真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言

2015年02月18日 | 国際・政治

 「南京大虐殺」は、「南京大虐殺」という言葉ではなく、時に「南京虐殺事件」と表現されたり、ただ「南京事件」と表現されたり、「南京残虐事件」、「南京暴虐事件」、「南京アトロシティー」、「南京大残虐事件」などという言葉で表現されりして語られてきた。「ザ・レイプ・オブ・南京」という書物も、「南京大虐殺」に関わるものである。そして、その正確な虐殺数は、今なお様々な議論があり定まらない。しかしながら、事件そのものは、中国ばかりではなく世界で語られ、歴史に記録されている歴史的事実である。その証拠は、戦後、中国の「南京軍事法廷」はもちろん、太平洋戦争関係国が関わる「極東国際軍事裁判」でも採用された。にもかかわらず、敗戦国日本で、それを日本史から消し去ろうとする勢力が日本には存在する。

 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏は、多くの人たちの助力を得て、元日本軍兵士延べ250人以上に聞き取りをし、うち150人分の証言をビデオや写真、カセットテープに記録したという。また、中国の南京を訪れて、被害者140人のファイルも作成したという。そして、そうした取り組みは、「…南京を葬り去ろうとする勢力との戦いは避けられません。…」と書いている。大変な苦労があったのだろうと思うと同時に、とても貴重な取り組みだとも思う。

 ドイツと異なり、日本は敗戦後、戦争責任にきちんと向きあってこなかった。また、戦争中の歴史的事実、特に加害の事実をきちんと確認し継承してこなかった。加害の事実を後世に伝えるための施設や碑は、日本にはほとんど存在しない。そして、現在の安倍政権にいたっては「侵略」の事実すら否定しようとしているように思われる。そんな中で、皇軍の一員として、中国で残虐な事件に加わった元日本軍兵士が事実を語ることには、個人的にはもちろん、社会的にも困難が伴うことは容易に理解できる。それだけに、同書に掲載されている証言は、被害者の証言と一致する部分もあり、歴史的事実の加害証言として貴重であり、重要であると思うのである。

 聞き取りでは、実名での証言公表の承諾も得たというが、同書では、証言者が卑劣な脅迫を受ける恐れを避けるために、不本意ながら仮名で通すことに決定したという。それに乗じて、仮名であるからということで、加害証言全てを否定する人たちが存在する。悲しいことである。また、加害証言を全てをでっち上げであるとして無視するような主張は、国際的には通用しないと思う。

 松岡環氏は、南京戦に参加した元日本兵の調査に4年の歳月を費やし、”「やはり南京大虐殺はあった」という結論に達した。”と書いている。しっかり受け止めなければならない結論であろう。

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            第3部 証言
1 南京陥落直後──揚子江一帯での集団虐殺

陸上から我々が、軍艦からは大砲で、揚子江は血の色になった

                             平山仁三郎
                          1914年10月生まれ
               南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第三大隊
                            1998年2月取材
 昭和九年兵です。4月に大阪から船に乗って朝鮮に渡り、そこから陸つづきで満州に入って北上しチチハルに到着、さらに鉄道に乗って泰安鎮までいった。ハイラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。あの時はまだ独身やった。

 わしはずっと第一線ばかりで(軽)機関銃の射手でな。しかし不思議なことに怪我一つしなかった。
 上海付近に上陸してから南京に向かったけど、上海では戦争らしい戦争はしてないな。夜も昼も歩いた。機関銃も担いだし、背嚢とは別に、後ろに240発、前に60発、計300発の機関銃の弾をぶらさげて歩いた。重かったな。きつかった。南京にたどりつくまでたいへにやった。食料がない。小行李〔弾などを運ぶ部隊。太行李は食料を運んだ〕もようついてこなんだ。兵隊には食料と水がないと一番困る。菜っ葉や大根、鶏や豚も近くの民家から盗ってきたな。村の人は抵抗せなんだ。日本兵がこわいから。紫金山の戦闘はすごかった。なにしろ相手は南京の精鋭やからな。紫金山から下りるとき野砲がどんどん撃っていたな。

 南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、二大隊も三大隊もいたわ。揚子江を河いっぱいに中国人が筏や戸板につかまって流れていく。大きいのには60人くらいかな、数人のものもあったな。目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。よく当たって、舟の人が倒れて河にもんどりうって落ちるんや。次々とな、河いっぱいに下って来るんや。筏に乗っている人には黒い服をきているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。我々が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2、3時間は撃っていたかな。流れる血で揚子江は血の色やった。

 南京が陥落して、すぐに掃蕩に入った。13日、14日と城内掃蕩をやった。挹江門から入った時、死体をようけ〔たくさん〕見た。死体が5,6尺〔1尺は約30センチ〕に重なっていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった。城壁には中国兵が逃げようとしたんやろな、紐がいっぱいぶら下がっていたわ。入るとな、あちこちの道路にも死体がばらばら転がっていた。

 城内に入ったら、掃蕩するんやで。捜索隊と誘導隊に分かれてやるんや。わしらは捜索隊やった。敗残兵が次々と手を上げて出てきよる。白い旗をもってなんだ。家の中に入っての掃蕩もしたけど、相手が勝手に出てくるんや。私らの一個分隊だけで、1日目の掃蕩戦で支那兵3個中隊ぐらい、つまり700人ぐらい捕まえたな。縛ってはおらなんだ。ぎょうさんやで。すごい数や。そのあとどうなったか分からん。誘導隊が連れていきよったからな。外国人のところは入るなといわれた。相手は抵抗せんけどな。民間人はほとんど逃げておらなんだな。

 その後、城外の掃蕩もやった。第一線部隊は女の人に悪いことしやなんだ。明日死ぬかもしれんので。忙しゅうてどうにもならん。悪いことしようにも憲兵隊〔陸軍兵科の一つ。

主として軍事警察を受けもつ部隊〕が入ってくるとどうにもならん。城内外の掃蕩が終わってから、わしらの部隊は南京の南方に移った。一か月ほどいたな。その間、私らの部隊は南京には入れさせなかった。兵隊が悪いことするんでな。駐屯地では支那兵とは仲良くなった。支那人の洗濯のばあさんを雇ったな(笑い)。憲兵隊はおらへん。大体戦争中はおらへんなんだな。
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揚子江に逃げる兵を重機関銃で撃った

                             大川俊介
                          1913年3月生まれ
              南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
      は                    2006年6月取材
 現役の時は両親が健在で、家の仕事は百姓やったけど、私は手伝いはほとんどしてませんでした。私は(昭和)八年兵で昭和9年の1月に33聯隊の第1機関銃中隊に入隊しました。久居には1年間いた。久居にいる間にいじめとかはあってね。下士官に箒で叩かれたことがありました。満州には予備兵として行って2年間いてね、初年兵の訓練もしました。1期検閲をすんで昭和11年、12年は予備役でした。満州から帰ってきてから伍長になった。
 
 始めは北支に行き、そして南京へ行った。紫金山は頂上まで上がって機関銃を撃ったな。紫金山の攻略は2日以上かかった。そこで私の機関銃中隊は消耗があんまりなかった。たてこもっている支那兵を撃った。そして逃げている兵隊に向けても撃ったね。苦労はなかったけれど撃った……南京のこと……あんまりおぼえてませんわ。

 揚子江を渡って逃げている支那兵を重機関銃で撃ったな。揚子江は大きかった。皆逃げていった。その後ろで撃っとったんだ。私は当時射手だった、戦争だから撃ったよ。揚子江を渡る時に援護射撃をしたが、援護射撃といっても向こうが撃ってくることはない。こっちがダーと追って行って撃ったね。こっちばかり撃ってた。

 城外に駐屯した。城内では戦争はなかった。勝ち戦のわけで、南京の南の方も戦争はほとんど終わってた。掃蕩戦に参加したね。城外、城内と掃蕩した。

 死体処理には行ってない。激戦で支那人の死体が転がってたが。
 駐屯してから徴発に行った。1ヶ月もいたので食わなければならないので、泥棒みたいに徴発に行った。豚や鶏などを捕まえて来た。
 私は行っていないけれど、隠れてした人もいた。クーニャン〔娘〕を捕まえるのを見たことがある。そしたら、逃げるわけ、逃げるのも早い。南京が治まった後もクーニャンを捕まえる人がいたね……。南京のことはね。あんまりね……。

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河辺で逃げ切れない数千人を九二式重機で連続射撃
                              佐藤睦郎
                           1914年2月生まれ
            南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
                            1999年1月取材 
 久居の33聯隊の(昭和)九年兵です。すぐ満州のチチハルに行きました。満期除隊してからは、おじに仕込んでもらい魚屋をしました。町には魚屋がなくてな、繁盛しました。月給とりとは比べ物にならんくらい儲かりましたよ。
 そうしているうちに、支那事変です。23歳の時でした。

 上海は覚えてますよ。機関銃中隊は戦闘が収まってから上陸しました。兵站〔後方にあって、食料や軍需品の供給や輸送にあたる場所〕の糧秣〔食料〕を取りにいったのを覚えています。

 句容の飛行場を33聯隊は一大隊で攻めたんですわ。重機関銃はね、銃手が4人、弾薬手が4人、銃馬が4人、弾薬馬が4人、5、6貫目ある弾薬の箱8箱積むんでな。それを山地になると馬が使えんで、人間が自力で担ぎました。そやから、紫金山はえらかったですわ。 
 紫金山へは、第1機関銃は登らず、二、三大隊が攻撃したんですわ。わしらは、紫金山第一峰の右手にある何百メートルかの山を攻撃しました。中国側は手榴弾と迫撃砲で反撃してきましたわ。戦いが終わって見ると、16師団と同じような大砲がまっさらで使っていないようなものが放棄してありましたわ。

 ●──下関の手前で中国人を撃ち殺し
  下関でさらに数千の男女を撃ち殺した 南京が落ちてすぐですわ。下関に向かえということでね、下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣〔銃剣〕持って大きな道を通って下関に向かうんですわ。攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない、男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、角度を決めて左右にスーと流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をバッと組み立てて全部殺すんや。
 
 その日下関に着いたら、もう勝った勢いでな、向こうに敵ということで撃ちまくった。エンジンのないような、櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる、それを全部ダダーと撃った。下関にいる歩兵のさまざまな部隊もここかしこで撃っている。

 同時に揚子江の河岸にも大勢の押し合いへし合いの人がなだれ込んできてな、人はドンドン増えてきた。向こう岸へ逃げ切れなくて人間のかたまりとなって岸壁に集まってきていますんや。もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです。機関銃中隊一個小隊で二銃、一個中隊で八銃の重機関銃です。押しまくりました〔押すと弾丸が出る〕。港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。4百~5百メートル向こうにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。人の固まりが崩れていくんですわ。せめて白い布でも掲げてくれたらとな、かわいそうと思ってたら戦争するんもんやないと思う。我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、(中国人ならだれでも殺すという)命令は、師団長が出したんですやろな。

 次の日も、同じように下関で重機関銃を撃ち、大勢の人を殺しました。機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することは少なかったけど、掃蕩には参加しました。逃げ遅れた兵は白い布を立てていてね。ほとんどが兵の服装をしていました。みな集めて軍司令部へ連れて行くんです。中国軍の服装はまちまちで普通の服を着てました。
 捕まえた捕虜を揚子江で処分するために、また、機関銃を撃ちました。

 その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんようになりましたんや。死体を埋めることになりました。焼くということもありました。

 南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。

 今新聞でいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目にあってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。

 ●──地獄とは地獄 赤ちゃんに小便かけ
 南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーと泣いていました。日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことをするのを見ていても、「そんなことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな。笑われて馬鹿にされるから何も言えなかった。

 自分と同じ年頃の中国人2人捕まえて、苦力(クーリー)〔人足・力仕事をする労働者〕として働かせたけど、1人がどうしても帰らせてくれ言うてね。治安がよくなってきたので良民証を持たせて帰しましたが、自分の隊を離れるとすぐ殺される。うまくいったらいいが、持っていてもやられる。無事に帰れたかどうか。かわいそうやった。助かった人は少ないですよ。治安ができてくると、憲兵とか入って強姦とか暴行とかも少なくなるんやけど。憲兵が入るのが早ければ、だいぶ犠牲が少なかったと思う。規則があるんやから、命令を早く出していたら、そんな無体なことをせずにすんだんや、子どもまで殺すことなかった。ほんとうにそれまで、無茶苦茶なことしてた。各部隊がそれぞれえげつないことやってました。目の前で見ていて、戦争に負けたらこうなるのは仕方がないことだと当時は思っていました。本当にかわいそうなことしました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーOCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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