浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

歴史を知らない国の崩壊は必然的に訪れる

2015-07-08 07:20:29 | 資料

韓国の「百済歴史遺跡地区」 世界遺産への登録決定

2015/07/04 聨合ニュース

【ボン聯合ニュース】ドイツ・ボンで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は4日(現地時間)、韓国が推薦した「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録することを決めた。

 百済歴史遺跡地区は百済の古都のうちソウルを除く忠清南道の公州・扶余、全羅北道・益山にある8遺跡で、公山城、扶蘇山城、定林寺跡、弥勒寺跡などが含まれる。今回の登録により、韓国の世界遺産は12件に増えた。

 百済歴史遺跡地区は六つある世界文化遺産の登録基準のうち、「ある文化圏内での価値観の交流を示すもの」と「ある文化的伝統や文明の存在を伝える唯一、または少なくとも希有な物証」の二つを満たしている。

 具体的には、韓国、中国、日本の古代王国間の交流によって百済が成し遂げた建築技術の発展と仏教の広がりを示すものと認められた。

 また、仏教寺院、城郭と建築物の下部構造、古墳と石塔などにより百済の歴史、来世観と宗教、建築技術、芸術美を示し、百済の歴史と文化の優れた物証であると評価された。

 韓国文化財庁は、このほかにも遺跡保護に効果的な法律と保存政策、遺跡地での体系的な管理により、保存状態が良好な点も高評価につながったと説明している。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2015/07/03/0800000000AJP20150703002700882.HTML

韓国人は100喋れば90は嘘で残り10は勘違い

まずハッキリしていることは、百済は朝鮮人とは全く関係のない国だったと言うこと。
中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」。
このどこに朝鮮人が出てくるのか?
「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいる。
しかし、百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下した。
大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っている。当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下した。
具体的には、在原業平などがそうである。
在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女だ。
在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたる。
祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違い。
天皇家に百済系の血は桓武天皇の母親が200年前に来た百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠(たかののにいがさ)」だけである。
桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されている。
天皇家に血を分けた百済系帰化人は200年前に日本に来て第6代混血を繰り返した「高野新笠」一人だけだ。しかも百済系と言っても倭人も漢人もいた。「倭人が頗る多い」と中国歴史書に書いてある。皇族との縁組みでは漢人は考えられず、倭人の可能性がより強いだろう。朝鮮系の名前すら出ては来ない。
そして、帰化して200年日本人と6代混血を繰り返しても純粋な異邦人であろうか?倭人と日本の混血と言っても200年経てば日本人だろう。まして、倭人と日本人はどう違うということになる。
百済が滅んだ後に朝鮮人が住み着き、日本独自の墳墓の前方後円墳の意味さえ分らず近年まで来た。
だから、百済の遺跡は日本の歴史でもある。勝手に朝鮮人が自分たちの文化としてユネスコに登録したが、日本が何故協力したかの意味さえ分らず勝ち誇っているだけである。

◆日本刀

韓国系移民が運営する世界各地の武術道場などで韓国古来の剣として使用している。また、刀剣職人のホン・ソッキョンらが、「日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承している」「我が国の刀剣技術は三国時代と朝鮮時代、日帝時代を経ながら、刀剣職人がほとんど日本に連行されてしまった」「元々、我が国の伝統刀剣製作技術は世界的なものであり、刀剣技術者を無差別に捕えて連れ行ったことはよく知られた事実だ」、「日本には我が国が使った正統技術がそのまま伝授されていて、今でも良い刀がたくさん出てきています」などと主張。「韓国刀の原型を取り戻すために日本に学びにいく」とまで主張している。

★日本刀のルーツ ~それは東北~

2015年05月01日 渓流詩人の徒然日記

日本刀の源流は東北地方の蝦夷(えみし)の刀剣にある。

<日本刀の成立過程>

上から、蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形刀→毛抜形太刀

古代末期、国内統一を狙う大和朝廷は、九州の反抗勢力は「クマソ」、「ハヤト」と呼び、関東から東北の勢力を「エミシ」と呼んだ。
こうした中央王権の外を見下して呼称する賎視は今でもヤマト王権があった上方では根強く残っており、東日本の人々を「東戎(あずまえびす)」などと呼び野蛮と見なす自己優性意識がある。これらはすべて、中央王権のある地こそが天下の中心であり、それ以外は夷狄(イテキ)であるとする植え付けられた「作られた」発想に基づいている。
己の神のみを唯一絶対とし、他を武力で制圧して征服する。
古代日本の王権は現在のイスラム国の論理と同質の手法で列島を「統一」した。
ただし、出雲など侮りがたい巨大勢力に対しては、武力衝突を避け、「国譲り」の懐柔作で領土と統治権を手中にした。
だが、東北に対しては、アテルイに対して為したように、あるいは平将門を落としたように、狡猾な騙し打ちまでして徹底的な武力制圧を行使した。
それらはすべて「征伐」であり、「正義」の聖戦として敢行されたのであった。

いずれも、己たちヤマトのみが中央であり、他は蛮族であって、征伐の対象である、という中央集権的覇権主義に基づく。

大和政権は、懐柔と謀略と武力によってやがて列島全国を制圧した。
制圧された東北の人々は、古くから産鉄と刀剣生産技術を有していた。
舞草(もぐさ/もうくさ/まいくさ)と呼ばれる製鉄鍛冶集団がそれだった。
彼らは大和朝廷への抵抗に敗北した。
東北の鍛人(かぬち)たちが造った湾刀は、直刀しか持たなかった朝廷軍に甚大なる被害と恐怖をもたらしたが、朝廷軍はすぐに彼らの技術を採り入れた。正確には鍛人を征服して製造させたのだろう。
征服された民は「俘囚(ふしゅう)」と名を貶められた。そして、全国各地に強制集住させられていくのだが、これが後に全国の鍛冶職に影響を及ぼした。
東北の製鉄集団が古く集住させられた地区は安芸国大山にもあり、主として鉄鉱石を原料として鉄を吹いていた。その場所は「別所」と呼ばれた。

平安時代の10世紀中期頃、それまでの俘囚の剣と呼ばれた刀剣を大和朝廷の先兵だった「武士」が積極的に騎馬と共に採用し、それが発展して「反り」の発生をもって後世に「日本刀」と呼称された刀剣の誕生となる。
反りがある日本刀のルーツは東北にある。

古代舞草地域がある岩手県一関、平泉。

 

東北の地に日本刀のルーツがあることをどれほどの日本人が知っているのであろうか。
ぜひとも多くの人に知っていただきたい。
こうした説明看板は地元にあるのは喜ばしいが、地元の方々もどんどんメディア等に発信して、日本刀の源流がどこにあるのかを広めてほしいと願う。

東北舞草以降、日本刀が成立した平安末期からは時代が開くが、東北からの製鉄集団が集住した地域が広島県内の大山という地域にある。
その地には、南北朝の頃、九州から刀工がやってきて住みついたという伝承があり、名跡は江戸時代に入る頃まで続いた。一族は安芸国大山鍛冶と呼ばれた。

その安芸国大山鍛冶最後の刀工宗重の作を私は愛蔵している。
東北舞草の地と同じように、当地、旧山陽道(古代山陽道)沿いに大山鍛冶の案内看板が昨年暮れに建てられた。
日本刀の文化と知識の普及のためにとのことで、美術刀剣刀心の店主町井勲氏も無償で高度な技術を駆使して大山宗重の刀身の全身写真を看板用に撮影して提供してくれた。

安芸国大山鍛冶が自称したところの「筑州刀工左の末裔」というのは本当のところは確証がない。
ただ、安芸国大山の地では、古代において、東北から製鉄鍛冶集団が移住して来たとの伝承があり、製鉄遺構も発見されている。

意外なところで、日本刀のルーツである東北の舞草鍛冶と安芸国広島の繋がりが発見できて、昨年暮れには言い知れない感慨深いものがあった。

備後国三原の刀工群は地元三原の人たちも意外と知らない。
知らなくて当然だろう。
戦国末期に海上に城が築かれるまで、現在の三原には町も地面もなかったからだ。すべて海だ。「三原派」と呼ばれる刀工は古三原はもとより、戦国末期の銘に三原の名を冠した刀工であっても、現在の三原の地ではない別場所で作刀していた。地面がないのだからこれは確定事項だ。洋上で刀など造れない。
つまり、「三原」という地名は、現在の三原城がある場所のピンポイントではなく、周辺地域もしくはまったくの別場所であったことが成り立つ。
江戸期に新地として登場した現在の三原の地では刀工群が盛んに刀を鍛えたという歴史はなかったのだから、現在の地元三原市民が日本刀「三原鍛冶」なるものについて知識がないのもあたりまえのことなのだ。
真実としては現三原には三原鍛冶の歴史がないのだから、祭りのように地元に根付いた意識などは形成されない。
逆に形成されていたらおかしい。それは捏造だから。

だが、事実として旧山陽道を眞良(しんら)から西に下った安芸国大山(ここにも古代の馬駅-うまや-が設置されていた駅だった)には刀工集団大山鍛冶が現実に存在していたのである。古文書などの刀剣書だけではなく、証拠となる天正八年紀の大山宗重の作を私は持っている。
大山鍛冶は単なる伝承ではなく実在し、その物証は保存された日本刀という歴史遺産の形で現在まで輝きを失わずに残っている。

その大山鍛冶は、備前鍛冶のような研究が進んだ有名な刀工集団ではないにせよ、備後国から安芸国にかけての地域での唯一の刀工群であるのであるし、東北から移住した古代産鉄民との接点の可能性もあるのであるから、もっと学術界、刀剣界で注目されてもよいように個人的には思量する次第なのである。

日本刀のルーツ東北との接点。
刀剣を巡る列島縦断の歴史ロマンを感じる。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/5f/a2362c3a8d52bb63478496cde73f3bcd.jpg

◆中朝韓人民を支配する「神話」 恥ずかしいウソを堂々と… 

2014.6.8 Sankei Biz EX CONTENTS

 中国や韓国、北朝鮮は「歴史の背骨」の捏造に膨大なエネルギーを注ぐ。しかし、超弩級の3Dプリンターを開発し“人造背骨”を組み込んだところで、歴史の方で拒否反応を起こす。もっとも、拒否反応で「壊死」した部位(歴史)は直ちに切り取り、人工的に付け替える。事実は関係ない。日本人なら、恥ずかしくてとても口に出せないウソを堂々とつく。例えば、アジア安全保障会議の公開討論が行われた5月30日、安倍晋三首相(59)を批判した中国全国人民代表大会外事委員会・傳瑩(ふえい)主任委員の発言。

 「魚釣島(沖縄県石垣市・尖閣諸島の中国名)問題を拡大し『中国が脅威だ』と言っている。(中国脅威)神話を作り上げ、それを言い訳に国防政策を変更しようとしている」

 怪しい「四千年の歴史」

 断るまでもないが、ここで使われた「神話」とは、わが国の《日本書紀》や《古事記》に記され、悠久の歴史の中で伝えられてきたそれではない。根拠がなく、事実を隠蔽したでっち上げの喩え。無礼な外交発言には唖然とさせられる。古事記にも在り、祝詞に象徴されるが、日本では古来より「言=事」と考えられ「良き言葉を発すると良き事を、悪しき言葉を発すると凶事を招く」と、言葉が持つ力《言霊(ことだま)》が信じられてきた。中国の結婚式では、忌み言葉は禁句ではないのだろうか。

 傳氏の発言は事実でない上に真逆。安倍政権は、いわゆる「神話を作り上げ」ているのではない。むしろ「神話を削除」し始めた。発言は、それを認識する傳氏の焦りに映る。

 少し前まで「非武装中立」なる“神話”が、まことしやかに信奉された。今なお「反戦平和」「平和憲法=第9条」「集団的自衛権=戦争する権利」など、エセ宗教の教義にも似た危険な虚構がまかり通る。安倍首相は、この類いの神話を国際基準にまで戻そうとしているに過ぎない。戦後、安全保障に対して思考停止してきた「歴史の清算」と言い換えてもよい。

 ただし、中朝韓のように歴史の背骨を心配する必要は全くない。背骨は、神話がしっかり担保している。

 飛ぶ鳥を落とす勢いだった平安時代の藤原氏が皇統に取って代わらなかったのは、神話の時代から天皇に仕える家系だったこと。後の武家政権も、天皇・皇族の「分家/家来筋」としての自覚・慎みが有り、皇統の万世一系に大きく影響した。善悪の判断も、神話により民族のDNAに染み込む。東日本大震災を受け、天皇・皇后両陛下が示されたご心痛、世界が感嘆した日本人の克己心や正直な行動は、神話で説明できる。歴史の流れや背景、事象、国民の性行を深く理解するには、神話=歴史の背骨が不可欠と成る。

 「寿命1908歳」の檀君

 一方、中国は傳氏が使った意味での神話の宝庫。まず「四千年の歴史」が怪しい。武力で滅ぼされ、何度王朝が変わったか。今の「共産党王朝」は、初代国家主席・毛沢東(1893~1976年)が建国宣言した1949年の誕生。その毛に関する“神話”も、習近平国家主席(61)があらためて磨きをかけた。共産党の正統性を徹底的に押し付け、貧富の格差や政治・行政の腐敗、治安悪化から人民の目をそらすことが「編纂」目的。

 従って虚飾にあふれ、幾重にも嘘で塗り固められている。毛は共産党軍を初めから掌握できていたのではない。「長征」などと、あたかも大遠征をしたごとく取り繕ろうが、実態は国民党軍に追われて1万2500キロに及ぶ、惨めな長距離逃避行した間の35年以降。掌握後は《三大規律・八項注意》を順守する「人民の軍隊」を目指したとされる。

 今も教科書で《遊撃戦を展開し、土地革命を断行して、労農革命政権を樹立。地主の土地を没収して農民に分け与え、豪農・地主への債務も帳消しにした》と教えるが、実態は「共産土匪軍」と恐れられた山賊だった。鉄鋼・石炭・セメント会社や豪農・地主はもちろん、比較的裕福な小作農やしがない行商人まで「階級の敵」と決め付け、莫大な金品や土地を略奪、大殺戮を繰り返した。弱きはくじくが、精強な大日本帝國陸海軍とは戦(いくさ)らしい戦は行わず、逃げた。「抗日戦勝利」というより、国民党の抗日戦を妨害し、疲れ切った国民党を後ろからバッサリやっただけ。

 日本神話は「日本人としての価値観の源泉」で普遍性を伴うが、毛神話は「共産中国の最高権威の源泉」。「共産党王朝」のみ通じる洗脳術であって、王朝が代替わりすれば否定される。

金一族の先祖はクマ?

 対日戦勝(聯合)国に成りたい夢は韓国も同じ。小欄は過去に何度も指摘したので詳述しないが、いかにも夢が小さい。《檀君》を主人公に据えた、朝鮮建国神話並みの壮大な「脚本」が読みたい。何しろ、帝釈天の子が白頭山に降臨し、メスのクマと結ばれて檀君が誕生した。

 檀君が平壌を都と定めたのが紀元前2333年。その後、中国に統治され、山に隠れて山の神になった、という。寿命は1908歳だったとか。檀君が初出するのは1280年代で、中国の史書には一切記録がない。

 日本神話の価値は「日本人としての価値観の源泉」にあるが史実も多い。小欄は、韓国の教科書にも登場する檀君神話に何とか史実を探し出そうとしたが、1993年をもってやめた。

 この年、北朝鮮は5011年前の檀君の骨を見付けたと発表。金日成(キムイルソン)初代最高指導者(1912~94年)は檀君の末裔を自任し「祖先の加護により勝利を得た」と演説してもいる。ところが、そもそも日成自身の出自が謎だらけ。確かに日成は日韓併合(10年)以前、既に抗日パルチザンに挺身する人物として知られていた。

 だがこの日成と、日本の敗戦後、ソ連から平壌に凱旋した後の最高指導者を同一人物とするには、数々の無理がある。日成が複数いないと話のつじつまが合わない。

 日成死後、長男・金正日(ジョンイル)氏(1941~2011年)が檀君陵建設の大事業を引き継いだ。97年に総書記に就任するまでの3年間「白頭山に赤い雪が降った」「金色の鳥が舞い降りた」などの話も報じられ、一族の神格化は強化された。

 金一族にはクマの血が流れていることになってしまう…。東アジア大陸は“神話”に満ちている。(政治部専門委員 野口裕之)

http://www.sankeibiz.jp/express/news/140608/exd1406080002001-n1.htm

★秀吉の時代に日本が唐辛子を防寒のために持ち込み、朝鮮半島で唐辛子が普及した。
しかし、伝わった当時は唐辛子は倭芥子とよばれ毒草として栽培された。
李氏朝鮮時代、清の支配により塩の製造が禁じられると塩が不足したため、代わりに日本伝来の唐辛子を使うようになったことが現在のキムチのはじまり。
文献に唐辛子を使ったキムチが現れるのは、1766年に発行された「増補山林経済」から。
キムチを民族伝統食品と言われ出したのは李承晩の捏造から。
朝鮮人には誇りに思える文化が全くないので歴史と文化を捏造する政策をし、それがキムチ、ハングル、ビャクトウ山、ムクゲの花であったが、世界では殆ど知る者がいない。
キムチは保存が利かず、今でも北朝鮮の人は保存食としてキムチより沢庵を食べている。

★沢庵、味噌、米は非常に優秀な保存食で、冷蔵庫が無くても十分保存でき、生活できるが、もしこれが朝鮮の伝統食品というのであれば、飢餓など無かったはずだろう。

★韓国の調味料は塩でキムチを漬けていた時の現在で言うところの「水キムチ」に近い物しか無かった。

★韓国海苔は日本の併合時代に半島に持ち込まれたもの。第一海苔は世界で唯一日本民族だけが消化出来るもので、それからも、朝鮮人は同じ民族では無いことがわかる。

★ナムルは「食用になる植物、草木の新芽や葉類、またこれらの材料を用いて調理したものの総称」
現在の形になったのは近年になってから。

★もともと生肉を食する文化であり、日本併合時になって肉を焼く文化が入ってきた。焼き肉は日本の文化である。
レタス巻きは元々宮崎の地方料理なのだが、いつしか韓国の焼肉料理として位置づけられてしまった。

★現在宮廷料理と言われる物には、当時にあり得ない食材が多く、資料には、「空腹を待たせて食べさせる」と呆れた内容が書かれている。

★食文化とは豊かな国で発達するのであって、当時世界一の最貧国だった朝鮮で食文化など発展しないし無かったと言うこと。

★サツマイモは18世紀の中ごろ、朝鮮通信使によって日本の対馬から伝えられ、慶尚道を中心に栽培されていたが、19世紀には京畿道・忠清道・全羅道にも徐々に拡散した。韓国語でサツマイモを指す「コグマ」という言葉は対馬の人々が「コウコウイモ(孝行芋)」を対馬の人々が「ココイモ」と言ったことから由来したという。

★最近になって朝鮮起源と言いだした納豆は朝鮮人が馬鹿にする食事なのだが、欧米では健康食品屋で結構売っている。もちろんキムチなどはどこにも売っていない。

★日本併合までは染色技術もなく、白い布だったが、両班だけは宗主国の支那から彩色生地が手に入った。

★白丁や奴隷は教育が受けられず、両班のみが教育の機会を得ていた。

★日本併合時代1939年に半島で初めて大規模な茶園が造成された。茶の栽培自体は古くから有ったが、日本では庶民も暮らしが豊かになって、趣味や嗜好が好まれるようになり茶道が出来た。伝統文化とは、豊かになって初めて生まれるもの。李氏朝鮮は長きにわたり支那の属国であり、生活にゆとりもなく、識字率も低い朝鮮に茶の湯をたしなむ余裕などあり得る筈もない。

★両班が跋扈していた朝鮮半島では中国で焼かれていた白磁が最上とされ、日本に残る高麗青磁は朝鮮半島では初期に廃れてしまって普及せず、日本の茶人には半島の焼き物は見向きもされなかった。

★韓国国旗の誕生は、壬午軍の乱の結果、1882年韓国の謝罪使節団が日本の明治丸に乗船して仁川港から日本に向かった。この船中で現在も使われている韓国の国旗(太極旗)が生まれた。 
明治丸は船長だけはイギリス人のジェームスを雇っていたが、 「朝鮮国王の使節が礼訪するのだから 国旗をマストに掲げるのが礼儀だ。国旗を出してくれ」ということになったが、朝鮮はその時まで国旗の制定・使用をしていなかった。
そこで船長に意見を求めた。「太極の図案はよいが、周りの八卦は複雑だから、四卦だけを四隅に配するほうがよかろう」と言い出して、一行これに同意して決定となった。
八卦は組み合わせで様々な意味を表し、普通は陰陽二卦で表して占う。
四卦使うのは不吉であり、さらにあの組み合わせは、
「恨み、悪意、憎悪、破滅」
をあらわす組み合わせだそうな。
まさに占い通りの国家、国民ではないか。

◆過去南朝鮮のユネスコ登録の無形文化遺産

☆宗廟 ⇔ 宗廟祭礼と宗廟祭礼楽(韓国)
☆パンソリの叙事詩詠唱
☆カンガンスルレ
☆済州チルモリ堂燃燈グッ
☆処容舞
☆男寺党ノリ
☆霊山斎
☆楽団を伴う叙情歌、歌曲[ガゴク]
☆伝統的な木造建築、大木匠[デモクジャン]
★韓国の伝統武術テッキョン(택견)
韓国のテコンドが空手のパクリであることは有名だが、空手も以前は「唐手」と称しており、本家が中国のカンフーであることは認めている。
そして、本家カンフーでもとりわけ有名な少林拳が、あろうことか世界無形文化遺産の申請競争で、テコンドの言い訳に使われたいかがわしい元は大道芸のテッキョンに敗北してしまった。
☆伝統芸能「綱渡り(줄타기)」チュルタギ
☆韓山地方のモシ[カラムシ上質]織物
★アリラン、韓国の叙情民謡
中国国務院は2011年6月、朝鮮族自治区内のアリランなどを第三次国家無形文化遺産に登録している。
アリランは有名な朝鮮民謡で、地域毎に様々なバージョンがあり、韓国と北朝鮮で合計70~80種類が存在すると言われている。韓国だけが正当なアリランとは言えない。
★鷹狩り、生きた人類の遺産
(アラブ首長国連邦/オーストリア/カタール/韓国/サウジアラビア/シリア/スペイン/チェコ/フランス/ハンガリー/ベルギー/モロッコ/モンゴル共通)
韓国独自の文化とは言えない。
★ハンサン(閑山)に伝わるラミーの繊維加工技術
★江陵端午祭

◆ユネスコの金集めに乗せられた極東三馬鹿

主要国の無形文化遺産登録件数 

中国 37件 
日本 21件 
韓国 15件 
=======バカの壁======= 
スペイン 13件 
フランス 11件 
ベルギー 11件 
インド 9件 
ブラジル 6件 
イタリア 4件 
エジプト 1件 
=====おそらく条約未加盟===== 
アメリカ 0件 
イギリス 0件 
ドイツ 0件

◆【韓国】李承晩(イ・スンマン)政府、韓国戦争勃発直後に日本への亡命を打診 一方、日本側は・・・


2015/06/25 News U.S.

6・25戦争当時イ・スンマン政府の対処に対して、歴史的論議が少なくないのですが。

その中の一つが「日本亡命政府要請説」です。

イ・スンマン政府が実際に、当時の日本政府に「6万人亡命意思」を打診し、日本が「韓国人避難キャンプ」計画をたてたという内容の日本側文書を、KBS取材陣が初めて確認しました。

パク・ジェウ特派員です。

6.25当時、イ・スンマン政府の「日本亡命要請説」を確認するために山口県図書館を探しました。

山口県の公式歴史記録

朝鮮戦争勃発二日後、日本外務省は山口県知事に、「韓国政府が6万人規模の亡命政権を山口県に樹立したい」と知らせ、可能かどうかを尋ねたが、当時の田中知事は「日本国民も配給が不足している状態では難しい」という返事をします。

だが、しばらくして田中知事は韓国人5万人を受け入れる内容の「非常措置計画書」を出します。

米軍政記録です。

山口県阿武市など4箇所に20の避難キャンプを作って、臨時テント1ヶ所に200人ずつ、全250個のテントに5万人を受け入れるという計画でした。

ジョンオジョン(博士/京都、大谷大学)「宿泊施設や衛生施設、食糧問題などを、5万人規模で準備しました」

田中知事はこの英文計画書を米軍政に提出して、予算支援を要請しました。

当時、山口県は「朝鮮情報室」という別途部署を作って、韓半島の情報を詳細に記録した「朝鮮情報」という文書を総理など政府閣僚にいつも報告しました。"

「朝鮮情報室」は、韓国戦勃発の二日前、「北朝鮮による南への侵略の危険報告書」を日本政府に提出したりもしました。

文書によれば、イ・スンマン政府は亡命を打診したが、実行はされはしません。

事実ならば6・25初期政府の状況がどうだったのか、赤裸々に見せる大きな課題です。

山口からKBS ニュース パク・ジェウです。

KBS 2015-06-24 21:32 (原文は朝鮮語:ソース元にニュース映像があります) 
http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=056&aid=0010187793&date=20150624&type=2&rankingSeq=1&rankingSectionId=100

http://www.news-us.jp/article/421294660.html

◆なぜか韓国人が知らない朝鮮戦争開戦の経緯

李承晩は太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である。没落両班の片割れといったところ。日本の併合により李朝の特権を剥奪されて、米国に亡命。GHQの後押しで朝鮮半島に戻る。だから、併合時代の半島の様子や事情といったものを全く知らない。加えて、特権剥奪の個人的な怨念を日本に対して生涯持ち続けていた人物である。
その怨念により、歴史を自ら作り、国民に怨念の歴史をそのまま教育するように指示したことが現代にまで捏造を続けるという結果を招いている。嘘で嘘を固めた創造の歴史が、今更嘘でしたと言えない所まで来てしまった。

それが朝鮮戦争を招く結果となった。

【朝鮮戦争開戦の経緯】

1948年10月:麗水・順天事件一時的な内戦状態。(南部への韓国軍移動)

1948年10月:済州島全域に戒厳令。軍事弾圧始まる。(南部への韓国軍移動)

1948年11月:李承晩大統領は国民に対して対馬返還宣言

1949年1月:李承晩大統領は日本と連合国(進駐軍)に対して対馬返還請求

1949年1月:北津戦役が終結。中国人民解放軍が北京を解放。
金日成に武力統一への大きな影響を与える。

1949年1月:李承晩は政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。

1949年2月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押しの為と推察)(南部への韓国軍移動)

 北朝鮮というあきあらかな敵が存在するにも拘らず、内戦と日本への無意味な対抗心の為に、南部に軍事力を集中させてしまった・・・
     (日本への領土的野心と言っていいだろう)

1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。アメリカ陸軍第24軍は対馬上陸の為の演習と判断

 プサンの演習を知ったマッカーサーは激怒。明らかに対馬を想定したこの演習は、日本を防衛していたマッカーサーへの裏切りと判断された。
   軍事物資の停止、24軍の撤退へと繋がる。
     ちなみにこの事実、韓国では隠蔽されている。

1949年5月:マッカーサー李政権への軍事物資援助を停止

1949年6月:アメリカ24軍本体が本国に撤退。
    韓国には国連監視団600名のみ在留。防衛上の直接的な後ろ盾を失う

1949年12月:北朝鮮全軍が5ヶ月にわたる冬季戦闘訓練に入る

1950年1月:金日成の要請にて中国軍朝鮮籍兵士の第二次移籍を承認。
 移籍部隊は1万4千に達し,北の全兵力の1/3を占める。

1950年1月:米韓軍事援助相互協定が調印。韓国側は軍事支援強化を求めるがアメリカはこれに応ぜず。

1950年1月:米国務長官「西太平洋の防衛線は日本・琉球・フィリピンを結ぶライン上」と発言。
    朝鮮半島へ影響力放棄と北に誤認される。(アチソンライン)

1950年3月:金日成、スターリンに対し侵攻時の支援を要請。毛沢東の承諾を条件に金日成の要請を受諾。
(武器支援のみ)

1950年5月:金日成、中国を訪問。南侵問題について協議し、毛沢東の南北開戦を支持と支援を取付ける。
(人的支援も含む)

1950年5月:李承晩、総選挙で惨敗。

 北朝鮮が明らかに戦争準備を実施している中、韓国は産みの親であるアメリカに突き放されて行く。
  原因は度重なる激しい内紛と、アメリカへの無理難題の要求に辟易したのが原因であろう。

 この時期に大きな朝鮮戦争開戦への原因が生まれる。中国、ソ連の強固な軍事支援を得た金日成、対して様々な我がままから、アメリカの後ろ盾を失った韓国。
   しかも軍配備は日本に向けての南方偏重のままである・・

   まるで北に「侵略」の決断を迫るかのような韓国の状況であった。

1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南部国境地帯への移動を開始。

1950年6月11日:韓国陸軍本部、非常警戒令を発令。

1950年6月17日:韓国軍全軍部隊に国境地帯への移動命令。(実際には準備途中で開戦となってしまいました)

 目前で大規模な演習が始まって、やっと韓国も現実にめざめたのであろか?
南方偏重の軍配備を改めようと準備を始めた。
残念ながら部隊が到着すれば直ぐに最大戦力で戦闘できるわけではない。
 対馬なんかに色目を使わないで、塹壕や戦車止めの設営に尽力していれば、緒戦の被害も減ったであろう。

1950年6月22日:北朝鮮軍最高司令官金日成、全面的南進作戦命令を発する。

1950年6月24日:ソウルで陸軍会館の落成式開催。韓国陸軍本部、非常警戒令を解除。

 金日成の南進命令が下った2日後、なんと陸軍のお役人は陸軍の建物の落成記念の日に、非常警戒令を解除してしまった。非常警戒令下では盛大に「宴会」ができないからだろう。
 この翌日、北の南進が開始されるわけで・・・・ 色々想像させられる。

1950年6月25日:北朝鮮軍南進 朝鮮戦争へ

 非常警戒令の取り下げで「休日」となった韓国軍に北は襲い掛かった。 合掌・・
     
 南部偏重の軍配備の為、緒戦の防御線を維持できなかった事や、 韓国に嫌気が差してアメリカが日本防衛重視に移行していた事実は見逃せない。

敵を見誤る韓国朝鮮人の悪い癖は未だに直っていないようだ。

少しは正しい歴史を知ってから、現状を判断して欲しいものである。

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朝鮮戦争の真実
当時の韓国の将兵は・・・・・ 

韓国の師団は、銃・機銃、無反動砲・野砲、戦車・装甲車・トラック、 弾薬すべてを置き去りにしていつもいつも敵前逃亡、 それらの装備・弾薬で中国軍は休戦前の数か月、戦力を著しく増強、 休戦までの不毛の消耗戦を展開・・・・ 

前線の米軍大尉、大佐クラスの連中が何度か韓国大統領府にジープで現れ、 
怒り狂って、 

『李大統領、あなたは韓国軍がいつも敵前逃亡するのは、 兵器・装備が米英豪軍に劣るからだと言ってましたね。 
それでずっと、新式装備も前線韓国師団には優先的に与えてきましたよ。 
勇猛果敢に戦う民族なんですよね?そう言ってましたよね? 
またまた敵前逃亡ばかりしてるので、今、あなたが行って説教して下さい 
韓国将兵は、逃げてくるためのトラック以外、常に何もかも遺棄して逃げてくる』 

と大統領をそのままジープに乗せて、 韓国軍脱走兵の大群の前で 

  『外国人が戦ってるのに、 
   どうして韓国人のお前らは逃げてばかりなんだ?』 

と何度も説教させてる。 

で、それでも装備を放棄して敵前逃亡は変わらず、 穴から中国軍は米英豪軍の背後に回る繰り返し。 

結局、戦争後半では、ほぼすべての韓国師団は解体され、 主に米英豪インド軍の補助兵にされた。

 



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