極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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蔑視された東北・・・会津・戊辰戦争

2016-05-13 12:11:19 | 日記

以下の文は、素人が思う会津藩の戦い、意味不明文、可笑しな内容等多々あると思います、日記と言う事で。

一説では東北の民は、2000年以上前に日本に渡来したスキタイ族の血を引く方々が多いと言われています。
馬を愛し、馬術に長けてたスキタイ族、その名残りとも言われる「曲り家」(L字形平面の家屋、母屋と馬屋がL字形に一体化している。)・・・旧約聖書に出てくる、12部族(有色人種)の一部が騎馬民族に征服されスキタイ族に同化し、一部が日本の東北に辿り着いたと言えそうです。東北の地で長き年数を経て、原東北の民となった人々と言われています。会津藩の民もスキタイ族のDNAを受け継いでいる方もいるかも知れませんね。スキタイ族は原日本民族(ネィティブ・ジャパニーズ)の一つと言えると思います。
当時の薩摩、長州等々から見れば東北の地・会津藩(藩主、松平容保)は所詮蛮地、薩摩、長州は・・・

昨今の幕末研究では、私達が考えているような幕末ではなかったようです。フリーメーソン(世界を支配することを最終目標「グローバリズム」とする組織を支援する団体で日本では最末端がロータリークラブです。現世界も間違いなく大きな力を行使していると言われています。)の日本流入、これらはタブーの領域かも知れませんが事実でしょうし、戦後のマッカーサー、当時の総理、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)、現在の日本の官僚の課長級以上はほぼ100%フリーメーソンと言われています、利権が絡んでいるとの説もあります。この流れは現代も綿々と間違いなく生き続けていると言われています。

日本が長い鎖国から解かれて開港したと同時に、諸外国から大勢のフリーメーソンがどっと流れ込んで来ました。(ペリーも勿論フリーメーソンです。)これらのフリーメーソンは明治維新の大きな原動力となっています。
幕末、日本を支配しようとしていたのはロスチャイルド派フリーメーソンです。
倒幕派を動かしたのが英国系フリーメーソン、幕府側に食い込んでいったのがフランス系フリーメーソンというように、ユダヤ特有の両建て戦略に基づき日本植民地策をスタートさせていました。
彼らは、それぞれ幕府と薩長の忠義さを逆手にとり、裏で巧妙にけしかけ、日本を泥沼の内戦に持ち込み、内戦で弱体化したのち他のアジア諸国同様、最後のアジアの非植民地日本を植民地にしようとしていたと言われています。
孝明天皇はこれらフリーメイソンの細部情報を、会津藩と関わりがある茶人・千利休(ヤタガラスの上位の人物:日本の天皇を裏で支える人物、茶人と言う事でカモフラージュしています。)の子・少庵等々を介して日本の国体の真相、欧米の日本策も相当詳しく情報を得ていたと思います。孝明天皇が攘夷であったと言う理由がこのあたりにあるかも知れません。
宮内大臣を務めた、田中光顕の記によれば、孝明天皇は病死していません、以後、明治天皇を京都6条でヤタガラスと共に裏天皇として支え生涯全うしたと言われています。

戊辰戦争は、イギリスの後押しでできた傀儡政権、その明治新政府に不満を持つ者も多く出てきました。薩摩、長州を中心に作られた明治新政府を相手に、不満を持つ旧幕府軍の戦いです。多くの悲劇を生んだ明治初期の内戦と言えそうです。

今でも、決して会津藩は賊軍じゃありません!との声が聞こえてきそうです。
会津の藩士達は、「ならぬものは・ならぬ」のもと生きていたようで、事大主義を大変嫌っていたことが分ります。大変正義心の強い藩だったと言えるようです。


日本人が忘れてはいけない会津藩士の生き様、会津藩には創設時から御親藩の家柄でありながら将軍家を敬う、尊皇佐幕(尊王:天皇を敬うこと。佐幕:幕府を佐(たす)けること。)の藩風、家訓があります。この家訓を貫き通した第9代会津藩主、松平容保以下、家老、家臣、藩士等・・・毎年一回この家訓を守るため拝聴式を行っています。義をもって倒るるとも・不義をもって生きず。会津藩士は義に生きた武士の中の武士、清き日本人だなと思います。

戊辰戦争では大量の西洋小銃が使用されました。当時、米国は自分で直接、官軍か幕軍のどちらかに一方に武器を売るということをしませんでした。米国はフランスと英国にその中古の銃器を売り、フランスと英国がそれぞれ薩長、幕府側の両方に武器を売りましたが、所詮南北戦争の中古品、背後には英国商人グラバーが米国の南北戦争後の大量の武器中古品を売りつけ巨額の利益を得るとともに薩摩・長州・土佐の幕倒派を支援・・・日本を弱体化させるために、欧米列強等が日本人同士を戦わせようとした力が一部あったかなと思える時があります。

幕末の背景は欧米列強の技術力、軍事力の前に次々と要求を飲まされてゆく幕府に多くが失望、幕府に政権を任せていては日本は欧米の植民地にされるという危機感が生じていました。幕府は本来日本を統治すべき天皇家をないがしろにし、勝手に国を外国に売り渡している!という怒りが生じ尊王攘夷(尊王とは、天皇を敬う。攘夷は外国人を排斥する思想)運動が起きます。

欧米に対抗するには、中央集権的な国家に改変する必要があり、分権的な幕藩体制では困難、近代的な国民軍でなければ欧米列強の侵略に対抗できません、それにはどうしても武士階級の解体が是が非でも必要で、明治維新で武士階級の反乱がなかったことは世界史で見ても凄いことだと思います、欧米列強は幕末の日本国内の武士の反乱による国内の混乱を待ち望んでいたと言う説があります。これらの諸政策を行うには幕府などの旧体制は邪魔だったでしょう。

孝明天皇(開国に対し反対しておられました。)崩御後、即位したのは薩長を支持した中山忠能を外祖父にもつ睦仁親王(後の明治天皇)が即位、討幕をもくろむ薩長側の公家(朝廷に仕える貴族、上級官人の総称、天皇に近侍、または御所に出仕していた。)が勢いを盛り返し、幕府に近い公家を失脚させようとしていたようです。

皇位継承した明治天皇、若い天皇を握った討幕派の公家は、大政奉還を行った徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)に対し、追い討ちをかけるように薩摩長州の両藩に倒幕の密勅を下しています。京都守護職の会津藩、京都所司代の桑名にも朝敵として討伐の密勅が下りました。
「王政復古の大号令」(大政奉還後に、長州、薩摩両藩が中心となって出させたもので幕府を廃止、天皇のもとに新たな職を置いて有力な藩が共同で政治を行う。)、「大政奉還」(慶応3年10月14日、徳川一五代将軍 慶喜が征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上することを申し出、翌日朝廷がそれを許可したこと。)、これらが成って蛤御門の変で退けられた長州側の公家も復帰を許され、権威も回復、先の天皇(孝明天皇)では朝敵となった長州が、新帝となり官位が復旧し、今度は幕府や会津藩が朝敵となりました。

理不尽にも朝敵かどうかは、「背後にいる公家」に大きく左右されたように思います!
薩摩藩は長州藩と裏で秘密協定を結んだとも言われています。自分の藩が得をするから新政府側に就つく藩が多かったように思います。

鳥羽伏見の戦の最中、岩倉具視は偽物の錦の御旗(天皇の菊のご紋の入った旗・・・岩倉具視の腹心、玉松操のデザインを元に大久保利通が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達、半分を京都薩摩藩邸で密造、もう半分は数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てています。以後、戊辰戦争の各地の戦いで薩長両軍を中心に使用、新政府、官軍の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった幕府側、会津藩に非常に大きな打撃を与えました。)を勝手に作り、これを戦の先陣に掲げ戦っています!
会津藩こそ官軍なのに、錦の御旗を勝手に掲げ、いつの間にか薩長こそ官軍と・・・

当時、会津藩が大切に持っていた天皇から拝命した、御宸翰(ごしんかん:松平容保に孝明天皇から送られた書)
堂上以下暴論を陳べ 不正の所置増長に付き
痛心耐え難く 内命下したる処 速やかに領掌
憂患を掃攘し 朕が存念貫徹の段 全く其の方の忠誠
深く感悦の余り右壱箱を遣わすもの也
文久三年十月九日

唯一、会津藩にとって汚名を晴らす物的証拠、新政府はこの事が明るみになることを恐れ明治に入ってから、会津藩関係者に明るみにしないよう交渉したと言う話が残っています。

鳥羽伏見の戦い、北越戦争、そして会津戦争、会津藩の降伏は藩の心の敗北、滅亡を意味したと思います。
戦いの中で一度新政府側に恭順(相手に従う。)を申しいれています。恭順を申し入れた際、新政府側の条件は、藩主・松平容保の斬首、城の没収、領地の没収です。会津藩の家臣は全員受け入れることは出来ない内容だったようです。会津藩の状況からして当然と思います。

西郷頼母(会津藩の家老・・・武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職)一族の集団自決は悲惨を極めました。
頼母の母、妻、娘とことごとく自害して果てました。小さな子供はこれから何が起きるかも分からずニコニコしていたそうです。
頼母の妻千重子は、その子を刺し殺し、自ら胸を刺して武士の妻としての最期を成し遂げました。女達はいずれも辞世の歌をよみ、武家の女として最期のたしなみを乱すことも恥と考え、従容として自らを刺して死んでいきました。自害して果てた一族は二十一名という悲惨さであったそうです。

俺達は(会津藩士達)は江戸を守り、天皇を守ってきた、何も間違っていない!

もし、降伏すれば、自ら罪を認め
無罪の主君、容保様を有罪にしてしまう。我々は捌きを天に預け、賊を討ち果たした後に、後世の正当な判断を待つ。義に殉じて死ぬか、不正義を受け入れて生きるか。
1年半の戦いでした。
会津藩で有名な白虎隊、婦女子も含めて果敢に戦いましたが、力尽き降伏となりました。

慶応四年、八月~九月の会津鶴ヶ城の攻防戦は、日本近代史の一大汚点、恥部で日本人が目を背けてはならない事実のようです。
会津藩が賊軍となると、誰も彼もが官軍の旗になびき、刀折れ矢が尽きて降伏した会津藩は城にあった松平家代々の甲冑や骨董らをはじめとし一般家庭も含め、全てを略奪されました。
薩長軍らの蛮行や強姦も多発、婦女子が捕らわれ性の対象として扱われ、監禁同様の暮らしを強いられていました。
略奪や婦女子への暴行、拉致、監禁は各藩が競って行い、抵抗した婦女子を全裸にして殺し、樹木に吊り下げた例もあったことなど詳細に記されています。

官軍は、亡くなった会津藩士、親、兄弟、子供の死体を集めることは許しませんでした、遺体は腐乱し野犬に食いちぎられ・・・数か月後、やっと遺体を集めることが出来多と言われ、会津の方々が、後世長く恨みを持っ要因の一つと言われています。官軍は日本近代史に無いような残虐性を働いています。

会津藩は明治2年に、官軍に抵抗した会津藩士等々を全国に対し見せしめとして「木戸孝允」は、当時の北のはて東北、下北斗南に住むよう命じましたが、多くの会津藩士等々は厳しい環境等々で亡くなりました。この明治政府「木戸孝允」の策は、最初から会津藩を棄民(きみん:国家が民を捨てること。)にしてしまうことを策していたと言われています。この怨念は間違いなく現在も続けていると言われています。

会津藩の生き様は日本人が忘れている義を貫く、天皇を敬う姿勢は見事だったと言えると思います。
この生き様は現在の会津の地、福島にも生き続けていると思いますし、逆に薩摩等に対する怨念は現在も生き続けているかも知れません。
会津藩がもし残っていたら義を貫く、天皇を敬う、正義心が強いかなり違った明治政府が生まれ、違った歴史が作られた可能性があります。
心より朝廷、幕府に信頼されていた会津藩・・・

以後、明治13年46歳、日光東照宮宮司となった会津藩主、松平容保は自害せず多くを語らなかったと言われています。
自害すればどれ程楽であったか・・・当時の会津藩は文武に優れ、武威では薩摩と肩を並べる雄藩です。会津藩士の子弟は食事の前に正座したら、まず切腹の作法をさらってから食事をしたと言うくらいの武断の藩で藩主が死を恐れるなんて事はありえません。
容保は御宸翰(ごしんかん:松平容保に孝明天皇から送られた書)を生涯大切にしていたそうです。私達に日本人の心、正義、皇室の大切さを教えてくれたように思います。
明治26年、都内で59歳の生涯を閉じました。

勝てば官軍、負ければ賊軍!
この時から日本は大きく舵は切られたように思う昨今です。

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