思いつくままに

思いつくままに日々のあれこれを綴ります。

OOFC CONCERT

2017-03-18 05:15:51 | 日記
Essay-24 3/17/2017   OCFC CONCERT

3月12日(日)OCCAのRobert Moore Theater において、OCFC(Orange County Friendship Chorus)の第7回コンサートが開かれ、家内と共に行ってきた。

Orange Coast Collegeの駐車場に車を止め、キャンパス内を歩いて会場に向かったが、どこのアメリカのキャンパスも広くのびのびしている。道々連れになった高齢の日本人が日本の大学は余程のマンモス大学でなければ、こんなに広いキャンパスはありませんよ、と言っていたがそうなのだろう。 私も子供たちの関係でいろいろアメリカのキャンパスを見てきたが、確かに広くのんびりし、そしてアカデミックな雰囲気が漂っている。学生時代は、何ら世間とのしがらみがない大学の敷地内を闊歩して、友人と難しい話をするがよい。無限に広がる可能性を考える貴重な時間なのである。また、なにか甘酸っぱい思いもふっとわいでてくる。若さゆえのことだろう。ゆっくり5分ほどあるいて、キャンパス内のRobert Moore Theater についた

さて、今回7回目のコンサートとのことだが、もともとは7~8年前に日本人によるベートーベン第九合唱のコンサートが、ダウンタウンのWalt Disney Hole で開催されたが、それが契機となって続いているようだ。当時いろんな地区で集まったコーラスの人々(それぞれ40~50名)が、いくつか集まり、最終的には400人近くの大合唱になった。日本人がなぜか年末になるとベートベンの合唱を歌うということも合わせ新聞に載ったものだ。結局このコンサートは大成功をおさめたが、これで解散するのはもったいないということで、その後有志が残り、活動を続けてきたのが、OCFC である。

実は7~8年前の合唱には、家内も参加しており、私も家内の練習ぶりを良ーく覚えている。目標はDisney Hole で合唱する為だということは聞かされていたが、その練習ぶりには正直まいった。晴れたる青空、、という合唱の1節ぐらいしか知らない私は、車に乗るたびに家内の練習用のCDを聞かされていた。ドイツ語でアルトのみの練習曲である。 主旋律はソプラノが歌い、アルトはそのサブ(?)であるということぐらいしか知らない私には、それだけを聞いているとおかしくなってくる。 素人の私には耳に心地よくはないのである。家内はこれを暗記しなければいけないということで、必死に覚えようとしていたが、車の隣に座る私はたまったものではなかった。尤も家内にはそのことは言わなかったが。さて、公演当日、会場に集まってくる人を見てたまげた。なにせ400人近い日本人コーラスが男性はタキシード、女性は上は白のブラウス、下は黒いスカートを着てあつまってくる。観客席は彼らの身内または関係者と思われるに人が会場を席捲しているようだ。そこはまるまる日本人の世界であった。舞台後方にずらーと並ぶコーラスが入場してきたが、よくこれだけの人が集まったものだ。 目を凝らしてよく見ると、家内の緊張した顔が豆粒のようにみえる。おもわず手を振ったが向かうからは見えないだろう。長い長い演奏ののち、ようやくコーラスが始まった。あのドイツ語でよくわかない旋律を歌っていたが、本番では見事に合唱になっており、驚くほど、見事であった。400人近いコーラスが声をそろえて歌い上げるその迫力たるものはひととおりではなく、腹にどーんと響いてくる。終了時の大歓声はおざなりのそれではなく、本当の感激の拍手だった。正直私も精一杯拍手したものだ。コンサートに参加できた、家内の一生一度の晴れ姿に大きな拍手を上げたものだ。あれからもう8年たつ。

さて今日のプログラムをみると、アメリカ人による弦楽四重奏がある。なるほどそれでアメリカ人の観客も多いわけだ。いいことだ。これも小さな日米交流である。 そんなことを思っているとコーラスが始まった。小さなコーラスで始まったが中々大きく響いてこない。なにせ総勢40名弱、迫力がないのだ。メンバーが少ないので致し方ないが、特に男性は6~7名だったので、ソプラノ、アルトに負けて、その役割を果しえなかったと思う。これは文句のいえない当然の結果なのだ。それでは自分が参加して一人でもその歌声を強くするかといわれれば、なまけものである私は、御辞退申し上げる次第。想像するだけで、あのような声は出ない。以前メンバーの一人に参加するよう呼びかけられたが、カラオケ程度、それも酒がかなり入った上での余興としてたまにうたった程度の私、とてもじゃないがとお断りした。

最後に(ふるさと)を歌ったが、これが私には一番響きがよかった。静かなコーラスのハーモニーが心地よい。日本語がゆえに歌の風景が目に浮かび、コーラスと共に自分の想いの世界に入ることができるのである。日本語の歌をもっと歌ってほしいと思うのだが、ここはアメリカ。海外での日本人コーラスはそうもいかないのだろう。

コーラスが終わり、会場出口での知人友人の挨拶が始まった。こういう時、大体私は人の輪から外れて、ぼ~としている。昔なら煙草をふかし時間をつぶしいたが、もう30年来禁煙をしており所作がない。 (園山さん お久しぶりです。M子です。) と突然声をかけられた。思わず家内を探したが、その30代の髪の長い女性は私を見続けている。えーっと思い、どうもと答えていた。その後少し会話をつづけた時点で、ようやく思い出した。そうだ、前の会社でに働いていたM嬢だ。彼女の隣にいたアメリカ人が夫ですと紹介してくれる頃にようやくまともな会話になったと思う。彼女は社内では一番優秀な日本人だった。様子がすっかり変わり綺麗になっていた。わずかな会話だったが、彼女には申し訳思った。もう少し話をしたかったと思ったが、後の祭りである。まあいい。又会う機会もあるだろう。そのときはゆっくり話をしたいものだと思う。これも日本人の集まりに出かけた成果だ、もっと積極的に出歩かなければと思った次第である。 



孫の帰省と次女の引っ越し

2017-03-03 09:50:05 | 日記
Essay-23 3/3/2017   孫の帰省と 次女の引っ越し

 前回に引き続き孫の話です。さて2月25日、今年最初のBBQ を行った。Sunnyvale から孫を連れて帰省していた長女が翌日帰るので、そのためのお別れパーティーであり、また少し早いが次女の誕生日の祝いでもある。あわせて、長女の連れ合いが近々、シニアマネージャーに昇進するとのことでそれも合わせいる。夕方4時半から火を入れ、8時頃に終えたが、さすがに寒く皆厚着をしていた。参加者は長女、その連れ合い、3か月の赤ちゃん(私たち夫婦への初孫)、長男、次女、そして我々夫婦の7人である。 家族全員がそろった今年初めてのBBQだったが、いつもの様に私が前日から裏庭を水で掃除し、テーブル、椅子、BBQグリル、網、チャコール、その他を準備しておく。買い物をはじめ、下準備は家内の役で、当日のテーブルセットは子供たちが手伝ってくれる。これは毎回のルーティンで変わらない。そして肉の焼き手は私の役割で、ずいぶん前から定着している。 長男が15~6歳になってからは、焼き手、肉の切り手、等の手伝いをしてもらうようになったが、基本的に男がサービスするのは変わらない。アメリカに住んで30年、BBQは男がするものと思いこみ、最初から私が担当したが、それがそのまま習慣となった。私にとっては面倒だがうれしい習慣である。チャコールにアルコールをしみさせて放置すること15分、火をつけ20~30分ほどするとチャコールもほどよく赤く安定し燃え出す。肉を焼き始めるのにちょうど良い火加減だ。ひらのビーフ、骨付きカルビ、野菜、貝、チキン、そしてまたビーフと順番も決まっている。今はもう失敗もせずと順調に行えるが、昔は火をつけても上手く火が熾らなかったり、火が強すぎたり、網の位置が近すぎたり、そのため肉を焦がしたり中々うまくいかなかった。

 子供が小さいときは、肉を焼く係とそのあと、肉を切りそして子供たちに食べさせたりで忙しかった。特にカニやロブスターの時は、身を取り出すのが大変で、私は椅子に座る暇もないほどだった。そして、子供たちに手がかからなくなって、いわゆる家族団らんで楽しめるようになってくると、一人また一人と大学に行き家を出て行ったが、最後の次女が大学の寮に入ってからも、家内と二人だけのBBQも時々行っている。特に独立記念日は、二人でBBQをしたのちに、コミュニティーの花火大会に椅子をもって見学に行くのが恒例になっている。

 さて、今回はBBQの途中で日本にスカイプをして、私の兄夫婦と話をしたが、私の兄が孫を見ながら呼びかけるオーイ、オーイという呼び方が、私のそれとそっくりで皆、後で大笑い。兄の二人の子供たちはそれぞれ4人、2人の女の子供達がいて、ひと家族は買い物中、そしてもうひと家族は車で移動中で、それぞれスカイプで話し合った。3家族それぞれが独立して別行動をしていても、電話で話せるという現実が不思議でしようがない。兄夫婦は二人きりだったので、さびしかったにちがいない。(案外、そうでないかな?) それが終わりいつもの火遊びをした後、さむくなったので部屋に入り、長女が用意したケーキを食べた。その間のかたずけは全員でおこなう、これも恒例。次女へのバースデーソングを歌い、その後は連れ合いへ昇進ソング(バースデーソングの変形)を歌いケーキを吹き消した。 いつもそうだが、もうこんな機会はないだろうなと、ある種の感慨を感ずる。一期一会と思っている。次女もいなくなるのだ!!

 さてこのBBQの中心は3週間家にいてくれた孫である。なんともいいようがないほど可愛い。自分の子供たちが小さかったことを思い出そうとするが、細かいことは忘れている。それでよいのだと思う。 子供がその子を可愛がる。これは順番で不思議でも何でもない。ただ、健康であればよいとつくずく思うばかりだ。順番通りいって欲しい。

 3週間、多くの時間を孫と過ごした。とにかく朝食を食べた後は皆仕事に出かける。残るのは長女と孫とそして家で仕事をしている私だけである。自然と昼食も3人で、午後の散歩も3人となる。ある時、ふっと思ったが、わが子と過ごした時間は、朝食そして帰宅後の限られた時間,それに土日だったが、それもゴルフは仕事の一部と称して遊んでいた。学校のこまごましたことも含め殆ど家内に任せていた。私は仕事に全力で向かっていたように思う。この3週間孫と一緒にいたことなど、昔は考えられなかったのである。それが普通の父親だと思う。当然のことだが、家内は3人の子供の面倒を一人で切り盛りしていたのだ。よくやったくれたなーとしみじみ思う。ご苦労様。今、仕事で頭を悩ますこともない境遇の中、孫の世話ができる立場を感謝する。だからこそ孫が違った意味で可愛いのだろう。尤も必死に働く時代はそれはそれでいいものだった。俺は家族を養うためにこんなに努力をしているのだと思う楽しみもあったのだから、、と、これも言いわけか。

 今、この時間は神様が与えてくれた(私はクリスチャンでも何でもないが)ご褒美なのだろう。後は長男、次女がどんな孫をみせてくれるかが次の楽しみだ。その前に結婚だが、なるべく言わずにと思うのだが、凡人の悲しさ、ついつい口に出てしまう。反省

 そして翌日2月の26日早朝、長女夫婦と孫は車に物をいっぱい詰めて帰って行った。長男もいつもように、North Hollywood のアパートへ戻り、日本から帰国して1年近く我が家にいた次女も新しいアパートへ引っ越していった。 誰もいなくなったのである。

 静かになった。赤ちゃんの泣き声が聞こえないことがこれほど静か(寂しい?)とは予想もしなかった。 そこで心の内で誓ったのは、孫をはじめ子供たちがいなくなったことを、家内の前で決してこぼさない、ということである。弱音は見せないと変に突っ張ることしした。 その日の夜、炬燵に二人でいるとき、すっかり静かになったねーと家内がつぶやくように言ったとき、勝ったと思った。やれやれと思い、その言葉を聞いた後であれば、私が弱音を吐いてもいいだろうと思った次第である。そんな馬鹿なことを考えていた自分であるが、それを人はおじいちゃんというのであろうか?