思いつくままに

思いつくままに日々のあれこれを綴ります。

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狂言を観て

2017-05-14 05:06:23 | 日記


Essay-28 5/13/2017   狂言をみて

 5月6日、日米劇場で開催された狂言をみてきた。20年位前に同じ場所で、能を見たが、この類の舞台はそれ以来である。私の目的は、単純に能と狂言の違いを見てみたいとの気持ちであった。家を早めに出て時間があったので、隣のドイザキギャラリーで開かれていた竹と書道の展覧会を見学した。 広い空間をぜいたくに使い、竹で川を作り、道を作り、茶席に至る空間を作っている。竹の創作(生花だが非常に大きい)ものびやかで、それでいてまとまっており、一見に値する。 その間に見事な書を掲げており、おもしろい世界であった。狂言を見る前に、心の下準備をさせてもらったようで、有り難かった。

 さて今回の狂言だが、父の野村万作(人間国宝)、息子の野村萬斎ほか5~6名の出演者たち(こう呼んでいいのか判らないが)が、総勢である。私は狂言をみるのは初めてで、何の知識もない。父である万作が30年以上前に日本のTVのコーヒーの宣伝で、サルとキジの話をしていたのを覚えている。そして息子の萬斎が同じくTVの朝の連続ドラマで魅力ある人物を演じていた、それくらいである。以前見た能は、正直いうと、難しくよく判らなかった。能を見るにはそれなりの下準備が必要というのが、私の結論だった。以前アメリカ人に能について聞かれたが、その生い立ち、極限までそぎ取った踊りが能にによる表現だという事は言えても(それも覚束ないが)、その心情を伝えることはできなかった。

 さて、今回は開演の前に、狂言とは何かという萬斎の説明があったので、ずいぶん助かった。萬斎は日本語で説明するのだが、アメリカ女性がそれを英訳する。事前のすり合わせが良かったのだろう、十分にこなれていて、判りやすかった。日系人は勿論のこと、アメリカ人の観客にも好評だったと思う。笑い声がそれを物語っていた。

 能と狂言は約650年前に出来た素朴な踊りで、兄弟のようなものだと最初の説明でいわれた。世阿弥が創作し、3代将軍、足利義満が援助したことは言うまでもない。又、能、狂言とも同じ舞台を使うことが多いとのこと。正面には平たい大きな舞台があり、松が描かれている。左の入り口から舞台に続く道は、橋掛かりという。同じく2本の松がおかれていた。そこからシテが出入りする。右の壁には小さな入り口があり、茶席の躙り口のようだなと思っていると、そこから共演者が現れてきた。それが舞台の構成のすべてで、ほかの飾り物はない。

 能は、シテという踊り手が面をつけて、謡と太鼓、小鼓、笛に合わせて舞う。シテは紫式部、小野小町、楊貴妃、在原業平など有名な人が多いとのこと。また能面は、見ようによっては喜怒哀楽すべてを見ることができ、それもシテの演技によるものが多い。又、文語、候分で難しい。以前見た能は確かに日本語の謡だったが、候文であることと
特別な言い回しに為、私にも理解しずらかった。アメリカ人にはちんぷんかんぷんだったに違いない。また、この世でない人(幽霊、亡霊)を演じることも有り、幽玄の世界を表しているといるということも何かの本で読んだことがある。 着物も豪華で派手なものもあり、その意味では現代のコスプレに通じると言っていた。ここでは多くの笑いを得ていた。

 狂言は、太鼓、小鼓、笛などはなく、踊り手の体、そして自身による謡で表現される、一種のパントマイムである。 またシテはその地方にいる、普通の人が演じ、滑稽ものであるという。大いに笑い飛ばすという舞台で、そこには人間、動物、植物の差はなく一体であるとか。 そして一番の風刺の対象は人間であるとのことだ。

 そして、狂言とはなにか? それを実際の踊り(舞)で表現してくれた。コミカルな蚊と人間の対決、それは蚊が人の血を吸い勝利する一回戦、人が団扇(着物の袖を広げて)で、蚊を吹き飛ばし勝利する2回戦を演じた。又、鐘については色んな音の違いを異なる擬音で、表現してくれた。人馬一体(二人の人間が表現する)を正面と横からみせ、同じ表現でも見る位置から感じ方が違うことを見せてくれた。これで狂言なるものがおおよそ理解できた。実際観客のなかから、多くの笑いを聞くことができたので、この説明は成功だったと思う。

 さて、演劇内容であるが、最初はフクロウという。フクロウに取りつかれた弟を正気に戻すために、兄が祈祷師に祈祷を依頼するが、弟を治療中に兄にもそのフクロウが乗り移り、最後には祈祷師もフクロウにのりうつれるというコメディものだ。フクロウのコミカルな動きが観衆から大いに笑いを誘った。

 次は、かわかみ という題で、野村万作がシテのおじいさんを演じた。夫婦者で、目が悪いお爺さんが目が良くなるが、その為おばあさんと別れなければならないことになり、そのあと再度、目が悪くなると、わかれられなくなる、そんな風刺物だった。人間国宝の野村万作の演技で、注意してみていたが、彼の声が伸びがない事は残念だった。やはり年のせいであろうか。

 そして最後は野村萬斎がシテである棒縛りである。これは主人から黙って酒を飲んだため、両手を棒に縛られた使用人が、それでもなんとか酒を飲み続け、最後にまた主人に見つかるという話で。萬斎のコミカルの仕草が、受けていた。彼の朗々とした声は、魅力があった。

 夕方5時から休憩45分を含め、8時までの上演時間だったが、総じて良かったと思う。帰り際の雑踏の中で、多くの観客から良かったとの声が聞かれた。一口で言って判りやすい舞台だった。コミカルな動作を強調していたので、解説なしでも判るくらいだ。

 能が分かりにくく理解に苦しむ、というのは、シテの動き、その心情に同化することが難しいのだと思う。見て理解するよりその主人公を見ている観客が、主人公の一部にでもなりきることができれば、もっと理解することができると思う。あくまで私の意見にすぎないが、ただそんな気がするだけである。その為にある程度の予備知識が必要だと前に述べた。

 狂言はそれがない。肩肘張らず気軽に落語を見に行く感覚で良いと思う。能と狂言が同じ時期にできた、兄弟のような物と説明したのは、萬斎である。その風刺を笑い飛ばしてほしいとの考えのもと、狂言が生まれたのだ。肩肘を張る必要はない。でも落語家にも名人がいるように、狂言にも厳しい練習に裏打ちされた、名人がいることは間違いない。萬斎が説明したように、古くから伝わる形があり、それを習得する厳しい練習があるからこそ、又、自由な演技が生まれるのであろう。もし次回があるとすれば、自然、動物それもサルとキジを見せてほしいと思う。

 それでは能と狂言のどちらが見たいかと言われると、やはり能をみたい。難解なものに挑戦したいという気持ちである。そしてその舞台に自分の感情を移入できるかを試してみたい。それだけである。アメリカ人が寿司、すき焼き、てんぷらを知り、桜、富士山、新幹線、浅草、京都等をしってくると、次に必ず言ってくるのが、日本人特有の世界、感覚、感情である。例えば禅の世界、幽玄の世界、わび、さびの世界であり、日本人の神秘の世界に憧れるようである。武士の世界といっても過言ではないと思う。一つ行きつくものとして能があげらえる。能を見て、聞くとなんとなくその世界の入り口に入ったような気分になるのではないか。 それから先は、日本人もアメリカ人も差はない。本人が如何に取り組むかである。

 話は変わるが、日本人は外人との接し方において、自分をアピールする方法が下手だとよくいわれる。会議でも堂々と意見をいえない。勿論、言葉として英語の問題がある。流暢に話すことは大変難しい。しかし、仮にできたとしても、アメリカ人が自己主張するようには日本人は訓練されてないのである。特に商売上問題になるが、YESと理解できそうなNOをつかう。通訳するときに一番困る言葉だ。日本人は相手の面子を壊さないために、直接NOという言葉を発しない。商売上だけでなく、微妙な言い回しを使いNOという事が多いのである。 それを翻訳することは難しい。最近、AI(人工知能)の発達で、自動翻訳機が格段に進化したと聞く。以前は文法の改良から通訳に入ったのだが、それには限界があり、数万、数十万の、過去の会話のデータを解析することによって、同時通訳は、はるかに進歩を遂げてきた。碁、将棋において一流プロが人工知能にまかされているのが現実だ。通訳も格段にうまくなっている。でも日本人の言葉が持つ、あいまいさ、あや、YESときこえるNO,そんな微妙な言葉を翻訳できるであろうか?

 又、日本人は優柔不断で、決定に時間がかかるといわれる。それは組織上の問題もある。上司の決定を待たなければならないし、それに至る過程が多い。かなりの決定権を持って会議に臨むアメリカ人はその手間を省くことができる。そういう構造上の問題もあるが、ひとつには、日本人が自然に使う言葉のあいまいさがある。誰かが、そういうあいまいな表現をさけて、AI が翻訳しやすい言葉をしゃべればよい、いや、そういう風にしゃべるようになる、と言っていたが、それは、可能だろうか? 

アメリか人が笑う時、私から見るとことさら大きな声で、人に聞かせ、さあ一緒に笑いましょうという様に笑う。日本人は、普段笑うとき馬鹿笑いをしない。特に女性は口を手で隠して、笑う。それが日本なのだ。この手の類はいっぱいある。例えば、
*アメリカ人は議論をして、私の意見が素晴らしい、これも出来るし、あれも出来る。これは優秀だと説明する。仕事上のことであればまだ理解できるが、自分自身のことでも同様だ。日本人はそこに謙遜が入る。遠慮も入る。そして最後まで相手を負かすことはどこかで避けている。表現も7~8割でとめる。 残りは含ませる。
*わかりやすいのがゴルフだ。アメリカ人は自分が出来ようが出来まいが、人に教えようとする。教え方を時々みるが、そんな教え方で大丈夫とと思えるぐらいの人が、堂々とおしえている。そこに恥じらいはない。
*ゴルフについてどのくらいで回りますか? と聞かれると、たいがい自分のベストスコアー近くをいつも回っているようにいう。日本人は自分が悪い時のスコアーを、私はこれぐらいですよと遠慮していう。こんなことは他にもいっぱいある。

 これはアメリカ人が他民族、異文化、異宗教の多民族国家であり、ことさらはっきり言わないと、理解しえないという環境にあるがためであり、日本人は単一民族で、宗教、文化、伝統、そして同じ言葉を使うという歴史上の同一性による。はっきり言わなくても理解出る国民であるがためであらう。腹芸などその最たるものである。謙遜という文化は、日本そのものを表す言葉だと思っている。

 以上日米の違いを書いたのは、それが能と狂言の違いだと言えないだろうか? と思ったからである。 能が優秀で、狂言が劣ると言っているのではない。それに至るまでの考え方、環境がことなるので、最終的な表現がことなるのである。

うがった見方かもしれないが、如何でしょうか?
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