今泉隆雄さんが31日14時お亡くなりになりました。
悲しくて、悲しくて、寂しくて、悔しくて、信じたくありません。
2008年タンロン遺跡近くの食堂で昼食
九月四・五日と仙台を訪れた時、丸二日間一杯一杯話しました。
初日は東北歴史博物館の展示を拝見した後、館長室で3時間以上話しました。ご退職後、宮城県の東北歴史博物館の館長をなさっておられました。
この展示を見学に来ないか、というお誘いで伺ったものだ。本当は学生が一人同行するはずだったのだが・・・。
博物館での館長講義のこと、旧石器ねつ造事件のこと、地震履歴のこと、多賀城政庁の新たな調査のこと、教え子の近況のこと、秋田城の機能に関すること、木簡のこと、娘さんとイスラエルに行かれたこと、そして病気のこと等々。調子が悪いとは仰っていました。私が行く一週間ほど前まで入院してたんだとも仰りました。その後仙台市内のいつものお店で楽しいお酒を頂きました。でも、もちろんいつもよりは随分と節制されていました。夜お別れしたのはもう10時頃だったかもしれません。
フッと、「もう会えないかもしれんからなー」と仰ったのがとても気になっていました。
20130905 ちょうど閖上神社の再建の神事が行われていた。
翌日は、津波でやられた荒浜小学校や閖上港・神社跡を案内して頂きました。閖上漁港ではその干潟が古代以前からあり、畿内からの征夷大将軍や使者達も場合によってはこの港を使ったのかもしれないと聞きました。この海の先からは西に太白山がはっきり見え、航海の目標とされたのだと教えて頂きました。
東福寺の廃墟、閖上中学校の校舎
この時の話しはビデオに撮ったので私とのほぼ最後のやりとりの声が入っているのだが、アップの方法が判らない。
最後に仙台駅で牛タンをごちそうになりました。それが最後でした。
牛タンのランチを二人で美味しそうに頂きました。家族にと牛タンのお土産まで買って頂きました。もちろん直ぐに頂きました。
それからわずか二ヶ月後に体調を崩され、直腸に穴があき、多臓器不全の状態になり、二ヶ月近く集中治療室に入っておられました。お見舞いに行くべきかどうか少しだけ躊躇しました。
奥様がもう少ししたら集中治療室から出られるかもしれないと、少し明るい希望を仰ったので、それを信じました。いや、悪くなるはずがない、きっと回復なさるに違いない!!そう確信していました。だから、集中を出られたらナマ湯葉を送ろう、私の服用している免疫不全に効果のある漢方薬を持参しよう、城柵官衙検討会の頃には次の講座の原稿の話くらいできるかもしれない。楽観的にみたかったのでしょう。
今頃とても後悔しています。
振り返ってみると、私が博士号をとったのも、それを出版する機会を与えて下さったのも、そして大学に行くことを後押しして下さったのも今泉さんだった。でも、「大学に甘い期待をしてはいけない。あなたにとって本当にいいところになるかどうかはよくわからない」とも仰りました。
初めてお会いしてから三五年になる。とても、とても大切な恩人であり、研究者とはこうあるべきだというお手本のような研究者だった。
中国にも行きました。渤海にも行きました。そしてヴェトナムタンロン遺跡では貴重な文字塼を三日間炎天下で釈読、分析していただきました。その釈読の成果は科研費の報告書に掲載してあります。
東北地方の主な城柵官衙遺跡を見ることができたのも、自らの運転で案内して下さった今泉さんのお蔭です。その先々で、車中で通説を批判し、自説を理路整然と述べられるのを聞いて、間もなく「東北古代史」の著作が出るのだな、と感じたものでした。全てが貴重な踏査でした。まだまだ、新しい研究成果をお出しになられる蓄積の一杯ある方でした。
それがもう聞けないなんて、悲しすぎます。
悔しいです。なぜ集中治療室で意識が無くてもお訪ねしなかったのか、と悔やんでも悔やみきれません。お通夜・ご葬儀は一月七・八日だそうです。でも、四日に荼毘に付されるそうです。お別れに行ってきます。
高橋美久二さん、鎌田元一さん、そして今泉隆雄さん、いずれも私より少し上の学恩深き方々です。その方々を60代半ばで失うつらさは言い表しようがありません。もう東北には行きたくなくなるかもしれません。そこにあの独特の声の、方言の、今泉さんがいらっしゃらないから。さっさとあちらの世界に行ってみんなで長岡京論でも戦わせようかな。
本当に悲しくて、悔しくて、寂しくて、三ヶ月ぶりのブログがこんな形になろうなんて想像もしていませんでした。とりあえず、こいつをポチッと押して下さいね→
悲しくて、悲しくて、寂しくて、悔しくて、信じたくありません。
2008年タンロン遺跡近くの食堂で昼食
九月四・五日と仙台を訪れた時、丸二日間一杯一杯話しました。
初日は東北歴史博物館の展示を拝見した後、館長室で3時間以上話しました。ご退職後、宮城県の東北歴史博物館の館長をなさっておられました。
この展示を見学に来ないか、というお誘いで伺ったものだ。本当は学生が一人同行するはずだったのだが・・・。
博物館での館長講義のこと、旧石器ねつ造事件のこと、地震履歴のこと、多賀城政庁の新たな調査のこと、教え子の近況のこと、秋田城の機能に関すること、木簡のこと、娘さんとイスラエルに行かれたこと、そして病気のこと等々。調子が悪いとは仰っていました。私が行く一週間ほど前まで入院してたんだとも仰りました。その後仙台市内のいつものお店で楽しいお酒を頂きました。でも、もちろんいつもよりは随分と節制されていました。夜お別れしたのはもう10時頃だったかもしれません。
フッと、「もう会えないかもしれんからなー」と仰ったのがとても気になっていました。
20130905 ちょうど閖上神社の再建の神事が行われていた。
翌日は、津波でやられた荒浜小学校や閖上港・神社跡を案内して頂きました。閖上漁港ではその干潟が古代以前からあり、畿内からの征夷大将軍や使者達も場合によってはこの港を使ったのかもしれないと聞きました。この海の先からは西に太白山がはっきり見え、航海の目標とされたのだと教えて頂きました。
東福寺の廃墟、閖上中学校の校舎
この時の話しはビデオに撮ったので私とのほぼ最後のやりとりの声が入っているのだが、アップの方法が判らない。
最後に仙台駅で牛タンをごちそうになりました。それが最後でした。
牛タンのランチを二人で美味しそうに頂きました。家族にと牛タンのお土産まで買って頂きました。もちろん直ぐに頂きました。
それからわずか二ヶ月後に体調を崩され、直腸に穴があき、多臓器不全の状態になり、二ヶ月近く集中治療室に入っておられました。お見舞いに行くべきかどうか少しだけ躊躇しました。
奥様がもう少ししたら集中治療室から出られるかもしれないと、少し明るい希望を仰ったので、それを信じました。いや、悪くなるはずがない、きっと回復なさるに違いない!!そう確信していました。だから、集中を出られたらナマ湯葉を送ろう、私の服用している免疫不全に効果のある漢方薬を持参しよう、城柵官衙検討会の頃には次の講座の原稿の話くらいできるかもしれない。楽観的にみたかったのでしょう。
今頃とても後悔しています。
振り返ってみると、私が博士号をとったのも、それを出版する機会を与えて下さったのも、そして大学に行くことを後押しして下さったのも今泉さんだった。でも、「大学に甘い期待をしてはいけない。あなたにとって本当にいいところになるかどうかはよくわからない」とも仰りました。
初めてお会いしてから三五年になる。とても、とても大切な恩人であり、研究者とはこうあるべきだというお手本のような研究者だった。
中国にも行きました。渤海にも行きました。そしてヴェトナムタンロン遺跡では貴重な文字塼を三日間炎天下で釈読、分析していただきました。その釈読の成果は科研費の報告書に掲載してあります。
東北地方の主な城柵官衙遺跡を見ることができたのも、自らの運転で案内して下さった今泉さんのお蔭です。その先々で、車中で通説を批判し、自説を理路整然と述べられるのを聞いて、間もなく「東北古代史」の著作が出るのだな、と感じたものでした。全てが貴重な踏査でした。まだまだ、新しい研究成果をお出しになられる蓄積の一杯ある方でした。
それがもう聞けないなんて、悲しすぎます。
悔しいです。なぜ集中治療室で意識が無くてもお訪ねしなかったのか、と悔やんでも悔やみきれません。お通夜・ご葬儀は一月七・八日だそうです。でも、四日に荼毘に付されるそうです。お別れに行ってきます。
高橋美久二さん、鎌田元一さん、そして今泉隆雄さん、いずれも私より少し上の学恩深き方々です。その方々を60代半ばで失うつらさは言い表しようがありません。もう東北には行きたくなくなるかもしれません。そこにあの独特の声の、方言の、今泉さんがいらっしゃらないから。さっさとあちらの世界に行ってみんなで長岡京論でも戦わせようかな。
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