足代わり119番、救急車「予約」…非常識な要請広がる(読売新聞) - goo ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20080622-00000027-yom-soci
以前このブログでごらんいただいた短編を、このニュースを機に再アップ。
まあ、暇な方はお読み下さい。
救急車狂
二十一時十四分。
二階の休憩室のテレビで巨人対阪神戦を見ていたときだった。九回裏、二対二の同点、一死満塁でバッター高橋。まさに打席に入ろうとしたとき、救急指令のチャイムが鳴った。
「なんや、なんや」
「またかいな。ええとこやのに」
俺たち三人の隊員は腰を上げた。
通信指令室担当官の声が、スピーカーから流れる。
「救急指令、救急指令、横田町三丁目、怪我人発生。右手指切断とのこと。北町救急隊は、ただちに現場へ急行せよ」
「行きまんがな、行ったらええんやろ。ほんま、しょうがないなあ」
隊長は、大きな声で愚痴を漏らす。
「ついてないですね。この分やと、巨人は負けますね」
大阪人のくせに熱狂的な巨人ファンの隊長の横で、阪神ファンの俺は駆けながら、皮肉っぽく言ってやった。
「いや、ヨシノブは打つ。目えが、光っとった。サヨナラホームランとはいかへんでも、センター前の痛烈なヒットぐらい打ちよる」
螺旋階段を一気に駆け降り、救急車に乗り込む。出動指令では手指切断の重傷とのことだ。たとえ完全に切断していても、病院へ大至急に搬送して縫合手術を行えば、元通りに癒着することもありうる。隊員の意気がもっとも高揚する局面だ。
運転担当の俺は、エンジンを始動し、サイレンのスイッチをオンにした。
「右よし、左よし、後ろよし、発進」
サイドブレーキを外し、アクセルを踏み込んだ。
助手席の隊長は、無線マイクを手にした。
「こちら北町消防署救急隊。ただいま横田町三丁目に向けて発進しました。司令室、どうぞ」
「発進、了解しました。で、ですね、出動要請の通報者は、たいへん言いにくいんやけど、横田団地六号棟の秋野春子です。まあ、トラブル起こさんように、よろしくお願いします」
「えーっ、なんやねん、またですか。子供が指を切断したなんて、シャレにもならんこと言うてんのでしょう」
「まあ、そんなとこや。すっぱり切れて血が止まらへん、と、半狂乱なんやけど……」
「了解しましたよ。いちおう行って見ますけど、どうせ、引っかき傷程度とちゃいまっか?」
俺は、秋野春子と聞いただけで、ハンドルを握る腕の力が抜けていた。
彼女は、消防本部のブラックリストのトップにランクされている最悪の常習者だ。子供が生まれた二年前からの出動要請は、すでに五十回に及ぶ。俺が消防から救急に転属したのは三か月前だが、彼女への出動はもう五回目だ。
通報するのは、たいがい夫が不在のとき。子供が夜泣きや微熱などで様子が少しでもおかしいとパニックに陥って、一一九番に電話をしてしまうのだ。
近頃は、秋野春子のように、ろくに子育てのできない親が増えている。その典型は、子供への虐待だ。ひと月ほど前には、父親から殴る蹴るの虐待を受け、チアノーゼになった全身痣だらけの幼児を搬送したことがあった。あと三十分搬送が遅れていれば、確実に命を落としていたところだったと、医師は言っていた。それに比べればまだましではあるが、親としての資質の欠如は明らかだ。
もちろん、消防本部としても常習者対策を大きな問題と捉えていた。係官を秋野春子の自宅に派遣して、無駄な出動要請をしないように何度も指導を繰り返していた。しかし、結果は推して知るべしだ。
そもそも、救急制度にも問題があった。たとえ常習者からの要請であっても、イソップの『嘘つき羊飼い』の寓話のように、本当に狼が現れる事態は十分起こり得る、という問題だ。その万一のケースを見逃すことを、消防署としては恐れていた。恐れるあまり、常習者からの通報であっても無視することができなかったのだ。
現場に出動して軽傷と分かっても、相手が搬送を要求している限り、我々は拒否できなかった。傷病の軽重の診断は、医師以外に下せないからだ。消防法などでは、虚偽の通報防止のために罰則をもうけている。しかし、傷病の場合、診察では軽くみえても、心因性や原因不明の痛みなどが現実にある限り虚偽と断言できない。したがって、処罰の対象となりにくかった。
俺たちが無駄足を踏んだというだけなら諦めもつく。問題は、常習者への出動の際に急患が発生し、他の消防署から応援を頼まざるを得ない時だ。距離の離れているぶん搬送が遅れ、それが文字通り命取りになる、という事態も、表沙汰にはなっていないが現実に起きていた。
「あんなやつ、絶対に断るべきですよ」
俺は、強く隊長に言った。
「そうしたいとこやけど、わしらは医者やないさかいなあ」
「救急隊員は、消防とちごておとなしすぎるさかい、やつらはつけあがるんですよ。どうせ大した知恵のある連中やない。ガツンと一発かましてやったらええんや、ガツンと」
「まあ、そうは言うても……」
「本人が、要請を取り下げざるを得んように持って行ったらええんです。ぼくがやってみます。隊長より、口は達者でっさかい」
「そやなあ、いつかは断ち切ろなあかん問題やし、ダメモトでいっちょうやってみるか」
隊長は、あまり気乗りはしないようだが、俺の激しい口調に押されて頷いた。
何度も足を運び、勝手を知った団地だ。大通りから左折して、六号棟の方向へ車を進めた。いつものように、駐車場脇の街灯の下に、子供を抱きかかえた秋野春子の姿があった。
「遅かったやないか。はよ病院で手当てせんと、この子死んでしまうやないか」
救急車を近づけると、秋野春子は金切り声をあげて駆け寄り、俺たちにいいつのる。
「子供が、指切ったなんて、ほんまかいな」
俺は、わざと相手をじらすようなのんびりした口調で言った。
秋野春子は、泣きじゃくる子供を胸に抱きしめたまま、その手を掴んで俺たちに示した。指には大げさなガーゼが巻かれていた。
「ほれ、ここや、ここ、血イ出たんや、いっぱい」
隊長はガーゼを取って、マグライトでその指を照らした。傷らしいものは見当たらない。
「怪我なんかしてへんやないか」
俺は、厳しく決めつけて言った。
「何ゆうてんの、ここや、ここ、ぐっさり切断しとるやろ」
目を皿のようにして見ると、たしかに長さ一センチほどの引っ掻き傷がある。おもちゃの端で引っかくかどうかしたのだろう。むろん、とっくに血は止まっていた。
「なんや、こんなもん、バンドエイドもいらんぐらいや」
「嘘や、これ、よう見てえな、血イついとるやろ。だらだら出たんやでえ」
目を皿のようにして見ると、確かにガーゼに二、三滴の小さな赤い斑点があった。
「アホ臭いこと言わんとき。こんなんで病院へ行ったら、医者に笑われるでえ」
「バイ菌が入って、破傷風になるかもしれへんやないか」
「ならへん、ならへん」
「なんで、あんたらに分かるんや。医者やないくせに……」
「医者とちごてもよう分かる。こんなしょうもない怪我で、よう救急車を呼ぶなあ」
「しょうもないとはなんや、しょうもないとは。うちの子の命がかかっとるんやで。もし死んだら、どないしてくれるんや」
「絶対に死なへん」
「あんたの保証なんかいらん。医者に診て欲しいんや」
「それやったら、救急車なんか呼ばんと、歩いて行ったらええやろ。救急車は、一刻を争う病人やら怪我人のためのもんや」
「こんな夜中に、どこの医者が診てくれるゆうねん。救急車が頼りなんや。救急車で行くさかい、診てくれるんやないか」
「あかんちゅうもんは、あかん。それになあ、こんなことで救急車を何度も呼んどったら、そのうち処罰されるで。嘘の通報をしたもんは、逮捕されるんや。留置所に入れられたら困るやろ。もう諦めて、家に帰っとき。どうしても心配やったら、明日の朝になって医者へ行って十分やさかい」
「ああ、そうでっか。あんたら、市民の命がどうなってもええんやな。市長に言いつけたる。情けもなんもない、殺人鬼のような救急隊員やゆうて……」
秋野春子は、急に開き直った。
その目は完全に座っていた。危ない表情だ。だが、ここでひるんでは、彼女の思うつぼだ。俺たちはお灸をすえる意味でも拒否した。
「市長は相手にせえへん。それより、子供のためにも家に早よう帰りなさい」
「鬼……。あんたら鬼や。人殺しや。殺人鬼や。ああ、ええわ、もう頼まへん。なんやねん、偉そうに、うちらの税金で養のうてもろとるくせに……」
「鬼で結構や。署への報告は、たいした怪我やなかったから収容を中止したことにしといたげる。念押しとくけど、嘘の通報やったら、逮捕されることになるんやで。また一一九番に電話しても、もう来やへんさかいな」
常習者は、一種の依存症である。アルコールやギャンブルの依存症と同じで、甘やかしてはいけない。荒療治が必要だ。いつかは断ち切る必要がある。
「もっと大きな怪我やないと、病院へ運ばへんゆうんやな」
「まあ、そう言うこっちゃ、救急車は」
「わかった、もうええ。目障りや、帰れ」
「ほんまに、わかったんやな」
「ああ、ええ、早よ行ってしまえ……」
泣き叫んで懇願してくるかと思ったが、意外に簡単に引き下がった。
もういいと言う相手のそばに、いつまでもいることはない。俺たちは引き返すことにした。
憎しみに満ちた視線を背に受けて、救急車に乗り込んだ。なんとなく危険な予感めいたものがあったが、俺たちとしてもあとへ引けない。俺はサイドブレーキを外した。
「変なこと考えんときや。もう、行くでえ」
発進の時、隊長も声をかけた。
俺は、アクセルを軽く踏み、団地の出口までゆっくりと救急車を走らせた。
秋野春子は、子供を抱きしめたまま、車を追うようにつけてきた。バックミラーには、街灯に照らされ、異様に思い詰めた表情が映る。ちょっとお灸がきつかったかなと思ったが、彼女のためでもある。ここは非情になるべきだ。
団地の入り口から大通りへ出るため、一時停止して左右を確認した。
右手から、猛スピードでタクシーが走ってきた。やり過ごしてから、救急車を通りに出そうと思った。
その時だ。
秋野春子が、信じられない行動に出た。歩道の端まで駆けて行き、子供を走ってくるタクシーに向かって放り投げたのだ。
急ブレーキの音と鈍い衝突音が同時に暗闇を引き裂いた。
人形のような小さな身体が、大きく宙を舞い、団地の植え込みに落下した。
俺は全身が凍りついてしまった。
歩道の端には、こちらを睨みつけて立ち尽くす秋野春子の姿があった。
彼女は、俺と視線が会うと、般若のような目をじっと見開いたままひたひたと近づいてきた。そして、喉の奥から声を絞り出した。
「どうや、これやったら、うちの子、病院へ運ぶのに、文句ないやろ、文句ないやろ、文句ないやろ、はよ運んでええな……」
おわりだ、この野郎め!