昨日、ある人の訃報に接した。
あまりのショックで今も打ちのめされている。
那須の幼稚園を引き受けてから知り合い、このブログにもコメントをくださったりした。
この一年間、気になりながら連絡もしないでいた。
今はその事実を噛み締めるしかない。
その人に勇気づけられるようにして、
私は自分の考えをもっとストレートに綴ることにする。
今度の総選挙の争点のひとつに「憲法改正」がある。
今回、本当に問われていること、
隠された本当の争点は、「主権在民」である。
私たちの主権者としての自覚。
そんなものはないだろうと、為政者たちは高を括っている。
原発が最大の争点といえるのは、
ヒロシマ、ナガサキ以来、核は日本人の運命と密接に結びついているからだ。
そのうえさらにフクシマの原発事故を経験した私たちは、
原子力の悪夢から脱却し、
新しいエネルギー政策を世界に提唱できる立場にある。
唯一の被爆国だからこそ、
憲法9条のような、きわめて理想的な平和原理を固持することができる。
そこに日本に生まれた私たちの使命がある。
その日本が原発に回帰し、原発を輸出したり、
集団的自衛権によって米国の軍事行動に加担したり、
さらには沖縄への基地集中を放置し続けることは、
何よりも私たち自身の使命への裏切りである。
私は、この使命に対する自覚は、
すべての日本人のなかに(あるいはすべての日本語を話す人たちのなかに)生きていると思う。
しかし、何かが私たちを骨抜きにしている。
それは「天皇」をめぐる問題に向き合うことなく、ここまで来たからだ。
憲法9条を守ろうとする人たちのなかには、
第1条(日本国の象徴としての天皇)は改正すべきだという人が多い。
以前、平和運動の集会に参加したとき、
皇室の人たちの名前をわざわざ呼び捨てにする人がいて驚いたことがある。
現行の日本国憲法を開いてみると、
まず最初に、
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび…」
という言葉が目に飛び込んでくる。
これは天皇の言葉だ。
当たり前のことだが、
日本国憲法は、まず天皇自身によって裁可され、公布せしめられたものだ。
この憲法の第一条は、
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。
私自身の見解では、
今、もっとも重要なのは、
・私たち国民に主権者としての自覚があるのか、
・私たちは主権者として、天皇に国民統合の象徴としての地位を認めるのか、
ということだと思う。
もし認めるとすれば、それは私たちから天皇に対する「委託」(お願い)になる。
いったい、誰が好き好んで、現在の天皇家の人たちのような「公務」を引き受けるだろうか。
ほとんど個人性を否定され、政治的な発言を抑制される一方で、
ありとあらゆる誹謗中傷を浴びせられる。
それなのに、今の天皇皇后ほど、徹底して戦後日本の民主主義のために働いている人たちはいないだろう。
彼らはたぶん、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という仕事を真剣に引き受けているのだ。
象徴ということは、
今の天皇をみれば、日本人のありようが見えるということだ。
日本国民が統合している様子が見えるということだ。
私は、今の天皇や皇后のあり方や発言は、
日本人の見識を世界に伝えるうえでも、きわめて有効な作用をしていると思う。
その意味で、彼らは「日本国の象徴」は体現している。
問題は、「日本国民統合の象徴」のほうである。
これは天皇にはどうしようもなく、国民のほうが努力するしかない。
主権が存するのは国民なので、
天皇が束ねるわけにはいかない。
では何が主権者である国民を統合するのかといえば、
それが「憲法」なのだと思う。
憲法とは、日本国民が、自分たちが目指す国家のあり方を示した理念である。
自分たちを代表する為政者に対して、
国家をこのように運営してくださいという「信託」なのだ。
その憲法を「改正」するということは、
主権者である私たちが、国家に対する「信託」の中身を変えるということだ。
そうであるなら、本来、
その動きは「国民の信託」を受ける側の政治家たちからではなく、
信託する側の私たち国民のなかから出てこなければならない。
ところが、今、
私たちはまるで自分たちが主権者であることを忘れたかのように振舞っている。
今、この選挙で追認されようとしているのは、
原発も、集団的自衛権も、秘密保護法も、
すべて国民の生命の尊重、思想、表現、学問、通信の秘密の自由など、
憲法が定める理念を踏みにじるものだ。
しかし、憲法第12条にあるように、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
今、問われているのは、私たちの、いや私自身の「不断の努力」だ。
日本国民は、憲法に関してだけは、
本当の一致にいたるために「不断の努力」を続けなければならない。
そして、そこでは「天皇をめぐる問題」を避けて通ることはできないだろう。
いわば個人の人生のなかで、過去のなんらかの問題に蓋をし続けるかぎり、
本当に自発的、創造的な人生を始めることはできないように。
以下は、私自身が日本人として、
自分のなかに自発性と創造性を獲得しようとして、自分なりに考えてきたことだ。
いわば日本国憲法に対する、私個人の信条告白である。
私は、近代日本はきわめて特異な運命をたどったと考えている。
丸山真男氏が『日本の思想』という本のなかでこんなことを書いていた。
明治憲法を起草する際、ドイツに赴いた伊藤博文が、
ヨーロッパには国家の軸として「キリスト教」があることに気づき、
日本でそれに代わる国家の支柱として、天皇制に着目したというのである。
それによって、日本は東洋の国でありながら、
福沢諭吉の「脱亜入欧」という言葉のように、
西洋の一神教の精神を柱に近代国家を建設したのだと思う。
そして、実際に、西洋の帝国主義国家のように振る舞い始めた。
天皇は、一神教の神になったのだ。
湾岸戦争のとき、当時のブッシュ大統領が、
開戦前に牧師をホワイトハウスに招き、神に祈ったというニュースを印象深く覚えているのだが、
米国という国は、今でも「神の名のもとに」戦争をする。
日本は、天皇の名のもとに戦争をして、国民と他国の人々に多大な被害を与えて敗北した。
そのとき、天皇の「玉音放送」で人々がその声を聞き、
その後のいわゆる「人間宣言」によって「現人神」であることが否定されたことは、
日本人にとって、霊的に非常に大きな意味があったと思う。
天皇が一神教の神となり、その後、人間となる。
それは擬似的な「キリスト体験」とさえ言えるのではないか。
しかし、人間としての天皇は、戦争の責任を取ることを許されなかった。
私は、米国の日本支配への意図がもっとも強力に働いたのは、
むしろ天皇に責任をとらせなかったところにある、と思っている。
国家元首である以上、たとえその人に落ち度がなかったとしても、
その立場での責任は免れない。
しかし、天皇に責任をとらせなかったことで、
米国は、天皇が本当に人間になること、あるいはキリストになることを阻んだのだ。
もし天皇が責任をとることができれば、
日本人は今よりもはるかに自発性と創造性を発揮できていたと思う。
責任は「自我」の能力である。
責任を逃れていれば、一見、楽なようでいて、実は自我が弱められる。
日本の歴史のなかで、天皇は明らかに重要な位置を占めている。
それをどう定義しようが、日本の民族性は天皇抜きには語れないだろう。
その意味で、天皇は日本民族の「自我」だといえるかもしれない。
しかし、その天皇から、米国は主体性を奪ったのである。
そのことに一番苦しんだのは、おそらく天皇自身だったろう。
私は、「万人天皇説」ということを考える。
もし天皇が国民統合の象徴であるなら、私たち一人ひとりが天皇なのだ。
そのあり方を天皇が代表して、象徴している。
現実には、私たち一人ひとりが日本人を代表している。
私たちの振る舞いを見て、外国の人たちは「日本」の印象をもつ。
天皇から奪われた主体性は、
国民の側から取り戻していくしかない。
そのとき、現実の天皇も、より自由になるのではないか。
現行憲法が「押しつけ」だという人、
そして憲法の冒頭の天皇の言葉も、仕方なく書かされものだと見る人もいるかもしれない。
けれども、私は「深くよろこび」という言葉に真実を感じるのである。
もし強制されたとしたら、「深くよろこぶ」(rejoice)という言葉は使わなかったのではないか。
今の日本国憲法の内容は、天皇が国民の総意と受け止め、
深く喜んだものだった。
誰が書いたとか、押しつけられたという先入観を排して、
改めて無心に、憲法の序文を読んでみると、、
そこには当時の人々の「決意」と「誓い」がある。
現実に親しい人々を戦争で失い、
戦争を起こしてしまった、戦争を止められなかった人々の後悔と、
それでも未来に向かって、ふたたび日本を建設しようと誓った人々の決意が伝わってくる。
その人たちも、今はいない。
戦争で命を落とした人たちも、
この憲法を起草した人たちも、
昭和天皇も、みなこの世を去った。
けれど、この憲法は、彼らの言葉だ。
彼らの内面を通過し、彼らが認め、国家建設の理念とした言葉なのだ。
ルドルフ・シュタイナーという人に、
「すべて決意はひとつの力である」という言葉がある。
一度、決意したことは、私たちが間違いだと認識しないかぎり、
いつまでも力として生き続ける。
だから、決意した以上は、その成就に向けて努力し続けなければならないと。
私たちは、この憲法に書かれていることを間違いだと認識するだろうか。
憲法に書かれていることが、誰が言ったことなのか、
日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかは、実はどうでもいいことだ。
問題は、私自身がその内容に共感し、私自身の生き方の支えにできるかどうかだ。
私にとって、日本国憲法は、
自分がこの国に生まれてきた理由といえるほどに重要な理想である。
私には、この憲法の言葉から、
日本人だけではない、戦争に苦しみ、国家に抑圧された人々、
新しい国家建設に身を投じた人々の思いが、
地上を生きるものたちへの、死者からの委託として聞こえてくるのだ。
彼らのメッセージは、
主権は国家にあるのではなく、一人ひとりの個人にある、ということだ。
だからこそ、「国権の発動たる戦争」を永久に放棄したのだ。
今の政権が推し進めようとしている、集団自衛権も秘密保護法も原発も、
すべて国民が主権者であることを否定している。
そして、アントロポゾフィーにとっては、
一人ひとりの個人の意志のなかにこそ、人類の未来がある。
だから、私にとって今度の選挙は、
日本の未来だけでなく、人類の未来が問われているに等しい。
最後に、
どの候補に投票することが有利かという議論がよくあるが、
今の時点では、一人ひとりが自分の意志で投票することがもっとも効果的だと思う。
票を食い合うということは確かにあるだろう。
しかし、何より重要なのは、国民の意志が存在することを示すことだ。
最大の敗北は、私たちに意志がないと示すことだ。
私たちこそが主権者であることを示すことができれば、
未来につながると、私は考えている。
あまりのショックで今も打ちのめされている。
那須の幼稚園を引き受けてから知り合い、このブログにもコメントをくださったりした。
この一年間、気になりながら連絡もしないでいた。
今はその事実を噛み締めるしかない。
その人に勇気づけられるようにして、
私は自分の考えをもっとストレートに綴ることにする。
今度の総選挙の争点のひとつに「憲法改正」がある。
今回、本当に問われていること、
隠された本当の争点は、「主権在民」である。
私たちの主権者としての自覚。
そんなものはないだろうと、為政者たちは高を括っている。
原発が最大の争点といえるのは、
ヒロシマ、ナガサキ以来、核は日本人の運命と密接に結びついているからだ。
そのうえさらにフクシマの原発事故を経験した私たちは、
原子力の悪夢から脱却し、
新しいエネルギー政策を世界に提唱できる立場にある。
唯一の被爆国だからこそ、
憲法9条のような、きわめて理想的な平和原理を固持することができる。
そこに日本に生まれた私たちの使命がある。
その日本が原発に回帰し、原発を輸出したり、
集団的自衛権によって米国の軍事行動に加担したり、
さらには沖縄への基地集中を放置し続けることは、
何よりも私たち自身の使命への裏切りである。
私は、この使命に対する自覚は、
すべての日本人のなかに(あるいはすべての日本語を話す人たちのなかに)生きていると思う。
しかし、何かが私たちを骨抜きにしている。
それは「天皇」をめぐる問題に向き合うことなく、ここまで来たからだ。
憲法9条を守ろうとする人たちのなかには、
第1条(日本国の象徴としての天皇)は改正すべきだという人が多い。
以前、平和運動の集会に参加したとき、
皇室の人たちの名前をわざわざ呼び捨てにする人がいて驚いたことがある。
現行の日本国憲法を開いてみると、
まず最初に、
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび…」
という言葉が目に飛び込んでくる。
これは天皇の言葉だ。
当たり前のことだが、
日本国憲法は、まず天皇自身によって裁可され、公布せしめられたものだ。
この憲法の第一条は、
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。
私自身の見解では、
今、もっとも重要なのは、
・私たち国民に主権者としての自覚があるのか、
・私たちは主権者として、天皇に国民統合の象徴としての地位を認めるのか、
ということだと思う。
もし認めるとすれば、それは私たちから天皇に対する「委託」(お願い)になる。
いったい、誰が好き好んで、現在の天皇家の人たちのような「公務」を引き受けるだろうか。
ほとんど個人性を否定され、政治的な発言を抑制される一方で、
ありとあらゆる誹謗中傷を浴びせられる。
それなのに、今の天皇皇后ほど、徹底して戦後日本の民主主義のために働いている人たちはいないだろう。
彼らはたぶん、「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という仕事を真剣に引き受けているのだ。
象徴ということは、
今の天皇をみれば、日本人のありようが見えるということだ。
日本国民が統合している様子が見えるということだ。
私は、今の天皇や皇后のあり方や発言は、
日本人の見識を世界に伝えるうえでも、きわめて有効な作用をしていると思う。
その意味で、彼らは「日本国の象徴」は体現している。
問題は、「日本国民統合の象徴」のほうである。
これは天皇にはどうしようもなく、国民のほうが努力するしかない。
主権が存するのは国民なので、
天皇が束ねるわけにはいかない。
では何が主権者である国民を統合するのかといえば、
それが「憲法」なのだと思う。
憲法とは、日本国民が、自分たちが目指す国家のあり方を示した理念である。
自分たちを代表する為政者に対して、
国家をこのように運営してくださいという「信託」なのだ。
その憲法を「改正」するということは、
主権者である私たちが、国家に対する「信託」の中身を変えるということだ。
そうであるなら、本来、
その動きは「国民の信託」を受ける側の政治家たちからではなく、
信託する側の私たち国民のなかから出てこなければならない。
ところが、今、
私たちはまるで自分たちが主権者であることを忘れたかのように振舞っている。
今、この選挙で追認されようとしているのは、
原発も、集団的自衛権も、秘密保護法も、
すべて国民の生命の尊重、思想、表現、学問、通信の秘密の自由など、
憲法が定める理念を踏みにじるものだ。
しかし、憲法第12条にあるように、
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」
今、問われているのは、私たちの、いや私自身の「不断の努力」だ。
日本国民は、憲法に関してだけは、
本当の一致にいたるために「不断の努力」を続けなければならない。
そして、そこでは「天皇をめぐる問題」を避けて通ることはできないだろう。
いわば個人の人生のなかで、過去のなんらかの問題に蓋をし続けるかぎり、
本当に自発的、創造的な人生を始めることはできないように。
以下は、私自身が日本人として、
自分のなかに自発性と創造性を獲得しようとして、自分なりに考えてきたことだ。
いわば日本国憲法に対する、私個人の信条告白である。
私は、近代日本はきわめて特異な運命をたどったと考えている。
丸山真男氏が『日本の思想』という本のなかでこんなことを書いていた。
明治憲法を起草する際、ドイツに赴いた伊藤博文が、
ヨーロッパには国家の軸として「キリスト教」があることに気づき、
日本でそれに代わる国家の支柱として、天皇制に着目したというのである。
それによって、日本は東洋の国でありながら、
福沢諭吉の「脱亜入欧」という言葉のように、
西洋の一神教の精神を柱に近代国家を建設したのだと思う。
そして、実際に、西洋の帝国主義国家のように振る舞い始めた。
天皇は、一神教の神になったのだ。
湾岸戦争のとき、当時のブッシュ大統領が、
開戦前に牧師をホワイトハウスに招き、神に祈ったというニュースを印象深く覚えているのだが、
米国という国は、今でも「神の名のもとに」戦争をする。
日本は、天皇の名のもとに戦争をして、国民と他国の人々に多大な被害を与えて敗北した。
そのとき、天皇の「玉音放送」で人々がその声を聞き、
その後のいわゆる「人間宣言」によって「現人神」であることが否定されたことは、
日本人にとって、霊的に非常に大きな意味があったと思う。
天皇が一神教の神となり、その後、人間となる。
それは擬似的な「キリスト体験」とさえ言えるのではないか。
しかし、人間としての天皇は、戦争の責任を取ることを許されなかった。
私は、米国の日本支配への意図がもっとも強力に働いたのは、
むしろ天皇に責任をとらせなかったところにある、と思っている。
国家元首である以上、たとえその人に落ち度がなかったとしても、
その立場での責任は免れない。
しかし、天皇に責任をとらせなかったことで、
米国は、天皇が本当に人間になること、あるいはキリストになることを阻んだのだ。
もし天皇が責任をとることができれば、
日本人は今よりもはるかに自発性と創造性を発揮できていたと思う。
責任は「自我」の能力である。
責任を逃れていれば、一見、楽なようでいて、実は自我が弱められる。
日本の歴史のなかで、天皇は明らかに重要な位置を占めている。
それをどう定義しようが、日本の民族性は天皇抜きには語れないだろう。
その意味で、天皇は日本民族の「自我」だといえるかもしれない。
しかし、その天皇から、米国は主体性を奪ったのである。
そのことに一番苦しんだのは、おそらく天皇自身だったろう。
私は、「万人天皇説」ということを考える。
もし天皇が国民統合の象徴であるなら、私たち一人ひとりが天皇なのだ。
そのあり方を天皇が代表して、象徴している。
現実には、私たち一人ひとりが日本人を代表している。
私たちの振る舞いを見て、外国の人たちは「日本」の印象をもつ。
天皇から奪われた主体性は、
国民の側から取り戻していくしかない。
そのとき、現実の天皇も、より自由になるのではないか。
現行憲法が「押しつけ」だという人、
そして憲法の冒頭の天皇の言葉も、仕方なく書かされものだと見る人もいるかもしれない。
けれども、私は「深くよろこび」という言葉に真実を感じるのである。
もし強制されたとしたら、「深くよろこぶ」(rejoice)という言葉は使わなかったのではないか。
今の日本国憲法の内容は、天皇が国民の総意と受け止め、
深く喜んだものだった。
誰が書いたとか、押しつけられたという先入観を排して、
改めて無心に、憲法の序文を読んでみると、、
そこには当時の人々の「決意」と「誓い」がある。
現実に親しい人々を戦争で失い、
戦争を起こしてしまった、戦争を止められなかった人々の後悔と、
それでも未来に向かって、ふたたび日本を建設しようと誓った人々の決意が伝わってくる。
その人たちも、今はいない。
戦争で命を落とした人たちも、
この憲法を起草した人たちも、
昭和天皇も、みなこの世を去った。
けれど、この憲法は、彼らの言葉だ。
彼らの内面を通過し、彼らが認め、国家建設の理念とした言葉なのだ。
ルドルフ・シュタイナーという人に、
「すべて決意はひとつの力である」という言葉がある。
一度、決意したことは、私たちが間違いだと認識しないかぎり、
いつまでも力として生き続ける。
だから、決意した以上は、その成就に向けて努力し続けなければならないと。
私たちは、この憲法に書かれていることを間違いだと認識するだろうか。
憲法に書かれていることが、誰が言ったことなのか、
日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかは、実はどうでもいいことだ。
問題は、私自身がその内容に共感し、私自身の生き方の支えにできるかどうかだ。
私にとって、日本国憲法は、
自分がこの国に生まれてきた理由といえるほどに重要な理想である。
私には、この憲法の言葉から、
日本人だけではない、戦争に苦しみ、国家に抑圧された人々、
新しい国家建設に身を投じた人々の思いが、
地上を生きるものたちへの、死者からの委託として聞こえてくるのだ。
彼らのメッセージは、
主権は国家にあるのではなく、一人ひとりの個人にある、ということだ。
だからこそ、「国権の発動たる戦争」を永久に放棄したのだ。
今の政権が推し進めようとしている、集団自衛権も秘密保護法も原発も、
すべて国民が主権者であることを否定している。
そして、アントロポゾフィーにとっては、
一人ひとりの個人の意志のなかにこそ、人類の未来がある。
だから、私にとって今度の選挙は、
日本の未来だけでなく、人類の未来が問われているに等しい。
最後に、
どの候補に投票することが有利かという議論がよくあるが、
今の時点では、一人ひとりが自分の意志で投票することがもっとも効果的だと思う。
票を食い合うということは確かにあるだろう。
しかし、何より重要なのは、国民の意志が存在することを示すことだ。
最大の敗北は、私たちに意志がないと示すことだ。
私たちこそが主権者であることを示すことができれば、
未来につながると、私は考えている。
天皇制のこと、日本国憲法のこと、深く共鳴します。私が、護憲派でありつつ、天皇制に感じていたこと、明瞭にまとめてくださり、とても力を頂きました。
この日本国憲法が、ご自身が日本に生まれた理由にすらなりうるという点、感じ入ります。勇気に感謝と敬意を。