へでて飛行機のそばにゆくと、整備部から派遣された番兵がたっていて、翼の爆弾はもうしらべてある、とわれわれがもはや知っていることを、われわれにつげた。わたしは弾倉のなかの6個の爆弾を点検した。6個の爆弾は、普通の500ポンド爆弾であった。
 3時に黄州へむかって出発した
。……(以下略)

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731部隊 ハルビン特務機関ロシア語通訳の証言

2008年07月10日 | 国際・政治
 731部隊の撤退は早かった。1945年8月8日ソ連の参戦の何ヶ月も前から家族持ちの部隊員に家族の帰国希望を聴取し、6月にはすでに家族を帰国させていたという。そして、ソ連参戦直後の9日からすぐに証拠隠滅を中心とする撤退準備を開始し、七三一部隊は日本軍の他の部隊より一足早く撤退したのである。この時、多くの満州開拓団の人たちのことなど頭になかったのだろうか。そして、いち早く帰国した軍人たちは、その後の満州開拓団の人たちの悲劇をどのように感じているのであろうか。
 撤退準備の第一の課題は、人体実験の証拠を隠すことであったというが、信じがたいのは、そのときロ号棟中庭の七棟と八棟に実験目的で収監されていたいゆる「丸太」の殺害が行われたということである。家族を帰国させる手配をしながら、さらには、撤退準備をしながら実験目的の「丸太」は集められ続けていたのである。そして、その数に驚く。下記は「七三一部隊(生物兵器犯罪の真実)」常石敬一(講談社現代新書)からの抜粋である。
---------------------------------
 ハルビン特務機関ロシア語通訳で兵長の金城五郎は1947年7月18日、モスクワで次のように証言している。特務機関というのはスパイ機関で、敵の動静を探ることと、敵のスパイを摘発することが仕事だった。部隊で人体実験されたソ連人を送り込んだのも特務機関だった。「最後の送付は昭和20年8月13日あるいは14日にして其の数は30名以上なりき。尚其以前2~3名宛2回にわたり同部隊に
送付せる事実を余は承知せり」。
彼も「実験目的は知らざるも彼等が其の結果として死亡する事は承知」していた。

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731部隊 ハバロフスク裁判 凍傷実験の証言

2008年07月08日 | 国際・政治
 下記は「資料【細菌戦】」日韓関係を記録する会(晩聲社)に収録されたハバロフスク裁判の「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」から凍傷実験に関する部分の一部を抜粋したものである。
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        細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ
        元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・

 虐殺サレタ者ノ死体ハ第731部隊監獄ニ隣接スル特別ノ火葬場デ焼却サレタ。事件ニ関シ訊問サレタ証人及ビ被告ハ、拷問場タル第731部隊構内監獄ニ「被実験材料」トシテ投獄サレタスベテノ者ニ対スル非人道的拷問、暴行及ビ侮蔑行為ニ就キ供述シタ。

 証人倉員ハ、次ノ如ク供述シタ──
  「……各階ニハ、研究室用ノ数室ガアリ、中間ニハ、被実験者或ハ、田坂曹長
 ガ私ニ語ッタ如ク、部隊内デ丸太ト称シタ囚人ヲ収容スル監獄ガアッタ監獄ニ収
 容サレタ者ノ中ニハ、中国人ノ外ニ、ロシア人モ居タコトヲ私ハ確ニ 記憶シテイ
 ル。或監房ニ於テハ、私ハ、中国婦人ヲ見タ……監房ニアッタ者ハスベテ、足枷
 ヲ嵌メラレテイル。
3人の中国人ハ手ノ指ヲ切リ取ラレ他ノ者ハ、指ノ骨ガ露出シ
 テイタ。吉村ハ、是レガ彼ノ実験シタ凍傷実験ノ結果デアルコトヲ私ニ説明シタ
 ……」
(第2冊371頁)

(以下略)

・・・

 囚人ニ対スル、ペストソノ他ノ急性流行病感染ノ犯罪的実験ノ外、第731部隊デハ、生キタ人間ノ手足ヲ凍傷ニ罹ラセル非人道的ナ実験ガ、広範ニ実施サレテイタ。囚人ニ、其ノ手足ヲ、特別ノ水入リノ箱ニ入レシメ、手足ガ凍傷ニ罹ル迄、ソノ箱カラ出サセナカッタ。
 証人
古都、次ノ如ク供述シタ──
 「……毎回2名乃至16名ノ、足枷ヲ嵌メラレタロシア人、満州人、中国人及ビ蒙古人ヲ寒気ニ曝シ、武器ヲ以テ脅迫シ、裸手(時ニハ、片手、時ニハ同時ニ両手)ヲ水ヲ入レタ桶ニ漬ケシメ、然ル後、濡レ手ヲ、10分乃至2時間の間、寒気ニ曝サシメタ曝ス時間ハ、気温ニヨッテ異ナッタ。而シテ、彼等ガ凍傷に罹ルヤ、之ヲ監獄内ノ研究室ニ連レ込ンダ」(第5冊317頁)
 此等ノ犯罪的実験ノ結果ハ、多クノ場合、被験者ノ壌疽、四肢切断オヨビ死亡デアッタ。此等ノ実験ノ目的ハ計画サレタ対ソ戦闘行動ノ際ニ於ケル四肢ノ凍傷予防ノ研究デアッタ。

(以下略)

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731部隊 ハバロフスク裁判公判書類 証言

2008年07月07日 | 国際政治
 下記は、「資料【細菌戦】」 日韓関係を記録する会編(晩聲社)に収録されている「細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」の一部抜粋である。
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       細菌用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ
       元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類

  緒言

 1949年12月25日より30に到る迄ハバロフスク市では、細菌兵器の準備及び使用の廉で起訴された元日本軍軍人12名の公判が行われた。
 裁判に付された者は、元日本関東軍司令官山田乙三大将、元同軍軍医部長梶塚隆二軍医中将、元同軍獣医部長高橋隆篤獣医中将、元第731細菌戦部隊部長川島清軍医少将、元第731部隊課長柄沢十三夫軍医少佐、元第731部隊部長西俊英軍医中佐、元第731部隊支部長尾上正男軍医少佐、元第五軍軍医部長佐藤俊二軍医少将、元第100細菌戦部隊研究員平桜全作中尉、元同部隊員三友一男軍曹、元第731部隊第643支部衛生兵・見習菊池則光上等兵及び元第731部隊第162支部衛生兵・実験手久留祐二、──以上の者であった。

(以下裁判長や判事、法務官、それぞれの被告の弁護士や細菌学及び医学上の諸問題に関し鑑定を下した鑑定委員会の成員の紹介が続くが省略)

 起訴状(略)

 細菌戦ノ準備及ビ実行行為ノ特殊部隊ノ編成(略)


 生キタ人間ヲ使用スル犯罪的実験

・・・
 元満州国軍憲兵団日本人顧問証人橘猛男ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……被訊問者ノ中ニハ、私ガ担任シテイタ憲兵隊本部特高課関係デ処置サレルベキ部類ノ者ガアッタ。此ノ部類ニ該当シタ者ハ、パルチザン、在満日本当局ニ対シ極度ニ反感ヲ有スル者等デアッタ。斯ル囚ニ対シテハ、私達ハ、コレヲ処置スベク
第731細菌戦部隊ニ送致シタ故、裁判手続ハ行ワナカッタ……
(第6冊95頁)

 他ノ証人、元哈爾濱憲兵隊長木村ハ、本人立会ノ下ニ、第731部隊長石井中将ガ哈爾濱憲兵隊長春日馨トノ談話ニ於テ、今後モ、従来通リノ方法デノ「実験」用ノ被検挙人ヲ受領シ得ルコトヲ確信スル旨言明シタコトヲ訊問ニ於テ確認シタ。
(第2冊194頁)

 ソビエト軍ガ押収シタ在満日本当局ノ諸記録ノ中ニアッタ日本憲兵隊本部ノ公式書類ハ、1939年及ビ夫レ以後ニ囚人ノ所謂「特移扱」ガ行ワレテイタコトヲ重ネテ確証シテイル。就中、1939年、囚人30名ヲ「特移扱」ニヨり、石井部隊ニ送致スル事ニ関スル関東軍憲兵隊司令官白倉少将ノ命令第224号ガ発見サレタ。
(第17冊─38頁)
 囚人ノ大量殺戮ハ、被告
川島清供述ニヨッテ立証サレテイル──
 「第731部隊ニハ、毎年、500─600名ノ囚人ガ送致サレタ。私ハ、同部隊第1部勤務員ガ憲兵隊ヨリ囚人ノ多人数ノ組ヲ受領シテイルノヲ見タ。」(第3冊59頁)
   「私ハ、部隊ニ於ケル 私ノ職務上承知スル資料ニ基キ
、第731部隊デハ、実験ノ結果、毎年少クトモ約600名ノ人間ガ死亡シタコトヲ言明シ得ル
(第3冊146頁)

   (以下略)

 同様ノ犯罪ガ、第100部隊ニ於テモ行ワレ、同部隊デハ、第2部第6課ガ、生キタ人間ヲ使用スル実験ヲ専門ニ担当シテイタ。
 第100部隊実験手証人
畑木章、同部隊ノ業務ヲ性格ズケテ、次ノ如ク述ベタ──
  「……関東軍第100部隊ハ、「軍馬防疫廠」ト称サレテイタガ、鼻疽菌、炭疽菌牛疫菌、即チ獣疫ノ病原体ヲ培養シ、繁殖シテイタカラ、実際ニハ細菌戦部隊デアッタ。第100部隊ニ於ケル細菌ノ効力試験ハ、家畜及ビ生キタ人間ヲ使用スル実験ニヨッテ行ワレタ是ガ為、同部隊ニハ、馬、牛及ビ其ノ他家畜ガ有リ、亦隔離所ニハ、人間ガ留置サレテイタ。私ハ、コレヲ直接見テ知ッテイル」
(第13冊111頁)

 第100部隊ニ獣医トシテ勤務シタ他ノ証人福住光由ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……第100部隊ハ、実験隊トシテ、細菌学者、化学者、獣医及ビ農業技師の如キ研究員ヲ擁シテイタ。該部隊ニ於ケル全業務ハ、ソビエト同盟ニ対スル謀略細菌戦ノ準備ヲ目的トシテイタ該部隊ノ勤務員及ビ其ノ各部員ハ、家畜及ビ人間ノ大量殺戮ノ為ノ細菌並ニ猛毒ノ大量用法ニ関スル研究ヲ行ッテイタ」。
 「……是等ノ毒薬ノ効力ヲ検定スル為家畜及ビ生キタ人間ニ対スル実験ヲ行ッテ来タ……」(第13冊48頁)
 (以下略)


 ソ同盟ニ対スル細菌戦準備ノ積極化

 1941年、ソ同盟ニ対スルヒトラー・ドイツノ背信的攻撃ノ後、日本ノ軍国主義者共ハ、対ソ戦参加ノ好機ヲ待チ、細菌戦遂行ノ為ニ編成シタ細菌戦部隊及ビ其ノ支部ノ展開ト整備ヲ満州デ積極的ニ促進シタ。 「関特演」(即チ、1941年夏ニ採用サレタ対ソ攻撃ノ為ノ日本関東軍ノ展開計画)ニ従イ、第731部隊及ビ第100部隊ハ、細菌兵器の用法ノ徹底及ビ其ノ使用ノ為、将校、下士官ノ特別教育ヲ組織シタ。
 元関東軍獣医部長
高橋隆篤中将ハ、次ノ如ク供述シタ──
 「……「関特演」ト称スル作戦計画書作後成得在満各軍司令部ニ「軍馬防疫」隊ヲ編成シ、第100部隊ヨリ派遣シタ獣医・細菌専門家ヲ各部隊ノ長トシタ……
 此等ノ部隊編成ハ、日本軍参謀本部第1作戦部ガ発案シタモノデアル……。

 「軍馬防疫」隊ノ任務ハ、ソビエト同盟ニ対スル細菌戦及ビ謀略ノ準備ト実行デアッタ……」(第11冊53─54頁)
 被告川島ハ、1941年ニ於ケル日本ノ細菌戦準備強化ニ関シ供述シタ際、次ノ如ク述ベタ──
 「……1941年夏、独ソ戦開戦後、私ガ、石井中将ヲ訪レタ際、石井中将ハ、村上中佐及ビ太田章大佐──各部長出席ノ下ニ、部隊ノ活動強化ノ必要ナルコトニ就キ述ベ、細菌戦用兵器トシテノ、ペスト菌ノ研究ヲ促進スベシトノ日本軍参謀総長ノ命令ヲ私達ニ読聞カセタ。同命令ニハ、ペスト病ノ媒介体タル蚤ノ大量飼育ノ必要ニ関シ特記サレテアッタ。」(第3冊28─29頁)
 元第731部隊教育部長
西ハ、ヒトラー・ドイツ対ソ攻撃当時ニ於ケル──日本ノ細菌戦待機態勢ニ就キ次ノ如ク供述シタ──
 「……1941年、ドイツ対ソ同盟攻撃及ビ満州ニ於ケル関東軍ノ満ソ国境集結時ニ於テ、第731部隊ニ於ケル効果的細菌攻撃用兵器ノ製造ニ関スル研究業務ハ大体ニ於テ完成サレ同部隊ノ爾後ノ業務ハ、細菌ノ大量生産過程及ビ細菌撒布方法ノ改良ニ関シテ実施サレタ。最モ有数ナ攻撃手段ハ、ペスト菌ナルコトガ判明シタ」(第7冊124頁)

・・・

 第731部隊及ビ第100部隊並ニ其ノ各支部ニ於ケル、ソヴィエト同盟ニ対スル細菌戦ノ準備活動ガ、特ニ積極的ニナッテ来タ第2期ハ1945年デアッタ。
 被告
西ハ、此ノ点ニ関シ、次ノ如ク供述シタ──
 「……1945年5月、私ガ直接、石井中将ニ報告シタ際、石井中将ハ私ニ対シ、細菌材料、就中ペストニ関スルモノノ製造強化ノ必要ヲ特ニ強調シタ。石井ノ言ニヨルト、是ハ、当時、情勢ノ発展ガ、何時敵ニ対スル細菌攻撃ノ必要ガ生ズルカモ知レナイ状態ニ有ッタ為デアル」(第7冊130頁)
 此ノ指令にヨリ第731部隊ノ各支部ハ、蚤の繁殖ニ必要ナル齧歯類(二十日鼠)鼠ノ大量捕捉、繁殖及ビ之ノペスト感染ニ関スル業務ヲ強化シ、ソノ為各支部及ビ一般部隊ニモ特別班ヲ組織シタ(第10冊30,176,193,第2冊168頁)。此ノ時期ニ、実験業務ガ強化サレ、生産応力ヲ増大シ、細菌戦材料ヲ貯蔵スル為、設備ガ更ニ更新サレタ。
 元日本関東軍司令官
山田大将ハ、彼ノ直轄部隊デアッタ細菌戦部隊ノ潜在生産応力ニ就キ訊問サレタ際、其レガ極メテ大ナルコトヲ確認シ「必要ノ場合ニハ、第731部隊ノミデモ、其ノ兵器デ、日本軍ノ細菌戦遂行ヲ確保シ得タ」ト述ベタ。
(第2冊6頁)


 ソヴィエト同盟及ビ其ノ軍事力ハ、帝国主義日本ノ支配閥ノ細菌戦開始ノ犯罪的企図ヲ挺折セシメタ。
 ソヴィエト軍ハ、満領ニ進出シ、敵ヲ痲痺サセル急速ナ打撃ヲ敵ニ与エ日本ノ主要ナ軍事力タル関東軍ヲ最短期間ニ撃破シ、帝国主義日本ヲ無条件降伏ノ余儀ナキニ至ラシメタ。
 被告
山田ハ、次ノ如ク供述シタ──
   「……ソヴィエト同盟ガ対日戦参加シ、
ソヴィエト軍ガ急速に満領内深ク進撃シ来ツタ為、吾々ハ、ソ同盟及ビ其ノ他ノ諸外国ニ対シテ細菌兵器ヲ使用スル機会ヲ奪ワレテ了ッタ……」(第18冊133頁)


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米軍の細菌戦 国際民主法律家協会調査団の報告書

2008年07月03日 | 国際・政治

 731部隊の大量のデータや情報を、関係者の戦犯免責と引き換えに米軍が独占入手し、朝鮮戦争で細菌をばらまき利用しているとの指摘があったが、それを裏打ちするかのように、埼玉のネズミは米軍の406部隊へ流れるようになった。戦後の一時期、ネズミ飼育農家から「引き取ってくれ」と泣きつかれたものの、ネズミの買い手がなくなりパニックに陥っていた埼玉医科学試験動物生産組合の田中一郎(仮名)は、取引先を日本軍から米軍GHQに乗り換え、「戦後の最盛期は戦中以上だった」とネズミ飼育農家が証言するほど、ネズミ生産を戦前以上の産業に育て上げたという。また、「高校生が追うネズミ村と731部隊」埼玉県立庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司(教育史料出版会)には、下記のような具体的な状況が紹介されている。
---------------------------------
 ……406部隊はウェポンキャリアという大型輸送車で、毎週月曜と木曜にネズミを取りにきた。月曜と木曜の朝には406部隊の出荷に間に合わせるため、この地域の仲買人全員がネズミを持って田中のもとに集まった。ネズミ以外では、ウサギやモルモットなども搬出したので、車はいっぱいになった。406部隊の需要は年毎に増えていき、飼育農家が足らなくなるほどだった。それはまるで731部隊へ納入していたころの活況のようだった。……
---------------------------------
 下記は、指摘を受けて朝鮮に調査に入った国際民主法律家協会調査団の報告書である。具体的な内容(根拠となる証拠や証言者名)の部分は、第2章の2の一部以外は省略しが、「資料【細菌戦】日韓関係を記録する会(晩聲社)には詳細な報告がある。
--------------------------------- 
 Ⅱ 朝鮮におけるアメリカの犯罪に関する国際民主法律家協会調査団の報告書
                                      (1952年3月31日)
  注釈
 
 1、本報告署は、国際民主法律家協会の権限を持った調査団によって発表された。協会の本部事務室は、ベルギー・ブリュッセル・レグランド街70番地にある。
 2、~6
(略)  

  第1章

 朝鮮民主主義人民共和国政府は、朝鮮領内における敵の国際法違反にたいして抗議することを、数回、国連に要請した。
 しかし国連は、この要求を無視した。これらの申し立ては、いろいろな調査の対象となってきたが、とくに、朝鮮を訪問した国際民主婦人連盟によって作成された1951年5月27日付の報告書で取りあつかわれた。
 この非難の内容のきわめて重大なのにかんがみ、国際民主法律家協会理事会は、1951年9月の協会ベルリン会議のあとをついで、朝鮮におもむき、現地で、法的調査の方法によりそれらの陳述を調査する目的のもとに、おおくの国の法律家によって構成された調査団を組織することなった。
 調査団は、つぎのようなメンバーで構成された。
  ハイリッヒ・ブランドワイネル クラツ大学国際法教授(オーストリア)団長
  ルイジ・ガバリエル     ローマ最高裁判所弁護士(イタリア)副団長
  ジャック・ガスター     弁護士 ロンドン(イギリス)
  マルク・ジャキエー     控訴院弁護士 パリ(フランス)
  柯 柏 年          中国人民外交学会研究委員会副主任 北京(中国)
  マリノ・ルイス・モエレンス    弁護士 ブリュッセル(ベルギー)
  レテルバ・ロドリゲス・デ・プリト 弁護士 リオデジャネイロ(ブラジル)
  ゾビア・ワシリコプスカヤ     最高裁判所判事 ワルシャワ(ポーランド)

 本調査団は、1952年3月3日から、3月29日まで朝鮮に滞在した。
 調査団員は平壌、南浦、价川、碧潼、安州、安岳、信川、沙里院、元山などの諸都市をふくむ平安南北路、黄海道、江原道を訪問した。
 調査団に与えられた制限された時日と、戦争状態のために、自分達のまえに提出された陳述のことごとくを調査することはできなかった。しかし、自己の使命を完遂する上に必要なあらゆる便宜を朝鮮当局から与えられた調査団は、事件の範囲と犠牲者の数から見て、また、事件の張本人たちが使用した方法の特殊性から見て、もっとも特徴的と思われる事件にたいしては慎重な調査をおこなった。

 これらすべての場合において、調査団員は関係当局から提出された報告や声明などを審議したのち、直接調査にとりかかった。調査過程において、調査団員は、100名以上の証人に質問した。
 調査団の結論は、直接の証拠によって調査団のまえに証明され、また、あらゆる関係文件の調査によって検証された事件にもとづいている。この報告においては、とくに、細菌および化学兵器の使用に関連する重要な証拠が分析されたし、戦争の根源にかんれんする、歴史的意義をもつ文件が検討された。この報告に引用された都市および保護建築の爆破事件、一般市民にたいする暗殺、拷問、殺害などは、ただ正当に検証された直接的証拠物によって証明されたものだけである。
 おわりに、調査団は、証明された事実によって、誘導されねばならないと認められる結論をくだした
。(以下略)

  第2章 細菌戦

 ・・・
 
 調査団はとくに、つぎの場合について調査した。
    (略)
   2 1952年2月18日、平安南道安州郡大尼面鉢南里で、ハエ、クモ、甲虫
      が発見されたが、地面のうえの三ヵ所に、それぞれ1平方ヤードのなか
      に密集していたし、その場所はおのおの1メートルずつへだたっていた。
       そのうち1ヵ所は雪でおおわれていたが他のところには雪がなかった。
      昆虫は全部生きていた。調査団がそこへついたときには、昆虫がその周
      辺一帯にひろがっていた。ハエは在来の朝鮮バエとちがって、異様なか
      たちをしていた。発見されたハエは長いはねをもったいたし、そのはねは
      ややひらかれていた。胴体は大きく頭は在来のハエにくらべて大きいほ
      うであった。
       クモについていえば、在来のクモは、大きいものと小さいものの二種類
      に分けることができ、色は黒いのである。発見されたクモは、その大きさ
      は中くらいで体色はやや白い。ナンキン虫は在来のものは体がまるく、
      やや黄みをおびているのにくらべて、発見されたものは体が平たく黒い
      体色をもっていた。この時期にこの地方で、ハエとクモがあらわれたこと
      は、以前には絶対になかった。地上の気温は、摂氏零下20度であった。
       これらの昆虫が発見された前の日の夜なかごろに、敵機は、この場所
      を偵察しながらきわめて低空を数回旋回したが、爆弾も焼夷弾も投下し
      なかったし機関銃掃射もおこなわなかった。専門家たちの調査によると、
      これらの昆虫はペスト菌に感染していることが判明した。2月25日、この
      にペストが発生した。50名の罹病者のなかで、3月11日までに8お
      よそ600人の人口のうち)36名が死亡した。ペストはそれ以上まんえん
      しなかった。これまで、この地域にペストを発生したことは一度もなかっ
      た。(6)(7)
 
   
  第3章 化学兵器 (略)

  第4章 大量虐殺、殺害、その他の野蛮行為 (略)

  第5章 一般住民にたいする空襲 (略)

  第6章 その他の戦争犯罪 (略)

  第7章 結論

 調査団は、この報告によって発表された事実について、用意周到な考慮をはらい、また、それらの事実にたいして、文明諸国が普遍的に承認している国際法の原則を適用した。終局的判断をくだすのは、本調査団の任務ではない。調査団がそういうことをする資格を持った裁判所ではない。その義務は、事実にたいする調査に極限されており、自らの意見によって、これらの事実にあらわれた国際法違反の犯罪を指摘することに限られている。

 この報告に摘発された犯罪にたいして、弁論すべきことがあれば、それは適当な国際裁判所がこれを聴取したのち、終局的判断をくだすべきである。
 このような立場から、調査団は、つぎのような
結論に到達した。
    1 朝鮮人民軍に反対し、北朝鮮の一般住民に死と疾病を蔓延させる目的
      をもって、人工的に細菌を感染させたハエその他の昆虫を故意に散布す
      ることによって、アメリカ軍は、1907年の陸戦法規と慣習にかんするハ
      ーグ条約の規定に違反し、また1925年のジュネーブ議定書にふたたび
      規定された細菌戦禁止にかんする、普遍的に承認された法律に違反す
      るきわめて重大な戦りつすべき犯罪を朝鮮においておかした。
    2 北朝鮮の一般住民にたいして、毒ガスその他の化学物質を使用すること
      によって、アメリカ軍は1907年のハーグ条約第23条(イ)、(ホ)および
      1925年のジュネーブ議定書に、計画的にかつ故意に違反する犯罪を
      犯した。

    3~10
 (略)
    

    http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。

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