真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通州事件 陸軍武官・今井武夫 の記述

2016年10月30日 | 国際・政治

 「支那事変の回想」(みすず書房)の著者(今井武夫)は、1937年(昭和12年)の「蘆溝橋事件」当時、中国大使館付き武官として、中国側と現地交渉をくり返し、一時停戦に貢献したといわれる人物です。

 彼は通州事件後、当時親日地方政権であった冀東防共自治政府の政務長官・殷汝耕の救出に心を砕いたことでも分かるように、日本軍関係者のみならず、中国要人にも知り合いが多く、中国側に対して一方的に日本の主張を通そうとする人ではなかったようです。だから、通州事件を、日中の全体的な関わりの中で、比較的冷静に、そして客観的にとらえているように思います。同書には、日本側に受け入れられていた通州駐屯の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)に関して、下記のような記述があります。

通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。

 この記述から、不満を抱きつつ最後まで日本側に妥協して我慢していた通州保安隊も、関東軍飛行隊による爆撃を受けて、一気に怒りを爆発させ、日本人襲撃に至ったのではないかと考えさせられました。
 
 また、著者(今井武夫)は、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した安藤同盟通信記者が、中国農民の好意に助けられ、九死に一生を求めることができたことを取り上げています。また、それに続けて、下記のような文章を加えているのです。

”その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。

 でも、残念ながら、日本には通州事件について、
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
とか
婦女子は子供といえども一日中次々と支那人が強姦し…”
とか
臨月の妊婦の腹から赤ちゃんを針金で強引に引き出してから輪姦…”
とか
まるで、今見てきたかのように、中国人の残虐性ばかりを並べ立てる人たちがいます。そして、あたかも全ての中国人が残虐であるかのように言うばかりでなく、それを中国人の「気質」の問題として論じている人もいるのです。私は、それは平和的な国際関係の発展や日中関係の改善にとって「百害あって一利なし」の主張ではないかと思います。

 下記は、「支那事変の回想」今井武夫(みすず書房)から抜粋しました。

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                    第一 蘆溝橋事件
通州事件と殷長官救出
 7月29日夜明けを待って、私は真先きに北平市内を一巡して見たが、冀察軍撤退後の北平は、バリケードや土嚢の防御施設が散乱していただけで、市内は至って平静であった。城内には冀察第百三十二師の二個師団を保安隊に改編して残置したが、治安と人心安定のため至急中国側の委員会を結成する必要を認め、私は29日朝松井特務機関長と協議の上、元国務総理の経歴を持ち、北平市民の間で元老的存在であった、70数歳になる高齢の江朝宗を主席とし、委員としては商務総会より代表として冷家驥(レイカキ)、銀行工会鄒泉孫(スウセンソン)、自治会呂均、市政府周履安、公安局長潘毓桂(ハンイクケイ)を推薦して、地方維持会を結成し、翌30日午後急速に成立式を挙行した。

 この維持会には、日本側からも赤藤憲兵隊長、笹井冀察軍事顧問、西田冀察政務委員会顧問等数人を顧問として派遣し、日華双方の円滑な連繋をはかった。
 又冀察政権は北平撤退に際し、初め張自忠を宋哲元委員長の代理として残置した。しかし、その後戦局の拡大するに伴い、自然に行政機能を失い、8月19日自ら解散し、張は便衣で変装の上南下逃亡し、国民政府軍の師長に就任したので、冀察政務委員会は自然消滅の運命を辿った。
 又7月30日には冀北保安総局司令石友三の指揮下にあって、北苑の兵営に駐留していた、独立第三十九旅旅長阮玄武から、参謀長張禄卿を代表として陸軍武官室に派遣し、同部隊は日本軍に対し戦意のないことを誓ったので、交渉の末、私は彼等が自ら武装解除をするよう申し渡して、天津軍に対してこれが攻撃中止を要請した。
 このため小銃五千、軽機関銃二百、山砲迫撃砲等八門を有する同旅六千の兵員は、刃に衂らず、武装解除を完了することが出来た。8月1日か関東軍の奈良部隊が同兵営に近づき、之れを砲撃する様子に驚いた阮玄武から、奈良部隊の攻撃を中止するよう要請があったので、私は同部隊の上級司令部鈴木旅団と交渉した。既に阮部隊が自発的に武装解除した後のこととて、勿論談笑裡に解決して、攻撃は中止された。
 しかし最も遺憾であったのは、北平東方数哩の通州における保安隊の惨劇であって、所謂通州事件と称せられるものである。

 尤も之れは単に通州だけに突発した事件ではなく、予て冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊が殆ど全部、29日午前二時を期して、一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである。
 従て天津を始め、通州、太沽、塘沽(タンクウ)、軍糧城等時を同じくした各地保安隊の襲撃事件であるが、特に通州は冀東政府の所在地で、長官の殷汝耕は親日を標榜し、日本人にとっては最も安全地帯と考えられていたので、わざわざ北平から避難者さえあった程、気を許していただけに惨害が激しかった。
 通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。教導総隊第二区隊が中心となり、夜陰に乗じて遽かに長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、特務機関長細木繁中佐以下日本人を襲撃して、在留民380名中惨殺された者約260名に達し、鬼哭偢偢の恨みを残した。
 同地の日本軍守備隊は主力を南苑の攻撃に向かい、残留兵は通信兵や憲兵を主とした僅少な人員で前日の戦闘の負傷兵を収容していたが文字通り死力を尽くして戦った。兵舎は敵の集中砲火を浴び、集積したガソリンに引火し、死傷者の続出する中で、突入してくる敵を悉く撃退したが、衆寡敵せず市街に居留民の安全まで期し得なかったことは、誠に残念であった。
 30日午後となって、天津から急派した増援隊の到着と共に、漸く市内を掃蕩して治安を回復することができた。
 一方反乱を起こした保安隊は、通州から門頭溝に向い、 冀察第二十九軍に合一せんとしたが、途中北苑、次で西直門附近で関東軍鈴木旅団と遭遇して後退した。
 この間保安隊に連行されて各地を彷徨していた殷汝耕は、30日午後2時頃北平安定門外の鉄道駅長宅から、直接私に救出依頼の電話をかけてきたので、漸くその所在を知ることが出来た。
 丁度その直後、北平地方維持会成立式に同席した公安局長潘毓桂を説得し、城門開扉の内諾を得たので、武官室から渡辺雄記を派遣し、ひそかに安定門から城内を連行し、六国飯店に迎えて之を保護した。
 その夜北平は停電のため、武官室内は真の闇であった。
 私は些事とはいえ、この日三事件とも一応全部順調に解決したことに、心から満足した。一は北平地方維持会の成立であり、その二は阮玄武部隊の武装解除で、その三は殷汝耕の救出である。

 折から煌々と輝く月を賞しながら祝盃を挙げようと、国民新聞の特派員松井記者と一緒に、武官室の前庭に椅子を持ち出し、ボーイに命じて、暗黒の室内からビール瓶を持ち出させてこれを注いだ。最初にコップを傾けた松井が、突然奇声を発して、全部吐き出した。
 ビールと思ったのは、実は醋であったあからである。暗黒中のこととてボーイが瓶を間違えて持ち出し、之をコップに注いだのである。
 醋を飲むというのは、辛酸を嘗め、苦労することと同義語であるが、中国では嫉妬を意味する言葉である。醋字の作りの昔を廿一日と読んで三週間の鳥なぞというふざけた言葉もある。後に殷汝耕の救出は、日本浪人荒木某の手によるものとして、日本新聞に4段抜きで報道され、雑誌には当人署名の寄稿記事まで掲載された。
 又阮玄武部隊の武装解除は軍の武勲を誇張するため、日本軍隊の実力の行使によるものとして報告され、地方維持会の成立も、実情とは異なった報道となった。
 歴史を正しく把握するの至難さは、この一事をもってしても、私は自らこれを体験して思い当たるものがあった。
 序でながら一言附加することがある。この年の秋、聖旨を奉じて華北の軍隊慰問に派遣された侍従武官の四手井綱正中佐に、私は広安門事件の説明を行った。内容は当時同門を守備していた冀察軍が、城門を開扉して北平城外から城内に入城する日本軍の城門通過を容認しておきながら、城門の通過を始めた日本軍に対し、城壁と城門の上から、機関銃と小銃で瞰制射撃を加え、射撃によって日本軍隊を城門で分断した事実で、まだ戦塵の渦巻く中で有りのままを報告した。
 ところが二年を隔てて、四手井侍従武官は再び、聖旨奉戴し軍隊慰問のため大陸に派遣され、私は南京の支那派遣軍総司令部で中佐を迎えた。
 彼は私の顔を見るなり、開口一番
「今度北京に行ったら、広安門事件の戦史を北支軍司令部の幕僚から講話されたが、前年北平武官当時の君から聞いた事実譚と異なり、中国軍は日本軍の先頭部隊を入門させた上、中途で城門を封鎖して部隊を二分してから、瞰制射撃したと話したから、門は閉じられなかったのではないかと反問し、事件直後君の講話の内容を述べた。然るに講話者は、当時の事実は兎も角、現在公式には、本日報告した通りとあるから、之れに従って取り扱ってくれ」
と言ったとか。 
 同中佐も余程印象が深かったと見え、
 「歴史は一、二年で書き換えられる」
と言って苦笑していた。
 蘆溝橋事件のメモワールも世上に発表されたものが少なくないが、中には単に局部的視察談であったり、或いは他に目的をもち、偏見に基づくものもなしとしない。
 天皇に報告する事件に就てさえ斯かる実情であったから、何事も各種資料を取捨選択して正確を期すことは、歴史家に課せられた任務であろう。

事件余話
 ここには蘆溝橋事件に関連した各種のこぼれ話を摘記することとする。
○殷冀東政府長官の処置。
 7月30日午後6時半、反乱した保安隊の手を逃れて密かに六国飯店に落着いた冀東政府の長官殷汝耕は、取敢えず危機を脱し生還した喜びで一杯だったが、翌31日午前私の勧告に対し
 「通州事件は何等自分の予期せざる事であるが、自分は冀東自治政府長官たるのみならず、事件の中心部隊となった教導総隊の隊長を兼ね、直接責任者でもあるので、その責任の重大なるを痛感し、この際自己の出所進退を明らかにし度い。」
として冀東政府長官辞任の意志を明かにした。
 然るに一日隔てた8月1日天津軍からは、殷汝耕の保護を名目に、之れを憲兵隊に抑留するよう電話で命令してきた。驚いた私は軍司令部に対し、電話で
殷汝耕も亦通州事件では、日本人と等しく共同の被害者の一人とも云うべく、しかも彼は道義的に責任を感じ、既に辞任を決意して居る。
と事情を述べて、その処遇を誤らざるように説いたが、軍からは追打ちに、引続き第二次指示として電報で監禁を命じてきた。
 私は已むを得ず、その夜兎も角赤藤憲兵隊長に要請し、殷を憲兵隊楼上にある隊長私室にうつし、その取扱を丁重にするよう依頼して、爾後軍の監理に任せた。
 折よくその晩殷夫人民慧の弟、井上喬之が満州旅行から通州に帰任して、私を来訪したので彼を殷に会わせたが、井上は翌日天津軍に拘束されて仕舞った。
 8月4日になって殷より左記の如き声明を発表せんと申し出たが、拘禁中のため一応天津司令部に協議の必要あるべしと勧告し、一時之れを見合わさせた。

                   声明文
 7月29日冀東保安第一総隊長張慶餘等反乱を起こし、無辜の在留外人を惨殺し、其の惨虐言語に絶す。
 幸いに日本軍に依り、之れを撃滅したれ共、痛心何ぞ忍びんや。今この大事変に当り何を以てか冀東700万民衆の信頼に応えん。一に不徳の致す所にして良心の呵責に堪えず。
 只善後処置に就ては、徒に不明を喞つべき時に非ず、暫く隠忍責を負い、諸般の善後策緒に就かば、自ら潔く引責し、以て罪を天下に謝すべし。

 その後殷は憲兵隊の拘禁所に移されたので、私は、時々殷を獄中に訪れ、何れ彼に対する嫌疑の晴れる日のあるべきことを告げて激励したが、彼は日光に当らないから顔色こそ蒼白であったが、別段憔悴の様子もなく 
 日常仏書を繙いて、通州殉職者を追悼している
と、話していた。
 後に殷の井上に対する談話によれば、殷に対する天津軍司令部の誤解は、冀東政府の秘書長を勤め、通州事件後唐山でその代理長官に就任した池宗墨が、殷を追い落として自ら長官たらんとする野心に燃え、種々策謀の結果によるものらしかった。
 年末に至り漸く殷に対する天津軍の嫌疑も晴れ、殷は天津軍憲兵隊長から無罪宣告の上釈放された。
爾後彼は北京に隠棲して政界と関係を絶ったが、戦後漢奸として国民政府から銃殺される悲運に陥った。

安藤同盟通信記者、通州から生還
 8月2日午後同盟通信社記者で北平駐在員の安藤利男が、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した。朝陽門外に辿り着いて、城内に電話で助けを求めた時は、誰もその真実を疑った程だが、本人の声に間違いないので救助に向い城門は閉まったままだから城壁上から縄を下げて、之れを伝って救い上げることが出来た。
 安藤は㋆28日天津からの帰途通州に立ち寄り、旅館近水楼に一泊し、翌日未明宿泊客及び旅館従業員全員と共に、反乱保安隊に捕縛された。一本縄に十数人宛て数珠繋ぎに縛られて、銃殺場所に連行され、同じ在留民約100人程集まるを待って同時に機関銃で射殺される運命となった。
 丁度安藤は数珠繋ぎの一番先頭に居ったので、二番目の人との間にあった結び目を密かに解いておいて、城壁の崩れた斜面の一番高所に位置した。愈々射撃開始の瞬間に身を翻して城壁上から城外に跳躍して、高粱畑を利用して逃亡を図った。途中数回追跡され、特に一度は再びゲリラ部隊に捕らえられて番所にひかれ、銃殺されんとしたが、この時も再び高粱畑に飛び込んで逃走を続け、三晩四日絶食のまま気力も尽きて倒れ農家に救いを求めた。幸い農民の好意に助けられて食事も給せられた上、変装用の野良着とむぎわら帽子、ぬの靴に扇子まで添えて与えられ、朝陽門外まで案内人をつけて呉れたため、真に九死に一生を求めることができた。
 その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。 

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