浮世風呂

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小平

2011-12-24 21:51:36 | 資料

小平

1904年8月22日生まれ(1997年2月19日没)

1978年から1992年のあいだ事実上の中華人民共和国の最高指導者であった。

身長が150㎝という小柄ながら、中国において非常に大きな存在だったといえる。

 中国国家主席小平は、若き日、ロスチャイルドの企業ルノーで教育を受けた。

 ルノー・フランスで教育を受けていた彼は、「共産主義者」と見なされ、フランス警察に逮捕されかかる。

しかし、小平のアパートを急襲する直前に、父文明の所属する中国マフィア洪門会の在フランス支部の支援と、共産主義者レーニンやトロッキーに莫大な援助をしていたロスチャイルドの密通情報により逮捕を逃れてソ連に逃亡する。

 この小平の亡命支援を担当したのが、ロスチャイルドの穀物商社ドレフュスの幹部であり、またルノーの経営陣の一員で小平に目をかけていたジャンバティスト・ドゥーマンである。

ドゥーマンは、ソ連の指導者スターリンと共に、ソ連の穀物を西欧に輸出するアンテグラ社を経営していた。

このソ連とのパイプが小平の逃亡ルートとなった。この支援が無ければ、後の中国共産党の指導者小平は存在しない。


 
小平一族の経営する「保利実業」は、ロスチャイルドの軍事産業としてイラン・イラクなどに毒ガス・細菌兵器・核兵器部品の輸出を行って来た。

 小平・栄毅仁の「CITI」の投資事業の司令塔として、事実上この中国最大の民間企業を指揮してきた香港財閥・李嘉誠グループで、世界最大規模のメディア企業「ホリンジャー・グループ」は、カナダ・アメリカ・イスラエル・イギリスに新聞社80社、週刊誌を115所有・経営し、経営陣には金で殺人を請け負うカナディアン・マフィア「ブロンフマン一族」を迎え入れている。

 このホリンジャー・グループは、傘下にネオコン派の牙城の1つである、イスラエルのエルサレム・ポスト紙を抱え、この新聞社の重役リチャード・パールが、ブッシュの国防政策会議議長としてイラク戦争を決定して来た。

 このホリンジャーが、次々とメディア産業を買収していく資金は、表向きはカナダ・バンクーバーの投資会社「ジー社」となっていたが、このジー社の経営は李嘉誠グループであった。

   階級闘争が盛んだった時代に彼はこう言い放っている。「白猫であれ黒猫であれ鼠を捕るのがいい猫だ」この言葉は彼が観念論をしりぞけ、物事を実務的、実際的に処理することを好むという小平の態度をよく表す言葉である。

誰もが知る小平のとった行動のなかでもっとも有名なことは「改革開放」であろう。中国の沿海都市である深センや珠海をはじめとし5個所を経済特区として外国からの資本や技術などを吸収する役割を持ち、製造業を中心とする企業を誘致し輸出志向型の目指すもので、外資企業に対しては、税制、土地使用などの面で経済特区以外の地域への投資よりも優遇している。

経済面で外資を受け入れることで経済特区を頭として中国の経済成長率は飛躍的に伸びてきた。

今思うとなぜはじめから中国全土を外資に開放しなかったのかと思うところだが、それが小平の経済改革で見せた彼の性格のあらわれである。中国全体を外国資本に開放したらどうなるか、彼は資本主義国家の汚染を含んだ空気に社会主義的慣行に馴れていた中国国民をさらすのは危険であると考えたのである。

まずは小さな窓を作り、そこから資本主義国家の近代化の風を内部にまで送っていこうと考えたのである。そしてその小窓から開いた風が中国の飛躍的な成長への追い風となったのである。

 

1904年四川省広安県の名家に生まれる。小平の兄弟は姉一人、弟三人、妹一人の七人兄弟であり、そのなかで彼は長男として育てられた。

小平は1919年に15歳で中学を終え、重慶に開設されたフランス「勤工倹学」のための予備校に合格し、翌20年夏に卒業した。そしてフランスに留学した。

小平の中学時代にはロシア十月革命が起こっており、これに刺激されて中国では半植民地からの解放を求める反帝国主義運動が始まった。この様な動きは四川省にもおよんでおり、小平もその時代の流れを敏感に受け止めていた。

フランスに渡った小平は勉学にいそしむために工場で働いた。生活は後の生活からとはずいぶんかけ離れた倹約に倹約を重ねた生活であった。

当時の苦学生の食事はというと一日に一杯のミルクとクロワッサン一個であったという。そのため成長期に十分な栄養を取ることが出来なかったため小平の身長が低いといわれている。

その半世紀後の1974年にニューヨークの国連総会に出席したとき、帰国途中にわざわざパリに立ち寄り、クロワッサンを100個ほど買いパリ留学生に配ったという。

 

  小平が政治活動に足を踏み入れたのは1922年中国少年共産党に入党したことからである。翌23年に中国少年共産党の後進である社会主義青年団欧州支部の常務委員に選ばれたことからであった。

組織の中で最も若かった小平は『赤光』のガリ版印刷の仕事をまかされた。彼はガリ版印刷の仕事を巧みにこなし、仲間から「ガリ版博士」のニックネームをつけられた。このときの編集長であった周恩来は彼の仕事を高く評価した。この欧州支部の仲間が後の共産党を担っていった。

のちに小平はモスクワへ移り、中国人革命家を養成するために設けられた中山大学で唯物史観や革命論などを学んだ。そこで蒋介石の長男の蒋経国と一緒に学んだ時期もあった。同級生として肩を並べていた二人が後に台湾海峡を隔てて睨み合う仲になろうとは思ってもいなかっただろう。

1927年小平は祖国に戻り、西安の中山軍事学校で政治部の主任教官になった。この年の4月、蒋介石が「上海クーデター」を起こし、それまで同盟勢力であった共産党員を弾圧しかかってから、小平も中山軍事学校を追われて、共産党の本拠地となっていた漢口で党中央の仕事にたずさわることになった。このときすでに党政治局のトップ集団になっていた周恩来は小平に「秘書長」のポストを用意した。

そして、小平は会昌県委員会書記になった。右江ソビエト(中国革命本拠地)の上層部の意見とは全く逆の毛沢東の意見を擁護した。そのため小平も党上層部にはむかったかたちとなり、しばし監禁された後、県の書記という役職からちっぽけな村の巡視員に降格された。これが小平一度目の失脚となる。

のちに中央軍事委総政治部の指示をし、「紅星報」の編集長を務めた。これが復活への足がかりとなる。かたや毛沢東は党に残存し実権を握り、彼の計らいで小平は秘書長に返り咲き、党での地位も少しずつ上がっていった。

  小平は党の総書記に就任した。毛沢東は大躍進の失敗を振りかえり、自ら党の第一線を退く意見を述べた。毛沢東の本心は退く気など全くなかったようで、大躍進の失敗に対してみんなから労いの言葉をかけてもらいたかったようである。

 小平は党の総書記として大躍進の失敗を振りかえり、現実問題の飢餓救済を行うにあたって毛沢東とは全く逆の政策をとらなくてはいけないということに党政治部の誰もが気付いていた。ただ誰も毛沢東を諌める決心がつかなかったのである。

 ここで小平は腹をくくって先ほどの毛沢東の意見に対して国家主席に劉少奇が適任との意見を述べた。こうなると誰も小平の意見に反対するものはなく、毛沢東はろくに慰留もされず第一線を退くかたちとなった。

  彼はまず、農民が自分で開拓した土地については個人耕作の権利を認め、養鶏やアヒルの飼育で農家が金儲けをするのを公認した。毛が旗を振って大々的に進めた農業の集団化を、部分的に崩してみたのである。

この程度の農家に対する改革で、はっきりした数字となって現れてきた。手応えを十分に感じた小平は、安徽省をモデルにして農家の一部を家族単位で請負耕作に出した。

人民公社の農村風景が少しずつ変わっていき、「自分たちの田畑」を取り戻した農民は嬉々として「自分の作物」を育てるようになっていった。これが一部の地域で明らかに成功だと分かった。そして小平はこの農村改革を全国に広めていった。

  毛沢東の政策を180度転換させたからといって小平は毛沢東のことを疎んじていたわけではなかった。しかし毛沢東は自分のしたことがすべて否定されたように感じ、小平をはじめとする実権派を快く思っているわけがなかった。

自分を邪魔者扱いされていたように感じた毛沢東は第一線に復帰した。毛は権力を行使し、実権派をじわじわと失脚させていった。次第に党の要職を自分と同じ思想をもつ者で固めていった。これが中国にひどい傷跡を残す文化大革命の始まりであった。

当然小平にもその矛先は向けられた。「砲撃を加えよ」と呼びかける壁新聞が権力の所在地である中南海に毛の手によって張り出された。それをきっかけにを「実権派ナンバー2」と名指しで批判したおびただしい数の壁新聞が街頭を埋めていった。

やがて小平は総書記の職を剥奪され、その年の暮れには中南海の自宅に軟禁される。これが小平2度目の失脚になる。

小平は政治に舞台から姿を消したように思われたが、復帰に対する情熱は消えてはいなかった。小平は毛沢東にあてて四千字に及ぶ長文の手紙を書いた。手紙はちゃんと毛沢東に届いていたが返事はこなかった。小平はそこであきらめるわけもなく、再び毛沢東に手紙を書いた。

この小平の熱意が毛沢東に通じたのか、19733月小平は再び北京に副首相として舞い戻る。長い間同志としてともに中国のために働いてきた周恩来も小平の復帰を心から待ち望んでいたのであった。6年間の長い失脚期間だった。

小平は復帰後、文化大革命のためにいわれのない罪で軟禁されている者の復帰に身を粉にして働いた。これは自分の復帰に力を貸してくれた周恩来同志の望みでもあった。もちろん復帰してなお「四人組」の執拗な圧力に徹底的に抵抗しなければならなかった。

  197618日、周恩来がみんなに惜しまれつつこの世を去った。「四人組」にとっては願ってもないチャンスの到来であり、小平にとっては同志を失ってしまったことで大きなピンチであった。15日、周恩来の追悼会が人民大会堂で営まれた。そこで追悼の辞を読み上げた小平はそのまま公開の場から姿を消してしまった。そのまま中南海の自宅に軟禁された。

45日、北京の天安門広場に200万人という大群衆が、亡くなった周の遺影を掲げて集まり、収集のつかない騒ぎになった。これに対し「四人組」は武力鎮圧を命じた。この騒ぎを「四人組」は小平が裏で糸を引いているとでっちあげ、小平の役職を剥奪した。これが小平三度目の失脚であった。99日に毛沢東が逝去したときも、小平は追悼会に出ることすらできなかった。

  しかし、「四人組」が小平を人民日報などで批判すればするほど、世論の小平を支持する声は高まっていったのである。毛沢東という後ろ盾をなくした「四人組」の威力は次第に衰えていった。小平のいない党中央も「四人組」をこのままのさばらしている訳はなく、四人組を追い払う策を練っていた。毛の死去から28日後、「四人組」はあえなく逮捕された。小平は「四人組」の逮捕に踏み切り、新たに党の主席になった華国鋒に四人組の逮捕に賛同するという内容の手紙を書いた。二度目の失脚の時に毛主席に当てた手紙と同様なことを書いた。19777月、小平は三度目の復活を果たした。

   党に戻った小平は、胡耀邦や趙紫陽など力強い人材を復活させた。いよいよ小平時代の幕開けである。だが、復活した彼に懸案が二つあった。「毛主席が決めたことはすべて守る」ことによって権力を守ろうとしていた「すべて派」の勢力を削っていくこと、「四人組」の蘇生を防ぐことである。そして、文化大革命時に「四人組」によって党を追われた者達を復帰させた。

  次第に、「すべて派」は追いつめられていき、華国鋒は主席の座を退かざるを得なくなった。華国鋒は小平を復帰させたことで、自分の首を絞めることになってしまったのである。

 中日新聞の社説にこのような文があった。-何より強烈なのは、社会主義でありながら徹底して改革開放路線を貫いたことだ。「資本主義といわれるのを恐れるな。判断の基準はこれが国と人民を豊かにするかどうかだ」「社会主義は『貧しくても平等』ではない。すべての人が豊かになることだ」氏のヴィジョンの真骨頂である。

次の指導者には「次の五十年で経済を世界の中くらいの国にするように」と言い残した。その中核になる香港返還のレールは自らのアイデアで敷いたものだった。

小平は、自分の引退後もしくは、死んだ後までもの中国のヴィジョンを見据えていたのである。このように、先々を考えることが国の行く末を決めていくことだ。


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