はいはーい。生意気娘の生意気節全開のお時間がやって参りましたよ~。
先に言っておきますけど、わたしは非難することに興味はないんですよ。「○○すべき!」とか、「××にしてほしい!」とか、そーゆー批判精神も、宝塚に関してはぜんぜん無いんでー。
わたしがブログで理屈こねるのは、単純に自分が観劇で持った感情を、言葉にして整理しておきたいからです。その感情がどこから来たのか、リクツをこねて探る作業が好きなんですね。(あと、文章書くのも好きなんだよな)
だから、まぁあくまでもわたしはこう感じましたよ、ってな話なので。
あまり頭に血を上らせたりなさらず、気楽に読んでいただけるとうれしいです。
…こーゆー前置き書かねばならんのがつらいわ。だって、よーするにシビアに突っ込みするよってゆー宣言ですから。雪ベルばら、脚本ヤバかったねー。
記事は何本かに分かれます。今日は脚本ツッコミ編だよ。純粋に脚本だけを分析しますので、今日の記事は組子は関係ないですからね。
***************************
●シーンがどうのの問題じゃない!
幻想とかクレーンとかロザリーとか、たしかに「これはどーなの」な場面が多いんですけど、この脚本のヤバさは、その場面だけが問題なわけじゃない気がする。そのヤバい場面を抜いたら、マトモな脚本になるのかってーと、そうじゃないような気がするんですよ。たとえばロザリーが出てこなくても、この脚本の筋はヤバいよ。
●主人公不在の物語!
この脚本、誰が主人公なの??
オスカル編っていうからには、オスカルを主人公にする意図だったんだろーけど、それが見事に失敗してるぞ!
主人公っていうのは、物語を見る目線でしょ。
この脚本、オスカルの視線でモノを見る部分なんか、ぜんぜんなかったじゃないですかー。話の中心に据えれば主人公になるワケじゃないんですよ。ちゃんと主人公の目線で話を動かさなきゃ。物語づくりの基本中の基本だと思うんだけど。
●主人公は、汗と涙を流すべし!
で、ね。面白い物語の条件っていうのは、主人公が苦労する!ことだとわたしは思うのですよ。恋愛モノでも冒険モノでも、主人公が艱難辛苦を乗り越えて、ハッピーエンドなり悲劇なりに終息する過程を、わたしたちは共感なり反発なりをもって見守るんじゃないでしょーか。主人公がラクしてる物語は、漫画でも小説でも、面白くないですよ。
今回のベルばら、オスカルが苦労してる姿をすこしも見せてもらってないから、オスカルにちっとも感情移入できないんですね。革命もいつのまにか始まってるし、オスカル自身が動くことで、物語が動く場面がなさすぎると思います。主人公が受身でどーするよ。つまり、オスカルが主人公の役割を果たしてないんですね。
●じゃあ、誰が主人公なのか。
いないんですよ、主人公(笑)
主人公不在の物語(笑)これがせめて、話の軸がアンドレに移ってしまって、なにげにアンドレ主人公だった!とかなら、「主人公が移っとるぞ!笑」と明るく突っ込んで終了なんだけど、この脚本が深刻なのは、オスカルの周囲のキャラクターがひとりも掘り下げられておらず、主人公不在で淡々と進むもんで、わたしら観客はドコに感情移入していいかわからないまま、物語の外に放りだされているんですね。フツーは主人公を媒介にして、話のなかに感情を沈めるんだけどね。
まあ、あれですね。敢えていうなら、感情移入できそうなキャラクターはアランとマロングラッセぐらいでしたね。その二人はかろうじて、人間らしい筋の通った言動になってましたね。いっそアラン目線にすりゃよかったのにね。
●「オスカル編」というタイトルが示すものは?
今回の脚本、主人公不在でわかりにくくはなってますが、100歩譲って「一人称でなく三人称の物語なのだ」と言い聞かせて眺めると、一応、話のスジは通ってるんですよ。支離滅裂ではないんです。で、その見えにくいスジをじーっと眺めて考えた結果、わたしは植田センセイが書き込んだテーマを見つけた!と思ったね。
「オスカルってこんな人!」
ズバリ、テーマ自体が「オスカル」なんですよ。「オスカルってこんな人(だと植田しんじは思います!)」っていう主張が、この脚本には貫かれているんですね。東宝のモーツァルト!の観劇記事で、わたしは「M!」はモーツァルトの生涯じゃなくて、天才とはなにか!という抽象的な概念自体を扱ったのだ、と書きました。それと同じことが、こともあろうにベルばらで起こってるんですね。
●オスカルという偶像崇拝
今回の雪ベルばら、オスカルの物分りがよすぎます。
衛兵隊がこっそり食事を家族に渡してた!っていうエピソードも、オスカル自身がそれを発見するのではなく、「オスカルは知ってたんだよ」というふうに描かれています。パリ行きをあらゆる人から止められるときも、ただ聖人のような微笑で、相手の気持ちを受け止めるだけ。で、オスカルをめぐる人々は、ひたすら「オスカルは…」「オスカルには…」とオスカルを称揚したり認めたりする発言を繰り返すばかり。
オスカルは、神様ですかい!
オスカル目線で描かれていないがゆえに、オスカルは「すばらしい理想の持ち主」「すばらしい剣の使い手」「誰にでも思いやりがあり」「誰からもたたえられる」っていう、オスカルの陽のイメージばかり一人歩きしています。そーゆーの、偶像崇拝ってゆーんじゃないの。オスカルが偶像化されちゃってるんですよ。偶像に感情移入はできませんよ。この脚本の最大の欠点はそこだと思うな。
●話が物理的に動かない!
そんな次第で、とにかく話が物理的に動いていかないんですね。展開がないんですよ。場面場面が「衛兵隊から見たオスカル」「マロングラッセから見たオスカル」「アンドレから見たオスカル」ってな具合で、ひたすらキャラクターによる「すばらしい!オスカル様!」の大合唱。
ただ、この脚本がよーするに植田センセイによる「オスカル」への強い思い入れによるラブコールだということは…なんかわかる…。思い入れが強すぎて、入れ込みすぎて失敗してんですよ。作者はキャラクターにほどほど距離を取らなきゃね。漫画とかでもたまにありますね。作者が一キャラクターに思い入れすぎて、どうもそのキャラクターをめぐる話がウェットになっちゃって、結果的につまんなくなっちゃうパターン。
あのね。まぁ革命を具体的に描け!とまでは言いませんですよ。(そうするのが手っ取り早いとは思うけど)世の中には、何の起伏もないありふれたエピソードが、なぜか胸を打つ!っていう話の作り方もありますからね。革命とか戦争とか、派手なエピソード使わない場合は、人の気持ちの変化で盛り上げるんですね。これをわたしは「心理展開」と(勝手に)呼んでます。せめてコレがあるとよかったねぇ。オスカルが市民の生活の現実を目の当たりにして、「お貴族サマの青臭い理想主義」から、ほんとうの意味での「市民の味方」に変化していく部分をね。
オスカル目線でオスカルが出会う出来事をキチンと描けば、オスカルが市民を見て、感じて、考えて苦悩する部分が出てくるはず。原作オスカルはそうだし、そういう(完璧なようで、じつは完璧でない)弱い部分にこそ、観客は共感すると思うんだけど。それが「人間を描く」ということなのだと、わたしは思うんだけどね。
●観念的であること。具体的であること。
今回の脚本、観念的すぎます。
植田センセイの目に、オスカルが完璧な人間に見えるなら、まぁ(わたしは違うと思うけど)それはそれで、その主張は認めましょう。感じ方は人それぞれ。
ただ、それを表現するのに、具体的なエピソードでもってするのではなく、他キャラクターの語りという手法を取ったのはあまりよろしくないですね。植田センセイの、オスカルに関するエッセイでも読んでる気分でしたよ。セリフを聞いている時にね。
革命部分とか、オスカルの日記でフェルゼンへの懸想が判明するくだりなどは、なにかベルばらの設定書を読んでいる気分でしたし。それじゃー、設定資料集読んだほうが早いじゃん。NHKBS2のベルばら番組でやってた、キャラクター早分かり、みたいな図解を見てるのと変わらないじゃん。
設定っていうのはあくまで物語をつづるためにあるもので、それ自体に存在意義はありません。キャラクターを物語るには、百の文章を尽くすより、一のわかりやすいエピソードが必要だと思う。キャラクターが何を考えているのか、作者が訴えたいことが何なのか、「具体的な」エピソードに置き換える作業が、物語を作るということじゃないのかね。
植田センセイの考えるオスカル像があるのなら、(たとえそれが間違った解釈でも)セリフに紛らせた「説明文」じゃなくて、具体的なエピソードで見せなきゃいけませんでしたね。
今回の脚本、ただの「オスカルについてのファン論文」になっちゃってるとこが問題ですよ。
****************************
今回の作品には、まだまだ言いたいこと山盛りです。クドい記事が今後もざくざくUPされることでせう。今日はとりあえず、ストーリーテリングの技術的な部分のみ自己流に語ってみました。自己流なので「違うだろっ!」とお思いの方にはすいません…。
先に言っておきますけど、わたしは非難することに興味はないんですよ。「○○すべき!」とか、「××にしてほしい!」とか、そーゆー批判精神も、宝塚に関してはぜんぜん無いんでー。
わたしがブログで理屈こねるのは、単純に自分が観劇で持った感情を、言葉にして整理しておきたいからです。その感情がどこから来たのか、リクツをこねて探る作業が好きなんですね。(あと、文章書くのも好きなんだよな)
だから、まぁあくまでもわたしはこう感じましたよ、ってな話なので。
あまり頭に血を上らせたりなさらず、気楽に読んでいただけるとうれしいです。
…こーゆー前置き書かねばならんのがつらいわ。だって、よーするにシビアに突っ込みするよってゆー宣言ですから。雪ベルばら、脚本ヤバかったねー。
記事は何本かに分かれます。今日は脚本ツッコミ編だよ。純粋に脚本だけを分析しますので、今日の記事は組子は関係ないですからね。
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●シーンがどうのの問題じゃない!
幻想とかクレーンとかロザリーとか、たしかに「これはどーなの」な場面が多いんですけど、この脚本のヤバさは、その場面だけが問題なわけじゃない気がする。そのヤバい場面を抜いたら、マトモな脚本になるのかってーと、そうじゃないような気がするんですよ。たとえばロザリーが出てこなくても、この脚本の筋はヤバいよ。
●主人公不在の物語!
この脚本、誰が主人公なの??
オスカル編っていうからには、オスカルを主人公にする意図だったんだろーけど、それが見事に失敗してるぞ!
主人公っていうのは、物語を見る目線でしょ。
この脚本、オスカルの視線でモノを見る部分なんか、ぜんぜんなかったじゃないですかー。話の中心に据えれば主人公になるワケじゃないんですよ。ちゃんと主人公の目線で話を動かさなきゃ。物語づくりの基本中の基本だと思うんだけど。
●主人公は、汗と涙を流すべし!
で、ね。面白い物語の条件っていうのは、主人公が苦労する!ことだとわたしは思うのですよ。恋愛モノでも冒険モノでも、主人公が艱難辛苦を乗り越えて、ハッピーエンドなり悲劇なりに終息する過程を、わたしたちは共感なり反発なりをもって見守るんじゃないでしょーか。主人公がラクしてる物語は、漫画でも小説でも、面白くないですよ。
今回のベルばら、オスカルが苦労してる姿をすこしも見せてもらってないから、オスカルにちっとも感情移入できないんですね。革命もいつのまにか始まってるし、オスカル自身が動くことで、物語が動く場面がなさすぎると思います。主人公が受身でどーするよ。つまり、オスカルが主人公の役割を果たしてないんですね。
●じゃあ、誰が主人公なのか。
いないんですよ、主人公(笑)
主人公不在の物語(笑)これがせめて、話の軸がアンドレに移ってしまって、なにげにアンドレ主人公だった!とかなら、「主人公が移っとるぞ!笑」と明るく突っ込んで終了なんだけど、この脚本が深刻なのは、オスカルの周囲のキャラクターがひとりも掘り下げられておらず、主人公不在で淡々と進むもんで、わたしら観客はドコに感情移入していいかわからないまま、物語の外に放りだされているんですね。フツーは主人公を媒介にして、話のなかに感情を沈めるんだけどね。
まあ、あれですね。敢えていうなら、感情移入できそうなキャラクターはアランとマロングラッセぐらいでしたね。その二人はかろうじて、人間らしい筋の通った言動になってましたね。いっそアラン目線にすりゃよかったのにね。
●「オスカル編」というタイトルが示すものは?
今回の脚本、主人公不在でわかりにくくはなってますが、100歩譲って「一人称でなく三人称の物語なのだ」と言い聞かせて眺めると、一応、話のスジは通ってるんですよ。支離滅裂ではないんです。で、その見えにくいスジをじーっと眺めて考えた結果、わたしは植田センセイが書き込んだテーマを見つけた!と思ったね。
「オスカルってこんな人!」
ズバリ、テーマ自体が「オスカル」なんですよ。「オスカルってこんな人(だと植田しんじは思います!)」っていう主張が、この脚本には貫かれているんですね。東宝のモーツァルト!の観劇記事で、わたしは「M!」はモーツァルトの生涯じゃなくて、天才とはなにか!という抽象的な概念自体を扱ったのだ、と書きました。それと同じことが、こともあろうにベルばらで起こってるんですね。
●オスカルという偶像崇拝
今回の雪ベルばら、オスカルの物分りがよすぎます。
衛兵隊がこっそり食事を家族に渡してた!っていうエピソードも、オスカル自身がそれを発見するのではなく、「オスカルは知ってたんだよ」というふうに描かれています。パリ行きをあらゆる人から止められるときも、ただ聖人のような微笑で、相手の気持ちを受け止めるだけ。で、オスカルをめぐる人々は、ひたすら「オスカルは…」「オスカルには…」とオスカルを称揚したり認めたりする発言を繰り返すばかり。
オスカルは、神様ですかい!
オスカル目線で描かれていないがゆえに、オスカルは「すばらしい理想の持ち主」「すばらしい剣の使い手」「誰にでも思いやりがあり」「誰からもたたえられる」っていう、オスカルの陽のイメージばかり一人歩きしています。そーゆーの、偶像崇拝ってゆーんじゃないの。オスカルが偶像化されちゃってるんですよ。偶像に感情移入はできませんよ。この脚本の最大の欠点はそこだと思うな。
●話が物理的に動かない!
そんな次第で、とにかく話が物理的に動いていかないんですね。展開がないんですよ。場面場面が「衛兵隊から見たオスカル」「マロングラッセから見たオスカル」「アンドレから見たオスカル」ってな具合で、ひたすらキャラクターによる「すばらしい!オスカル様!」の大合唱。
ただ、この脚本がよーするに植田センセイによる「オスカル」への強い思い入れによるラブコールだということは…なんかわかる…。思い入れが強すぎて、入れ込みすぎて失敗してんですよ。作者はキャラクターにほどほど距離を取らなきゃね。漫画とかでもたまにありますね。作者が一キャラクターに思い入れすぎて、どうもそのキャラクターをめぐる話がウェットになっちゃって、結果的につまんなくなっちゃうパターン。
あのね。まぁ革命を具体的に描け!とまでは言いませんですよ。(そうするのが手っ取り早いとは思うけど)世の中には、何の起伏もないありふれたエピソードが、なぜか胸を打つ!っていう話の作り方もありますからね。革命とか戦争とか、派手なエピソード使わない場合は、人の気持ちの変化で盛り上げるんですね。これをわたしは「心理展開」と(勝手に)呼んでます。せめてコレがあるとよかったねぇ。オスカルが市民の生活の現実を目の当たりにして、「お貴族サマの青臭い理想主義」から、ほんとうの意味での「市民の味方」に変化していく部分をね。
オスカル目線でオスカルが出会う出来事をキチンと描けば、オスカルが市民を見て、感じて、考えて苦悩する部分が出てくるはず。原作オスカルはそうだし、そういう(完璧なようで、じつは完璧でない)弱い部分にこそ、観客は共感すると思うんだけど。それが「人間を描く」ということなのだと、わたしは思うんだけどね。
●観念的であること。具体的であること。
今回の脚本、観念的すぎます。
植田センセイの目に、オスカルが完璧な人間に見えるなら、まぁ(わたしは違うと思うけど)それはそれで、その主張は認めましょう。感じ方は人それぞれ。
ただ、それを表現するのに、具体的なエピソードでもってするのではなく、他キャラクターの語りという手法を取ったのはあまりよろしくないですね。植田センセイの、オスカルに関するエッセイでも読んでる気分でしたよ。セリフを聞いている時にね。
革命部分とか、オスカルの日記でフェルゼンへの懸想が判明するくだりなどは、なにかベルばらの設定書を読んでいる気分でしたし。それじゃー、設定資料集読んだほうが早いじゃん。NHKBS2のベルばら番組でやってた、キャラクター早分かり、みたいな図解を見てるのと変わらないじゃん。
設定っていうのはあくまで物語をつづるためにあるもので、それ自体に存在意義はありません。キャラクターを物語るには、百の文章を尽くすより、一のわかりやすいエピソードが必要だと思う。キャラクターが何を考えているのか、作者が訴えたいことが何なのか、「具体的な」エピソードに置き換える作業が、物語を作るということじゃないのかね。
植田センセイの考えるオスカル像があるのなら、(たとえそれが間違った解釈でも)セリフに紛らせた「説明文」じゃなくて、具体的なエピソードで見せなきゃいけませんでしたね。
今回の脚本、ただの「オスカルについてのファン論文」になっちゃってるとこが問題ですよ。
****************************
今回の作品には、まだまだ言いたいこと山盛りです。クドい記事が今後もざくざくUPされることでせう。今日はとりあえず、ストーリーテリングの技術的な部分のみ自己流に語ってみました。自己流なので「違うだろっ!」とお思いの方にはすいません…。
Kさんの文を読むのが好きなので、まずは一回目が読めて嬉しいです。
私の場合、色々感想や脚本やキャストのことを考えることがあっても、なかなかうまく文に出来なくて。
Kさんの文を読んでいると、自分の考えていたこととリンクしていたことがあったり、あらたに気がついたり、そういうのが楽しいです。
私も、ダイジェスト映像を見て、なんか悟りきった表情のオスカル・・と思ってました。
あの、子守り歌で衛兵隊の皆を説得する所も、あまりに聖人なオスカルで・・だから見てると恥ずかしくなるんじゃないでしょうか。
なんかムズムズしちゃうんですよね。
「オスカルの偶像化」・・ホントにそうですね。
原作のオスカルって、宝塚のオスカルみたいに完璧じゃないし、あんな悟りきってないし。
だから、ストーリーを楽しむ話にはなりっこないんですかねえ。
ストーリーを楽しめないと、○○さんのオスカル、●●さんのアンドレ、みたいに役者さんを楽しむ。
もしくは、毒殺未遂だの、バスティーユだの、個別の場面を楽しむ・・なんてことになってしまう。
それで結局は「ベルばらは祭りだから」と、観てる方も諦めちゃうような・・
もう充分植田さんはベルばらに関わったのだから、このへんで脚本を全く違う人が書いたら、また違っていたのかもしれないですね・・
お邪魔しているのに、長文失礼いたしました。
次回を楽しみにしています♪
そうそう、そうなんだよね!って共感するところがたくさんですよ。
本当、突っ込みどころ満載の脚本で(怒)
Kさんのレポ、続きが早く読みたいです。楽しみにしてますね。
今週末ミズドレですか~。私は来週土日に行きます。
アサドレとの交代式があるのも楽しみです♪
私は毎日せっせとマン喫かよって「天上の虹」読み直してます(笑)
今やっと9巻です…。
役替わりとか、役者さんの個性を眺めるには、ホントに面白い演目ですよね。(役替わりするほうはめちゃくちゃ大変でしょうけど・・・)大劇場ロビーのいつにない熱気を見ても、「ああ、まさに祭りだぁ!」と毎回思います。
21日に見たときは「祭りだからね」と自分をなぐさめてたんですけど、昨日(25日)はめっちゃ舞台が熱くなってて、「祭りだからね」→「祭りだぜイエーイ!」に、なんか自分的テンションが上がりまくってしまいました・・・。ベルばらって恐ろしい・・・。
やまこさまは東京でご覧になるのですよね??
きっともっともっとも~っと熱くなっていることでしょうねv レポを心待ちにしております!
脚本は突っ込みドコロ満載ですけど、そこんとこを「気にしない気にしない。ストーリーは見ないふり」と言い聞かせて見ると、衛兵隊のところとか、最初のショー?みたいなところとか、キラキラしている雪っ子を見るのがたーのしいーvv なんか、昨日二回目を見たら、かなりハマってきてしまいました、雪ベルばらに(笑)説明セリフとかは、雪っ子を眺めるBGMみたいな気持ちで、おもいっきり聞き流しております(笑)
天上の虹、わたしも漫画喫茶で読もうっとv
ミズさんのお茶会の予定だったから泊まることにしたんですけどね。
じゃあ土曜日はどこかですれ違うかもですね!
とりあえずムラ雪はこれで私は終わりです。
東京ね~、どうしましょう。Kさんは行きますか?
それを決めないまま星ダンスコン、COPAとすでにチケット取ってしまって、また早まったかな…と少々反省しとります(笑)
多分次の宙月花はみに行かないと思うので、まぁいっか☆と自分に言い聞かせて(笑)
東京ねー・・・そうなんですよねー・・・。ゴールデンウィークが狙い目ですけど、まだ決めかねております・・・。てゆーか、COPAってもう発売してましたぁ!?友の会もまだだったような。わたしもCOPAかダンスコンか、どっちかは行こうかなーと思っておるんですけど、いまは雪ばらでいっぱいいっぱいで(笑) まだハッキリ決めてないんですよー。
宙月花、大劇場は一回は行くつもりですし、ベルばらのDVDは買いたいしー。予算の配分で頭が痛いです!幸せな悩みなんですけども・・・。
GW厳しそうですね…。
私は相変わらず友の会にも入っていないので、チケ取りは悪戦苦闘ですよ。
星COPAはカード会社貸切公演分で取りました。
そういうのをフルに使わないと私は無理です(泣)
でもGWだとかしドレがみれないんですよね。
かしドレをとるかかし茶をとるかで、今大変悩んでおります。
そんな何回も東京には行けません。えーん。
あー。カード会社ですか!大劇場以外でも貸切あるんですねぇー。しかも売り出し早ッ!!
いま、猛烈に雪ベルばらがマイブームで(笑)自分的にめちゃくちゃ盛り上がっているので、東京行きたくて仕方ないです。んー、でも新幹線代が!!(泣)
かし茶orかしドレって、究極の選択ですね!かしドレのときにかし茶があればみんな喜ぶと思うのに、そういうワケにもいかないんですね…。