浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

語り継ぐべき日本の誇り(アイデンティティー)

2014-12-07 12:41:56 | 資料

大陸の動乱と遣唐使の廃止

2014/09/21   草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN

 平安朝では学問も進み、戦乱の続く中国大陸から学ぶべきものは残っていなかった。 

■1.「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」

平安時代を支えた藤原氏の英智」[a]では、天変地異がうち続く中でも、人口増を支えた藤原氏の奮闘を描いたが、内乱のうち続く大陸との縁を切って、遣唐使を廃止したことも英断の一つであった。

 自由社の歴史教科書は「9世紀に入ると唐がおとろえた。朝廷は菅原道真の意見を取り入れて、894(寛平6)年に遣唐使を廃止した」と述べ、「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」と題するコラムで、次のような理由を挙げている。[1,p68]

(1) 中国では内乱が続いている。
(2) 遭難が多く、国家有為の人材を失う。
(3) 日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない。
(4) いつのまにか朝貢のようにあつかわれており、国の辱(はずかしめ)である。
(「菅家文集」より)

 遣唐使廃止は、わが国の文化的独立を象徴する歴史的な事件であり、その廃止を提唱した菅原道真の説明を記載している点は優れた配慮だが、ここの所はもう少し背景の説明が必要だ。

■2.「唐や新羅の商船を利用して」

 同じ遣唐使廃止を東京書籍版はこう説明する。

東アジアの変化と遣唐使の廃止 その後も多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来しましたが、唐では国内が乱れ、9世紀にはその勢力が急速におとろえたため、日本は長く続けてきた遣唐使を廃止しました。

 唐は10世紀のはじめにほろび、やがて宋が中国を統一しました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり、新羅をほろぼしました。

 日本は、宋や高麗とは正式な国交を結びませんでしたが、両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました。[2,P42]

 自由社版よりはやや精しく中国大陸や朝鮮半島の情勢が書かれているが、よく読むと、巧みなトリックによる偏向記述が隠されている。

「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来し」たというのは、事実だが、その後、遣唐使廃止の文を続けているために、あたかも遣唐使も「唐や新羅の商船」を使ったかのように誤解してしまう中学生もいるだろう。

 遣唐使船が日本の船である事は、Wikipediaの「大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の『住吉大神』を船の舳先に祀り」という記述[3]からも明らかである。

そもそも大和朝廷は、すでに3百年以上前の663(天智2)年に、朝鮮半島の白村江の戦いで400隻もの軍船を送っているほどの造船・操船技術を持っていた。[b]

 なのに「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して」というのは、大陸や半島の戦乱から国内を守るために、大和朝廷が半鎖国政策をとって、日本の商船の渡航を禁じていたからである。

■3.戦乱うち続いた中国大陸と朝鮮半島

 東書版では「唐では国内が乱れ」「宋が中国を統一しました」とか、「朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり」などと、さも平和的な政権交代が起こったかのように記述しているが、当然、王朝交代には激しい戦乱がつきものであった。

 唐は907年に滅びたが、その末期には859年、868年と内乱が続き、874年から884まで10年も続いた黄巣の乱は全国に波及した。菅原道真が遣唐使廃止を提唱した理由の第一に「中国では内乱が続いている」とあるのは、この事である。

 唐の滅亡後は、907年から960年の半世紀もの間、華北では5つの王朝が興っては滅び、また華中、華南では10カ国もの地方政権が割拠したため、この時代を「五代十国時代」と呼ぶ。

 一方の新羅は唐との対立から長らく日本に従属し、朝貢する関係にあった。752(天平8)年には新羅王子が7百余名もの新羅使を伴って朝貢した。しかし、その北に渤海が興り、唐との戦いを始めると、新羅は唐に接近して、渤海を攻撃する。

 唐との関係が良くなると、新羅は日本に無礼な態度をとったり、また国内が混乱すると、慇懃な態度に戻ったりと、その節操なき外交姿勢は現在の韓国・北朝鮮と同様であった。

 そして新羅の国内情勢が悪化すると、人民の一部が日本に亡命してきたり、賊と化して対馬や博多を襲ったりした。朝廷は842年に新羅人の入国を禁じ、流民は食料を与えて帰国させ、商人は交易終了後、直ちに帰国させることを命じた。[3,p150]

 内乱が続く中で、892年に南西部に後百済が興り、901年には北部で後高句麗が建てられて、3国が争う時代に入る。そして後高句麗が政変により高麗となり、後百済、新羅を亡ぼして、ようやく半島を統一したのは936年であった。

 10世紀前半は大陸も半島も、このような戦乱の最中にあった。

大和朝廷が、遣唐使をやめ、半鎖国状態をとったのは、こういう国際情勢からだった。平安時代には、まさに平安のうちに国風文化が花開いたが、その結果から見ても半鎖国政策は正しかったと判断しうる。

■4.宋から輸入品

 東書版は、遣唐使廃止後も「両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました」という。あいかわらず「先進地域から文明を学んだ」というふうに読めてしまうが、実際はどうだったのか。

 大陸で群雄割拠した10国のうち、揚子江の下流、東シナ海に面した呉越国は他国よりも平和だったために産業や文化が発達し、海外貿易も盛んで、わが国にも936(承平6)年以降、数回使者を送ってきた。

また、この地方に960年、宋王朝が興り、半世紀ぶりに大陸を統一した。

 宋の商船はしきりにわが国に来航して、12世紀の半ばまでの約2百年間に70回以上に達した。朝廷は宋船の来航を制限する法令も出したが、貿易の利益を狙う宋の商人は太宰府の管理する博多港をさけ、越前の敦賀などに密入国までした。

 日本が「文物を輸入した」というのは史実の半面で、日本からの輸出品で大儲けできるから、多くの宋船がやってきたのである。宋の商人が持ってきたのは、絹織物、香、薬品、陶器、文房具、書籍など、平安貴族が珍重する贅沢品が多かった。

 輸入されたのは中国の文物に限らない。ペルシャ産のガラス器やインド、東南アジアからの香木、染料、薬物なども唐を経由して輸入された。宋は当時の国際貿易ネットワークの中心であった。

宋の商人から輸入したと言っても、「中国の進んだ文物を輸入した」とだけ理解しては一面的である。

 また、東書版は何かと朝鮮を引き合いに出す習性をここでも見せて、わざわざ高麗商人の活躍も記載している。

 しかし、たとえば『日本全史』は「古代世界を結ぶ物流のネットワーク 輸入された文物」という見開き2ページの記事で、世界各地からの様々な舶来商品を紹介しているが、そこには朝鮮産の商品は登場しない[4,p150]。

朝鮮は地理的な利点から仲介貿易には関わっても、平安貴族が珍重するような文化財は産出していなかったようだ。

■5.宋の商人が求めたもの

 一方、宋の商人がわが国に求めたのは、金・銀・硫黄・水晶などの鉱産物、絹、布などを中心として、金銀蒔絵(まきえ)、漆器類、扇・屏風・刀剣などの工芸品も珍重された。日本が一方的に「文物を輸入」したのではなく、互いの文化財を交換したのである。

 1073(延久5)年、宋の第六代皇帝・神宗は、渡来していた日本僧の帰国に際して、大和朝廷あての正式の国書と贈り物を持たせて、国交を開こうとした。しかし朝廷は国交再開には消極的だった。

 宋との貿易は貴族の珍重する贅沢品が中心で、これ以上、拡大しても国益が増進するはずもなく、また宋が統一したとはいえ、いつまた動乱に戻るかも知れない大陸に関わっては、国内の平和が脅かされる恐れもあったからだろう。

 日宋貿易とは言っても、宋の方が熱心で、日本の方が消極的だったという史実を見れば、「文物を輸入しました」というより、「日本の文物を求めて、朝廷の半鎖国政策もものともせずに、宋や高麗の商船がやってきました」と書いた方が正確だろう。

■6.日本から仏典を逆輸出

 遣唐使廃止の理由の第3に「日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない」という点も、国史を学ぶ上で重要なポイントだ。國學院大學名誉教授の樋口清之氏は『うめぼし博士の逆・日本史3』で、こう語っている。

 遣唐使制度が始まってからわずか十数回も往復しただけで、平安初期には、すでに中国の文化・文物の大部分が日本に輸入されてしまう。仏教経典の全集というべき大蔵経も来てしまった。大蔵経とは、三蔵法師が天竺(インド)から中国へ持ち帰って漢訳した仏典のことである。[5,p105]

 日本があらかたの仏典を持ち帰ったのに対して、中国では五代十国の戦乱で、多くの文献が失われたようで、宋代に渡った日本人僧は逆に多くの書籍を持っていった。

1003年(長保5)年に入宋した天台宗の僧寂照(じゃくしょう)も多くの書物を持っていったが、そのうちにも宋ではもはやみることのできなくなったものもあって、その一部はかの地の僧の手によって出版されたという。

成尋(じょうじん)は天台宗や真言宗関係の経典6百巻以上をたずさえて渡宋したが、これもかの地では貴重なものであったらしく、神宗に献上されている。[5,p155]

■7.中国以上に進んでいた我が国の仏教学

 半世紀もの戦乱で多くの書物が失われたということは、焼かれた寺や殺された僧も多かったであろう。そんな動乱の中で仏教研究が進むはずもない。

逆に平和な日本では、買い集めた仏典で研究に没頭することができた。宮内庁書陵部の橋本義彦氏は日本の僧が入宋に際して、書物を持っていった事に関して、こう述べている。

 こうしたことは唐代までは見られなかったできごとで、わが国の仏教学が中国と対等、あるいはそれ以上の地位まで進んだことを語っている。[5,p155]

 その実例として氏は、源信(942-1017)の著した「往生要集」が中国に送られ、多いにもてはやされた、という事実を挙げている。

 また、上述の成尋の旅行記では、多くの学僧と会った話はあるが、教えを受けた様子はなく、かえって法華経の講義をしたことが書かれている。[5,p156]

 寂照は宋に在ること三十余年でかの地に没したが、その間第3代の皇帝真宋をはじめ朝廷の人々に深く敬愛されたという。[5,p157]

 しかし、それではなぜ日本僧たちは、はるばる波濤を超え、危険を冒して大陸に渡ったのか。彼らの目的は中国仏教の研究や、典籍の輸入ではなく、天台宗の根本道場である天台山に詣でたり、文殊菩薩があらわれるという霊場五臺山に巡礼することだった。

 たとえて言えば、中世以降の欧州のキリスト教徒が聖地エルサレムに巡礼をするようなもので、そこで何を学んだかという事よりも、苦難を乗り越えて、そこに行く事自体が修行だった。その求道心は立派である。

■8.大陸で活躍した日本人

 大陸に渡って活躍した日本人を見ても、日本の文明の程度がすでにひけを取るものではなかった事が分かる。

 弘法大師・空海は804(延暦23)年に遣唐使の一員として入唐した。船が目的地のはるか南の福州に到着した為、地方の役人が怪しんで都への出発許可を与えない。

空海は遣唐大使の代理として福州観察使への手紙を書いたが、観察使はあまりに見事な漢文に驚き、ただちに疑いを捨てて、出発を許した。[6,p107]

 長安ではインド仏教の流れを伝える最後の高僧・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡り会った。死期の迫っていた恵果は空海を見るや「われ先より汝の来たるを知り、相待つこと久し」と喜び、

千人以上もいた弟子たちを差し置いて、ただちに密教の秘法をすべて空海に授けた。こうしてインド密教の正統は、日本に伝えられたのである。[6,p117]

 留学生として有名なのは、奈良時代、717(養老元)年に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)である。唐で科挙に合格し、高官にまで出世し、李白や王維ら当時一流の文人たちと交際し、彼らに引けをとらない漢詩をつくっていたという。

 在唐35年にして、一度は帰国を許されて遣唐使の帰国船に乗り込んだが、ベトナム中部に漂着し、唐に戻った。帰国船に乗り込む前の送別会で、王維ら友人を前にして日本語で詠ったとされているのが、百人一首に選ばれている次の歌である。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

 同じ天の原の月に照らされている、はるか郷里の山を偲ぶ切々とした望郷の思いが伝わってくる。こういう歌で、遣唐使として渡唐し異境に客死した先人の心を偲ぶことは、中学生の情操教育にも良いだろう。
(文責:伊勢雅臣)

http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-6281.html

◆カタカナの起源

日本は奈良の僧徒たちが、仏典の漢文訓読のために補助的な符号として用い始めたものが発達を遂げ、今のカタカナへと発展しました。 

僧徒たちは、漢文の助詞や送り仮名を行間や字間など狭い場所に書き込むために字画が少ないことが必要で、漢字の一部だけをとったもので出来るだけ字画を省略していました。しかし、省略の仕方が一定せずに多くのバリエーションが生じていたのが、平安時代の中期になって字体が統一されて今日の「カタカナ」になったのだそうです。

仏教関係の文書など、実用を旨として美的な表現を目的としないものだけに使われていたようですね。
現行のカタカナの字体は1900年(明治33年)の「小学校令施行規則」で確定しています。

朝鮮語は15世紀半ばまでそれを表記する固有の文字を持たず、口訣(こうけつ)・吏読(りとう)など漢字を借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきました。
当然難しい漢字を崩して簡略的に書いていたということで、日本も同様です。

しかし李氏朝鮮では漢文は両班のみに留まり、中、下級官吏は漢字の音と訓を利用して朝鮮語を表記する吏読(りとう)方式でした。
吏読では名詞・動詞語幹などの実質的部分は主に漢語が用いられ、文法的部分に吏読が主に用いられます。
より簡略に書こうとすれば、当然日本がカタカナを作る段階の簡略化と似たものになって当然です。

ですから、カタカナの起源が朝鮮半島というのは全く見当違いです。朝鮮では、むしろ難しすぎて漢字を使いこなせなかったために、いい加減な文字で誤魔化していたと言うことになります。
両班以外は教育すらされず、この出来損ないの簡略漢字すら知らなかったのです。

◆太秦と秦氏

ブログ「服部堂」より

京都の西に太秦(うずまさ)という所がある。
国宝で知られる弥勒菩薩半跏思惟像というとても
綺麗な仏像がある広隆寺の前の交差点の名前だ。

その太秦には伊佐良井(イサライ)という地名がある。
「扶桑京華志」(寛文5年 松生元敬著)に

「伊佐良井 太秦村ニ在リ。深ノ事ハ知レザル和歌有リ」と

書いてある。

太秦の地名の由来は、古代ユダヤ古代ヘブライ語の「ウズ」(光)、
「マサ」(賜物)が語源であるなど諸説あるが、太秦=聖徳太子+秦氏と
なっているのにも大きな意味がありそうだ。

太秦にある広隆寺は、秦氏と聖徳太子を結びつける重要な寺だ。
ちなみに僕は数年前に広隆寺に呼ばれ、1日中仏像の前で
瞑想したことがある。

秦氏と広隆寺のつながりは以下の通りである。

1.広隆寺
太秦にある広隆寺は、渡来人系の豪族秦氏の氏寺であり、
太秦寺という別名がある。建立したのは秦河勝

2.弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩(国宝 宝冠弥勒)は新羅から渡来したものと
言われている。秦氏は渡来人である。

3.十戒
古代ユダヤのモーセの十戒・・・ユダヤ期限の秦氏とのつながりがある。

聖徳太子と広隆寺のつながり

1.広隆寺
広隆寺の本堂 上宮王院太子殿の本尊は聖徳太子像である。

2.弥勒菩薩
広隆寺の弥勒菩薩(泣き弥勒)。
「宝冠弥勒」と同様のポーズをとるが、やや小さい。
日本製と言われている。・・・聖徳太子を模したと言われている。

3.十善戒
広隆寺の十善戒・・・聖徳太子

ここで、十戒と十善戒を比較してみる。

広隆寺の十善戒とモーセの十戒

広隆寺の十善戒           モーセの十戒
不殺生 (殺さない)        殺人をしてはいけない
不偸盗 (盗まない)        盗んではいけない
不邪淫 (邪淫しない)       姦淫をしてはいけない
不妄語 (嘘をつかない)     偽証してはいけない
不慳貪 (欲張らない)       隣人の家をむさぼってはいけない
不両舌 (二枚舌を使わない)   ヤハウェが唯一の神である
不綺語 (お世辞を言わない)   神の名を徒らに取り上げてはならない
不瞋恚 (怒らない)              安息日を守る
不悪口 (悪口を言わない )    父母を敬う
不邪見 (不正な考えをしない) 偶像を作ってはならない
(偶像崇拝の禁止)

十善戒は聖徳太子に縁のある広隆寺の境内に書いてある。 秦氏は、ユダヤ教、原始キリスト教、景教に関係があると言われている。
十善戒は聖徳太子が作ったものではなく、
古くからある仏教の教えである。

聖徳太子の十七条の憲法は肯定文で何かをするように
指示されているのに対し、十善戒は「何々するな」と
否定語で書かれている。

十七条の憲法が聖徳太子の作だとすれば、十善戒の文面は
聖徳太子に似合わない。
その十善戒が広隆寺の境内に書かれているのは、
聖徳太子以外の何者かの考えがあった事を推察させる。

いずれ明らかになることと思うが、太秦という地名に加えて
広隆寺周辺にはこうした不思議な話がたくさんある。
またいずれ訪問することになると思うが、半跏思惟像は
すばらしい作品なので、一度ご覧になっていただきたい。

http://13131313.com/archives/2011/05/%E5%A4%AA%E7%A7%A6%E3%81%A8%E7%A7%A6%E6%B0%8F.html

◆裏天皇の漢波羅秘密組織「八咫烏」とは何か?

 一般的には、「日本最古の秘密結社」と言われているが
最古の歴史を誇る日本、「世界最古の秘密結社」と言えるのではないかと思う。

 熊野那智本宮大社

 「八咫烏」とは、生まれもって戸籍に入る事を免除され法律上は存在していない事になり、日本国民でもない。

 八咫烏とは、神武天皇以前に既に奈良にいた「もう一つの天皇家」のことである。同じ天皇家だったから八咫烏から現在に繋がる天皇家への国譲りが出来た。遡ると邪馬台国の卑弥呼の時代から既に彼らはいた。
八咫烏の正体は物部氏である。物部氏とは、中国の秦始皇帝の命を受けた除福が連れてきた技術者集団であり、それが若狭湾など複数の地点から上陸してきた。そして、神武天皇への国譲り以後は裏天皇として存在を維持することになった。これが八咫烏である。

八咫烏の主な役目は何かというと、祭司にのみ関係している。祭司を教授する組織が八咫烏である。
皇太子が後を継ぐときになされる大嘗祭は京都で行われる可能性が高い。
天皇がやるべき儀式、そして天皇の目的、天皇が将来的に何をするかという預言、それらを司るのが八咫烏である。天皇家の京都への移動も八咫烏が決めている。もし、天皇家に男子が出生しなかった場合でも、八咫烏の家系から男子を連れてくる。(物部系の天皇に入れ代わることになる。)
神武天皇以降の天皇家は基本的には秦氏系である。ルーツはどちらもユダヤだから大きな違いは無い。

八咫烏は現在70名いる。その上部組織は12名からなっていて、「大烏」と呼ばれている。さらに、その中で最高位に立っているのが3人の金鵄がいるという構図である。金鵄は天皇に代わって祭司を行ってきた裏天皇であり、建国以前から日本史の秘密を全て握っている存在である。
これは、イエス・キリストの12使徒の構造と全く同じだ。

彼等は全員が「漢波羅」とよばれる迦波羅(カバラ)の達人で陰陽師でもある。

そして八咫烏(物部氏)の正体は、イスラエル12支族に属さない祭祀を司っていたレビ族の末裔=モーセの末裔になる。
イスラエル12支族の象徴の「鳥」から、一抜けて「烏(カラス)」になりイスラエル12支族からの脱退を意味する13番目に位置する支族である。
「八咫烏」とは、西洋でいうフリーメイソンのことでフリーメイソンの原型が「八咫烏」なのだ。

そして、日本は神国で、世界の雛形国。
日本が崩壊すれば、世界が崩壊すると言われているが日本を支配している裏天皇は、世界をも支配していると言える。

八咫烏というのは物部氏だから、天皇家を裏から支えているのは物部氏ということになる。伊勢神宮の内宮や外宮を裏で支えているのは伊雑宮(いざわのみや)という物部系の伊勢神宮であり、京都においても天皇を守っていた下鴨神社と上賀茂神社を支えているのは物部系の河合神社である。

伊勢神宮は現在地に鎮座するまで、90年かけて候補地を転々としている。それを元伊勢(もといせ)というが、その元伊勢の中でも最重要な存在が籠神社(このじんじゃ)である。これは、特別に本伊勢(ほんいせ)とも呼ばれている。
籠神社の裏社紋がユダヤのシンボルであるダビデの星である。

物部系の神社はユダヤの旧約を守っていたから血の儀式をやっていて、牛などを生贄(いけにえ)に捧げていた。ところが、秦氏系の神武天皇の後からは血の儀式を止めるようにお触れが出て、今は何処もやっていない。

八咫烏と対抗するために置かれたのが「忍(しのび)」である。それを造ったのが聖徳太子のブレーンとされる秦河勝である。物部氏の八咫烏に対して、秦氏は忍を置いた。甲賀や伊賀といった忍者の里は、八咫烏の領域の真ん中辺りに置かれている。聖徳太子の正体は秦河勝であり、秦氏が忍者を創設したことになり、全ての辻褄が合う。

 八咫烏は政治を一切やらない。日本は基本的に秦氏と物部氏との間のバランスで成立してきた。物部氏は裏に回る約束だった。しかし、時々暴走する物部氏が出てくる。
「カゴメ唄」の本当の意味は、カゴメ唄の中にある言葉が出てきたら、日本をがんじがらめにしている封印が解ける。籠神社の宮司が口にしたら、一気に事態が進む。まず、熱田神宮から伊勢神宮に草薙の剣が移管される。そして、三種の神器が揃った伊勢神宮は、いよいよ防衛態勢に入る。籠神社の宮司の一言があると、その「がんじがらめの鎖」が全部外れてしまう。それは2015年以降に起きても良い。起きなければおかしい。

諏訪大社は物部系である。諏訪大社の筒粥神事(つつがゆしんじ)で、2011年は「かってない出来事が起きて、春に日本は足をすくわれる」という結果が出た。実際に起きたのが3・11の東日本大震災だった。占いでは「三分五厘」であり、主から絶たれるという意味である。
2012年の筒粥神事は「三分六厘」だった。一厘増えたけど、これは「日月神示」のいう神一厘つまり、土壇場で大逆転をもたらす一厘である。一厘の意味が誰も分からなかったが、いよいよ見えてくる。隠された一厘の姿が現す・2015年を境にして全てが入れ代わる。これからは日本中心に世界は動く。日本はイスラエルの三種の神器が揃っている「ユダヤの中のユダヤ」であり、聖書の民が日本人だから、当然日本中心に世界は動くことになる。

*2014年の筒粥神事は3分6厘で世相は明るい兆しが見られるという。権宮司によると「今年の前半は安定し、事を起こすなら早い方が良い。後半は石橋を叩いて渡る気持ちが必要である。」と話している。

日本の外宮にヤハウェがいる。だから、まず日本で事が起きる。そして世界に波及していく。物部氏に主権が戻る。物部氏が真実をオープンにすると日本のいろんな仕掛けが全部はじけ飛ぶ。八咫烏も象徴ではあるが世に出る。

というのが「八咫烏」の真実である。


なんともファンタジーに富んだ興味をそそられる伝承ではないか。

◆日本の武術の精神

石坂 哲朗氏(FBより)

日本の武術は他の国の格闘と異なり、技術的にも精神的にも「護る・守る・衛る」と言うものがベースにある。
そして「勝利の定義」が、ただ殺戮と言う結論に達せず大変高尚な哲学に裏付けられているのだ。
現代社会においての争いにも大変通ずるものがある。
民事事件の場合、敵の財産が移動されないうちに、仮差押を打つ。
そしてあまたの証拠をそろえ法廷での準備をして、提訴したり、準備を整えて示談交渉をしたりする。
決裂すれば裁判と言うわけだ。
悪質な相手であれば、「刑事告訴」を付加しておく。
財産を隠蔽してもこれをすることにより刑務所生活を免れる為、取り下げを条件に金を支払う。
(外堀から埋めて戦にのぞむ訳だねー)
これを武道では「布陣」と言う。
スポーツと武道の違いはまさしくここにある。
ルールに守られたゲームに勝利する事を目的とするか、社会の場で勝利する心構えを培う為に修行するものかに大きく分かれるわけである。
(みんな知っててやってるのかなー)
しかし現在心無い指導者が多く、欧米ナイズされ競技に走る「優勝至上主義」傾向は止まる事が無い。
勝って泣いたり、負けて泣いたりの御祭り騒ぎで とても武道と呼べる代物でないものが蔓延しているのだ。
国際社会における紛争は「示談」これが「外交」にあたる。
そして「民事訴訟」は「国際司法裁判所」であり、「刑事訴訟」は「軍備」に相当するものである。
「惻隠の情」を持つ我が国民の持つ裁判所でさえ常に大賑わいの中、文化を異にする外国との争いを「示談」のみに頼り「刑事罰」を放棄させられ、我が国はそれを改めず、良い外交が出来る道理が無いのだ。
( 外務省もやる気なくなってんじゃあない?)
江戸時代まで「日本刀」と言う武力を帯刀し、いつでも死ぬ覚悟で切腹の為の「脇差」を持ち歩き、毅然とし礼儀を重んじ交渉をする凛とした武士の姿。
この様な血の通っている我が大和民族が侵略戦争など起こす事は皆無である。
いい加減外国から押し付けられたまやかしの歴史観を捨去り目覚めの一歩を踏み出す事。
これが私流の「武術の真髄」の序章である。
櫻満開の中こんな話の花も咲かせて頂きたいと切望する。
( いしざか てつろー )
シェア · 3月25日

◆ 『君が代』

『君が代』の原歌は古今和歌集の賀歌に出てきますね。
長寿を祈る歌です。

「私の敬愛する人よ、
千年も八千年も、
小さな石が巨岩となって、
さらにその表面を苔が覆うように
なるまでの永い歳月を、
どうか息災でいて下さい」

という、君が代の「君」…
つまり、親、兄弟、恋人、仲間など、
『愛する人の長寿』を願う歌です。

これのどこが軍国主義の象徴なのか?
日教組の石頭に説明して欲しいですね。

◆日本神話よ復活してくれ!

イギリスの高名な歴史学者「アーノルド・J・トゥインビー」は「12・13歳までに自国の神話を学ばなかった民族は例外無く滅ぶ」と述べている。
 誰が「日本神話を奪ったか知ってますか?」それは「連合国総司令部GHQ」です。日本人の凄まじいばかりの精神性の高さに恐れを成したGHQは「神道指令」を発令し「宗教、神話としての神道」を奪い去りました。「古事記」「日本書紀」を「史実ではなく非科学的だ」と教えさせる事を止めさせた。「アレ〜ッ」実に変だ。GHQの中心的国家米国は大統領の即位式に、今でも聖書に手を置き宣誓する。その聖書は史実で科学的なのか?ノアの箱船、マリア処女生誕と奇跡のオンパレード、とても史実、科学的とは思えない。ダブルスタンダードも甚だしい。
 かと言ってGHQ、米国が悪いとは思っていない。負けた国を貶めるのは当たり前。ましてや高貴なる日本民族の精神破壊は徹底せざるを得なかっただろう。敗戦後70年近くも「邪悪な破壊工作」を、そのまま受け入れる現在の日本人の問題だと個人的に思う。

 池間 哲郎氏 Facebookよりシェア

◆【日本はなぜ世界の奇跡なのか。日本の素晴らしさを語れる日本人になろう】

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」より

「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

台湾で医学と教育学の博士号を持ち、台湾の元国会議員であった許國雄(きょこくゆう 1922~2002)さんが、平成9年に東京の教育会館で挨拶をされた時に「日本人の大切な忘れもの」としていきなり「天壌無窮の神勅」を朗誦しました。

豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。よろしく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわまり)りなかるべし。

この朗唱には会場の方々が大変驚きました。戦前の修身の教科書にはこの神勅が書かれており、昔の小学生は読んでいましたが、戦後日本人はほとんど知りません。
戦前教育の日本人の方もすっかり忘れていたことを台湾人の許さんが暗誦したのです。許さんはこう続けました。

「いかなる国でも国家の永続性を願うものだ。秦の始皇帝も万代に続くことを念じていたが二代で終わってしまった。ヒトラーも『ドイツ民族数千年の将来は約束された』と豪語していたが11年で滅びた。マルクス・レーニン主義のソ連は千年の共産社会と呼号していたが74年で消滅した。

世界史を眺めれば、漢は前漢と後漢を合わせて400年、唐は300年、明も清も300年。朝鮮には高麗や李氏朝鮮のように500年を保った。ヨーロッパにもいくつかある。
しかし、彼らは日本の天皇朝の永続性にははるかに及ばない。これは『神勅』にあるようにまさに『天壌無窮』なのだ。世界の奇跡と言ってもよい。なぜ日本だけがそのようなことが起こったのか」とお話をされました。

日本は初代神武天皇即位から今年は2674年(皇紀)。125代の皇統が連綿と続いているのです。しかも万世一系の男系です。これは日本が誇る「世界の奇跡」だと断言されているのです。

ご存知の通りかつて満州国がありました。その皇帝・溥儀は昭和10年4月に日本を訪問する時に、日本の戦艦・比叡に乗り、三隻の軍艦に護衛されて横浜に入港、その時に帝国海軍の艦艇70隻が溥儀の目の前で演習し、溥儀は痛く感激したのです。

天皇陛下と明治神宮に参拝し、とりわけ溥儀を感動させたのは貞明皇后の温かいおもてなしでした。日本訪問で君民一体の国柄と皇室の伝統と気品と威厳に魅せられて、満洲に帰国後もその感動はおさまらなかったといいます。

その溥儀が戦後、東京裁判で「満洲の責任はすべて日本にある」「自分は日本の傀儡だった」とソ連監視下のまま発言し、撫順戦犯収容所ではシナ共産党の思想改造や人間改造を受け入れ、生きのびるために自身を家畜の如く振舞う姿は、かつて王座にあった気品も威厳のかけらも見られませんでした。

これは終戦の昭和天皇の態度とは全く違いました。昭和天皇は戦争の責任をわが身が負い、自分の命とひきかえに多くの日本国民を救う覚悟でマッカーサーと対峙されました。マッカーサーは勝者でありながら、陛下の気迫におされ、圧倒されたのです。
「今回の戦争の責任は私にある。そして日本人は今飢えている。私はどうなってもかまわないが将軍の力で日本国民を救ってほしい」。

日本はなぜ「天壌無窮」であるのか、陛下はつねに身をもって示されているのです。

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33134298.html

日本人が知らない日本のアイデンティティー

玉鋼(たまはがね)は、日本刀などに使われる鋼で、飛鳥時代の釘なども玉鋼だそうです。

今の鉄は、近代になって西洋から伝えられた製鉄法(鉄鉱石を高温のコークスで溶かして作る)で作られます。これに対し玉鋼は、砂鉄を木炭を使って低温で還元して製鉄する「たたら製鉄」という方法で作られます。低温で製鉄することにより不純物が鉄の中に混ざりにくく、中から錆びてこないのだそうです。

西岡棟梁が「今の鉄は百年しかもたない」というのは、このことです。それに対し、かつて法隆寺などに使われた釘は、千年もっています。素晴らしい伝統の技です。

いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興 されたとの説になっています。 
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。
当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。 
 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます。

 海外の方と多く接すると、みなさん日本文化ってわかりにくいという。よくよく聞くと、一般的日本人が自国の歴史を教養として持っておらず、日本人のアイデンティティーがつかみにくいのだそうだ。日本文明を自覚しながら世界的活躍をされている日本人の瑞々しい感性を、海外の人達は求めているのでしょう。

 戦後の日本はGHQによって思想の改革や焚書など、ありとあらゆる形で日本文化を否定されてきたために、日本人が自分の国の歴史を正しく勉強することを阻害されてきました。メディアしかり、日教組しかり。それが現代でも延々と続いているのです。

日本の大学から地政学科が消え、日本が世界においてどのような役割を持ち、どれほどの影響力を持っているかなど、またその原因は日本人としての知らず知らずに受け継がれてきた伝統や技術やその思考経路なども、突き詰めて考えることも今はありません。

 しかし、東日本大震災でも世界が感じたように、もし日本が無かったならば、世界経済やモノの生産がどれほど甚大な影響を受けるかが良く分かっただろうと思います。それを、肝心な日本人自体が自覚していません。また、その日本人のアイデンティティーがどこから来るものなのかを、分かっていないのだろうと思います。

 口では、日本の政府に歴史の検証を求めながら、自分自身では何一つ進んで知ろうとして来なかった、戦後ずっと続いた他人任せの気風が今も続いているからに他なりません。これこそがGHQの思う壺といったところでしょう。

 現代になって若い女性達が日本の立場や、特亜と米国の日本に対する理不尽なまでの破壊に目覚め立ち上がったように、次々と新しい動きが芽生えて来ました。言い過ぎかも分かりませんが、まさに母性の持つ民族の種に対する本能と言いましょうか危機感が、女性の方に強いのだろうと思います。それに引き替えなんと草食男性の多さよと嘆いている暇はもう今の日本には無いのだろうと思います。

日本の国の素晴らしさ、日本人のもって生まれたアイデンティティーを良く知り、日本人の誇りと伝統を受け継ぐことが、また日本という国の繁栄に繋がり復興の狼煙となることを信じます。    

                目覚めよ日本!


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