浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

周恩来

2011-12-27 19:21:12 | 資料

周恩来 ヂョウ・オンライ

1898年3月5日生まれ(没1976年1月8日)

妻は穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)李鵬(養子・のちに首相)。

中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務める。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」の異名がある。

 周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1912年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。

1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。

南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。

南開学校では数学、物理、化学などをすべて英文のテキストで教わっていたため、その知識を日本語で表現する苦労をあじわった。

日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園や靖国神社、三越呉服店や浅草など、各所を積極的に見てまわっている。

日本社会や日本人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。

1918年、留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。

やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。

船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれている。

1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。

1920年パリに留学する。

労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻る。

パリ郊外のフランス語学校でフランス語を学び、まもなく天津の四名の勤工倹学生とともに、フランス中部の町でフランス語を学ぶかたわら『益世報』に通信をかくアルバイトをした。

その後中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。この留学時代の仲間には、李立三や小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。

 1944年11月、26歳の周恩来は国民党が幹部養成のためにもうけた黄埔軍官学校(校長・蒋介石)の政治教官、政治部主任となった。

軍官学校であるからむろん軍事を教えるが、国民党はこの学校を直接統制下におくために、ソ連赤軍にならって政治委員制をとった。あにはからんや、国民党ではなく、共産党がこの政治部を掌握することになる。周恩来は抜群の組織能力を発揮し、黄埔軍官学校の共産党員を四三人にふやし、その党支部を直接指導することになった。

 周恩来は毛沢東に継ぐ中国共産党の実力者として絶対的な信望を集め、膨大な行政機構を掌握し縦横に動かした。
多くの人々が、周の卓越した記憶力と人をそらさぬ話題の豊富さなどの魅力を語っている。

 人心の機微をつかむという周恩来の本領が最も良く発揮されたのが、日中戦争の分岐点ともなった西安事件である。

 孫文の死後、蒋介石は孫文の遺志を無視して中国南部の共産党根拠地に対して大規模な攻勢にでた。そして共産党の根拠地は、国民党の軍隊の重圧下に置かれた。
東北地方には日本軍の謀略により父張作霖を殺された張学良があった。張学良は満州の帝王になるべき人物であったが日本軍と戦うために蒋介石の軍門にくだる。しかし蒋介石はそんな張学良に対して日本軍ではなく共産党に対する討伐を命じた。
しかし、張学良も配下の東北軍も、日本と戦おうとしている共産党と戦う気はなく共産党に対する討伐は遅々としてすすまなかった。業を煮やした蒋介石は1936年12月自ら西安に赴いて共産党への攻撃を監督しようとした。
しかしその蒋介石を張学良が逮捕監禁し、ほどなくして蒋介石と共産党の周恩来との会談が実現した。

 この後蒋介石は「一致抗日」を受け入れ第二次国共合作が実現するのである。世界はこの時の周恩来という人物の外交手腕と説得力をはじめて知ることになった。

 中国では国民党と共産党は国共合作をおこない、協力しあって地方軍閥と戦うために、北伐戦争をすすめようとしており、そのために大量の幹部を必要としていた。聶栄臻、李富春、小平らはモスクワ東方大学で学んだのち帰国することになったが1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う小平を失脚させる。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる

  周恩来は、中国共産党の毛沢東の下で主に外交を中心に大きな役割を果たしてきた。日中戦争中は南京や重慶など国民党の監視下で、国民党や米国との交渉にあたり、日中戦争終了後の国共重慶会議にも出席、新中国成立からまもない1950年にはモスクワにかけつけ、難航する中ソ会談で毛沢東主席の力となった。

 周恩来は、中国が初参加した国際会議である1954年ジュネーブ会議に臨んだのをはじめ、新中国の対外交渉のほとんどすべての案件を手がけてきた。
そして毛沢東夫人の江青との激しい権力抗争や文化大革命による失脚の危機を乗り越えていった。

 周恩来は1976年1月8日78歳で死去する。人々は周恩来の死をいかなる英雄の死よりも悼んだ。

 周恩来の原籍は浙江省紹興小保佑橋百歳堂にある。魯迅逝去二周年記念のとき、周恩来はこうのべた。「血統では私は魯迅先生の本家筋かもしれない。二人とも浙江紹興の周家だからである」。


 スターリン 没後、国際共産主義運動の主導権を フルシチョフ と 争った毛沢東は、ソ連修正主義批判を続け、ソ連を本気で怒らせてしまう。文革がとめどない混乱を招き、内乱状態になったため、その収束のため中ソ国境の珍宝島で「小競り合い」を演出した (第一次珍宝島事件) つもりが、ソ連の復讐戦 (第二次珍宝島事件) を招き、やがてはソ連に核先制攻撃を考えさせるほどの危機を招く。

 革命輸出外交で孤立していた「毛沢東中国」は、窮余の一策「敵の敵と結べ」を実行してニクソンを招請という「ウルトラ C」を演出するが、米中折衝の実務を取り仕切って国際的な脚光を浴びたのは周恩来であった。「上御一人」の影を薄くした周恩来を、「天上天下、唯我独尊」を以て自任する毛沢東は絶対許せず、以後、徹底的に周恩来をいびり抜くのである。男の嫉妬ほど怖いものはない!

 それだけならまだよかった。毛沢東の周恩来いびりが「自分より先に死なせる」よう悽愴さを帯びるようになったについては、毛沢東の執念深さによる両者の関係のなお一段落の展開がある。

 毛沢東は、自分が発動した文革運動が、中央から地方まで多くの党政高級幹部の大きな恨みを買ったことを知った。毛沢東は、人に恨まれないならともかく、一度恨まれたらいっそのこととことん恨まれよう、という人物だった。

 文革が進み、文革も自分も人々に嫌われていることを察知した毛沢東は、自分が叩かせた子分どもから慕われる周恩来が、死後、必ずや、自分を批判するに違いないと信じて、断固周恩来を死に追いやるのである。

 それでもなお、毛沢東に逆らわぬ従順な周恩来は、死ぬ直前、毛沢東の詩を読み上げさせ、毛を讃える「東方紅」を口ずさむ。

 周恩来が毛沢東にイカれたのは、毛沢東に弱点を握られ、常に脅迫されていたからである。だがそれだけではない。周恩来は共産主義と共産党の大義を信じ、毛沢東に従ったのは、毛沢東こそ大義を実現する人物と信じたかららしい。

 紅軍敗走の長征の最中、中共の大きな分岐点となる遵義会議まで毛沢東の上司であった周恩来の作戦はことごとく失敗し、農民出身の大胆で粗野な毛沢東の的を得たゲリラ戦のお陰で紅軍がなんとか
生き残る事が出来た。

周恩来はそんな毛の強い指導力、決断力に魅了されていったのだ。
この会議に於いて周恩来が毛沢東を支持したことにより毛沢東が中共の最高指導者に躍り出て人気実力共に毛沢東を圧倒していた周恩来が盲目的なまでに以後死ぬまで毛沢東に追従していくことになる。

その姿は周恩来という人間が異常な程のマゾフィストではないかと疑いたくなるほど痛々しいまでの忠犬ぶりを発揮することになるのだ。

 周恩来は毛沢東の迫害に耐え抜くが、革命家人生の最期にやっと毛沢東に逆らった。毛沢東から「投降派」として批判された周恩来は、「革命の晩節を全うする」ため、病院で毛に聞かせるべく叫ぶ、「私は党に忠実だ、人民に忠実だ、私は『投降派』じゃない!」

後列左から3人目 日本留学時 

 

 

 


最新の画像もっと見る