神に生かされた人生!

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聖書の中のい命の意味。ゾーエーとプシュケー

2016-05-07 04:52:44 | キリスト教
今週は、火曜日から木曜日まで、ほぼ一歩も外に出ないで仕事に没頭しました。

今日・明日と、外部の用事が入っているため、気持ちを切り替えようと思っていましたが、体の疲れがひどく、とても外に行くだけの体力がないため、体を休めることにしました。

しかし、小一時間休んだら少し元気になったので、仕事の続きをしました。

四日間連続で集中して仕事をしたため、力を使い切ってしまった感じです。枯れ木のようです。

枯れ木で思い出したのがイスラエルです。

イスラエルは、乾季と雨季の二季です。半年の乾季の間に、大半の草木は枯れてしまいます。

しかし、雨季に入ると、枯れて死んだように見えている草木が息を吹き返し、花を咲かせるのです。

四日間アウトプットばかりをしましたので、「神の聖霊の雨を豊かに注いで下さい」と祈っています。

旧約聖書の「エゼキエル37章」には、枯れた骨が生き返るということが書かれています。

『37:1 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。

37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。

37:3 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」

37:4 主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。

37:5 神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

37:7 私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。

37:8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」

37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』(エゼキエル37:1~10)

枯れた骨に聖霊の息が吹き込むなら、骨が生き返り、筋が生じ、肉が生じ、皮膚でおおわれ、自分の足で立ち上がり、多くの集団になったという話は、私の心を力づけました。

聖書で「いのち」と日本語に訳された言葉には、ギリシャ語で二種類あります。「プシュケー」と「ゾーエー」です。

「プシュケー」は、肉体的な限りあるいのちを指し、「ゾーエー」は、根源的・霊的ないのちを指します。

例えば、マタイ6:25の「いのち」は「プシュケー」が使われています。

『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのち(プシュケー)のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのち(プシュケー)は食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。』

次に、ヨハネ3:16の「いのち」は「ゾーエー」が使われています。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのち(ゾーエー)を持つためである。』

イエスさまは、『わたしが来たのは、羊がいのち(ゾーエー)を得、またそれを豊かに持つためです。』(ヨハネ10:10)と語られました。

「プシュケー」の肉体的いのちはすべての人が持っています。しかし、根源的・霊的ないのちである「ゾーエー」はイエスさまによってのみ与えられます。

今、しばし祈りながらこの文章を書いていますが、祈りによってイエスさまと交わる中で、「ゾーエー」のいのちが注がれるのを感じています。

今日、疲れていないですか?

イエスさまは、『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37~38)と招いておられます。

枯れ木のようになった私に、いのちが注がれ、息を吹き返し、花が咲くように元気を取り戻しつつあります。

どんなに休んでも、どんなに楽しい時間を過ごしても、人には、肉体のいのちが尽きてもなお生き続ける「ゾーエー」のいのちが必要です。

「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われた「川」は、枯れた水無し川(Wadi・ワジ)を意味します。イスラエルには、そのような水無し川が無数にあります。雨が降った時に鉄砲水のように水が流れて来ます。

私たちの心は、枯れ切った水無し川のようになっていたとしても、そこから、「ゾーエー」のいのちの水が流れて、潤すだけではなく、溢れて、流れ出るようになるのです。

今日は、心底枯れ切った状態になりましたが、イエスさまを通して、生ける水が心の奥底から流れることを経験しています。

私に取ってのGWは、前半がボランティア活動に使い、後半は仕事に没頭しました。少し無理をしたようです。

枯れ切ってしまいましたが、再びいのちによって潤されました。

みなさんにも、このいのちを経験してもらいたいです。

今日もありがとうございます。
新宿復興教会牧師 出前の管ちゃん先生(菅野基樹牧師プログより)
 
 

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