鎌倉時代に源頼朝の重鎮として名を馳せ、三浦半島と三浦市の名前の由来ともなった三浦一族。
現在、東京大学三崎臨海実験所や京急油壺マリンパークがある場所には、この武将一族が最後の砦として守った新井城がありました。
伊豆国から相模国を含む南関東全体に勢力を伸ばそうとする北条早雲に攻めたてられた三浦道寸と子、荒次郎義意(よしおき。「よしもと」とされる場合もあります)が率いる三浦一族。新井城に籠城して3年にもわたり対抗したものの、最後は壮絶に散りました。今からおよそ500年前、1518年(永正15年)のこととされています(1516年[永正13年]ともいわれています)。
新井城の敷地の約半分は、国有地(東京大学三崎臨海実験所)となっているため、開発を免れ空堀、高やぐらなどの遺構が比較的よい状態で残っています。
今回は、三浦道寸について研究しているアダチ・クリスティさんにお聞きした三浦道寸にまつわる逸話やおすすめの散策場所を紹介します。
周辺を散策することで、3年の長期にわたり新井城で戦えた理由に触れ、語り継がれてきた人間味溢れる逸話で歴史を楽しむこともできます。
今も残る歴史の面影に触れてみてはいかがでしょうか。
注)本稿で紹介する地名の由来、逸話等には諸説ある場合があります。
写真:「三浦一族の歴史はロマンとミステリーがあります。今も当時の雰囲気を残す場所があり、道寸没後500年を迎えるにあたり、市民の方にも地元の歴史に触れてほしい」と話すアダチさん。仕事場である事務所のそばに義士塚(下記参照)があったことから三浦道寸に興味を抱き、今では本業さながらに道寸研究に取り組んでおられます。「新井城はまだ手つかずで発掘も進んでおらず、これからまだ新しい発見が出てくる見込みがある」とアダチさん。実際、1997年(平成9年)に東京大学三崎臨海実験所敷地内の発掘調査が行われた際には、住居跡や大量の人骨、陶磁器等が次々と発掘されています。 |
新井城の周辺を散策する~自然の要塞・新井城、一族が身を落とした油壺湾~
図:当時の新井城の見取り図(「マリンパークへ向かう道の他、当時の道筋が今も残っています。また、道としての体はなしていなくても、木々の間を散策すると石垣の跡があるなど、古道の名残を目にすることができます」とアダチさん) |
前述のとおり、新井城での最後の戦いは3年に及びました。
多勢に無勢、圧倒的な兵力を誇る北条の攻勢にさらされながら、長期間にわたり奮闘を続けられたのは、新井城が位置する油壺の地形のためでした。
北、西、南をぐるりと海に囲まれ、崖は険しく、まさに自然の要塞であり、海からは攻めがたかったことでしょう。
また、「当時は城を守るために横堀海岸から南の油壺湾までの土地が掘り切られ、そこに海水が流れ込み、城は完全に島となっていたようです。陸地を横から掘ったということから横堀海岸という名前が残ったんですね。他にも油壺周辺には新井城と三浦一族の歴史に由来する地名が数多く残っています。島城のため、内陸との行き来には橋をかけていましたが、戦いの時にこの橋を城の方に引くことで、敵の侵入を防ぐことができました」(アダチさん)
つまり、海からも陸からも攻めるのは難しかったのです。北条はその兵力を十分に発揮することができずに、攻めあぐねることになりました。
しかし北条は、独特の地形を利用して兵糧攻めの戦略をとることにしました。
食糧が徐々に減り、三浦一族はしだいに追い詰められていきました。
新井城跡周辺
周辺の散策では、荒井浜から海岸沿いを歩いて胴網海岸へ行くルートを教えてくださいました。
周囲からぐるりと新井城跡の方を見上げれば、「自然の要塞」と言われる様子を目の当たりにできるでしょう。
地図は、観光パンフレットのページから「三浦半島きままに散歩三崎口」のPDFをご覧ください。
なお、荒井浜には落石・落木の危険のある箇所があります。崖下には近づかないようにしてください。また、潮の満ち引きや波の高さにお気を付けください。
写真:日本の水浴場88選に選ばれている荒井浜 |
写真:荒井浜から見る断崖。自然に守られていたことがわかります |
写真:散策コースは砂浜と岩礁が楽しめます |
写真:散策コースは崖を歩く箇所があります。写真のように、歩きやすいよう整備されています |
写真:散策ルート(胴網海岸付近)から見える風景。緑の木々が青い海によく映えます。 |
写真:胴網海岸の水辺。油壺周辺の海は水の透明度が高いことで知られています |
教えていただいた散策ルートの終点である胴網海岸から丘に上がった場所に、アダチさんのおすすめの見学場所である「三浦道寸供養塔」があります。
道寸が生前好んだこの場所に供養塔が建てられたそうです。
海を見下ろす丘の突端にあり、夕暮れ時は、木々の間から夕陽が差し込み幻想的な雰囲気に包まれます。
写真:道寸供養塔へ続く一本道。木々の間から差し込む夕日が道と供養塔を照らし、幻想的な雰囲気があります |
「城」のイメージが覆る空堀と土塁
「油壺湾」~三浦一族の敗戦が湾の名前に~
現在はヨットハーバーとなっている油壺湾。
周囲に生い茂る木々の緑が映る、湖面のように静かな水面が特徴の美しい湾です。
兵糧攻めでいよいよ戦況の厳しくなった三浦一族は、最後の戦いに討って出ます。
しかし数でかなうはずもなく、荒次郎が敵陣を食い止めている間に、道寸は自刃し、やがて荒次郎も討たれました。
戦の末死にきれなかった三浦一族の兵たちも自決し、湾へ身を投じました。その数は、70から80人ほどだったとされています。
波の立ちにくい湾は三浦一族の血で真っ赤に染まり、まるで油を流したようになったため、この地が「油壺」と呼ばれるようになったとも言われています。
写真:荒井浜へ向かう道から見る油壺湾 |
写真:国土地理院油壺験潮場(写真左の建物)付近から見る油壺湾 |
写真:油壺湾。水面が穏やかです |
写真:ヨットハーバー側から見る油壺湾 |
三浦一族のお家芸を知る~道寸祭り「笠懸」~
毎年5月の最終日曜日に荒井浜で開催される道寸祭りでは、三浦一族を偲ぶ供養祭とともに、三浦一族のお家芸として永く伝えられてきた「笠懸(かさがけ)」が披露されます。1979年(昭和54年)に笠懸としては日本で初めて恒例行事として復活して、今に続く行事です。地域の方も衣装を着て参加しています。
流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおいもの)とともに三大古弓馬術と言われる笠懸。
この中でも笠懸は標的が多彩なうえに障害物があり、実践的かつ難易度が高いとされています。
源頼朝が三崎来遊の際、笠懸が催され、三浦義澄、和田義盛がその技を披露したことから、三浦一族は弓の名手として知られるようになったとされています。
コラム:三浦一族にまつわる逸話義士塚に人の情けの尊さを見る道寸の子荒次郎は、身長約2メートル以上、筋骨隆々で85人力と言われ、誰も立向わないような豪傑だったとされています(『北条五代記』)。 そんな荒次郎に対し、北条方の武将4人が勇敢にも立向ったものの、やはりかなわず、討たれそうになりました。その時、道寸は敵ながらその勇敢ぶりを認め、4人を許し、放免したといわれています。その後、三浦一族は滅ぼされてしまうわけですが、命を助けてもらった道寸の恩にいつか報いようと固く心に誓っていた4人は、後を追って自刃しました。そして、このことを知った村人達が4人の霊を慰めるため、塚を築き祀ったと言われています。 なもた坂真光院(小網代)付近に、なもた坂という坂があります。 網代村から三崎村へ行く近道として使われていた坂です。左右に木々が生い茂る暗い急坂は、どことなく往時の雰囲気を感じさせます。 新井城が危うくなった頃、従者を連れた道寸の側室は戦火を逃れてこの坂を下りました。やっとの思いで小川のほとりに差しかかった時、身重だった側室は、その橋のたもとで死産してしまいました。 側室はその子を橋のたもとに埋めて手厚く葬ったあとで、自ら命を落としたとされています。 現在、その橋は残っていませんが、産後間もない女性が渡ると次のお産で苦しむ等の俗説があったと言われています。 なもた坂の薄暗さも相まって、歴史の悲哀を感じられる場所となっています。 写真:神奈川の古道50選にも選ばれているなもた坂。急坂で、薄暗く、もの静かな雰囲気です
(参考文献『三浦半島の史跡と伝説』(松浦豊著)) |
三浦一族と三浦ツナ之介
他の武家と同じように、三浦一族にも家紋があります。
三本の横線(引両紋といいます)がある「三つ引両紋」と言われる家紋です。
この家紋、三浦市のご当地キャラクター「三浦ツナ之介」の甲冑(かっちゅう)にも描かれています。
ツナ之介は、三浦一族の鎧を着ることで、陸に上がれるようになったまぐろとされています。
イベント会場などでツナ之介を見たときは、胸の家紋にもご注目ください。
部署名:政策部政策課
電話番号:046-882-1111
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