クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

宗三姉妹・歴史を動かした女達(1)

2009年02月23日 | 中国関連
宋・三姉妹
                  歴史を動かした女達

今から八十年の昔、隣国中国の裕福な家庭に仲睦まじい三人の姉妹が居た。やがて、この姉妹は歴史の表舞台に登場、三人三様の個性で人々の脳裏に記憶されることになる。一人は金を愛し、一人は権力を愛し、もう一人は国を愛したのである。
中国に君臨した華麗なる一族・宋一族の三人姉妹、孔子の末裔・孔財閥に嫁ぎ、やがて中国の歴史を蔭で支配した長女・宋靄齢(アイレイ)、蒋介石の妻としてファースト・レディーの名をほしいままにし、やがて世界の歴史をも動かした三女・宋美齢、そして革命の父・孫文の妻となり、中華人民共和国の革命の母として、波瀾の生涯を送った次女・宋慶齢。欧米列強の支配、清王朝の滅亡、革命・戦争と日本の幕末維新に相当する現代中国の夜明けという激動期に抬頭した宋一族を、人々は『宋王朝』と呼んだ。
姉妹と言う絆に結ばれながら、互いに闘い、支配し、敵対せねばならなかった歴史の運命は何故だったのか?しなやかに、したたかに、そして純粋にその信ずる道を生きた三姉妹の人生は、やがて二十世紀を象徴する歴史となった。三姉妹を駆り立てたものはなんであったのか?

今世紀の幕開けの頃、中国一の国際都市上海、西欧人が租界を闊歩するこのモダンな町を中国の人々は『偽りの正面玄関』と囁き合った。公園に掲げられた標識が、この地域での中国人の立場を物語っている。『華人與狗、不得入内(中国人と犬、入るべからず)』である。この上海の背後には、貧しく混沌とした清朝末期の中国大陸が広がっていたのである。その上海の屋敷町の一角に、中国でも指折りの財閥の宋家の邸があった。
三姉妹はこの屋敷で育っていた。靄齢 12 歳、慶齢 8歳、美麗 4歳である。召使にかしずかれ、何不自由無く暮らす彼女たちは、自分たちが何故ほかの貧しい少女たちと違うのか知らなかった。                              娘たちの父は『宋耀如』、一代で財を成したこの男には、運命の悪戯とも言うべき成功談があった。1861年、海南島の商家に生まれた耀如は、華僑として米国で成功していた親戚の養子に迎えられ、 9才の時、米国東海岸のボストンに渡る。しかし、その三年後、商人には学問の必要はないとして、中国流に彼を仕込もうとした叔父に反発して、家を飛び出し、ボストンから密航を企てた。簡単に船員に見つかった彼は、幸運にも船長のチャールズに見込まれる。西欧式に洗礼を受けた彼は、名前もチャールズ・ジョーンズ・スーンと改め、キリスト教の伝導師として教育される。やがて流暢な英語と高い教育を身に付け、大学を卒業した彼は、恩人の期待に添うべく、牧師として上海に派遣されることになる。欧米人の目からは、当時の中国は伝導の必要な未開の国であった。時に1884年、彼も23歳に成っていた。(明治17年)
上海に腰を落ち着けた彼は、間もなく敬虔な信徒の一人『倪桂珍』と結婚、夫妻は三男、三女に恵まれる。長男・子文、次男・子良、三男・子安と靄齢・慶齢・美齢の三姉妹である。牧師の彼を金持ちにする切っ掛けは、彼が目の当たりにした中国と欧米の理不尽な現実であった。人々を縛る古い秩序や制度、纏足などの野蛮な習慣、その中で阿片戦争以来欧米に虐げられ、あからさまな差別と略奪を受ける貧しい同胞逹、彼自身にしても教会には裏口から入らなくてはならない屈辱を味わっている。彼は、中国人が救われるには、中国社会が欧米に負けない近代化をしなくてはならないと痛感する。かくて彼は、急速に伝導から企業経営に傾いて行った。工場の経理担当を足場に企業に投資していた彼が、最も成功を収めたのは、中国で『聖經』と書く聖書の印刷・出版であった。米国で身に付けた知識と印刷技術が商売に遺憾なく発揮されたのである。
折りしも、衰退を示し始めた清王朝に大打撃となる事件が起きる。1895年、日清戦争の敗北である。小国日本に破れた事は、三世紀に亘って中国を支配してきた清朝の終焉が近付いて来ていることを、嫌が上にも人々に気付かせることになった。彼は中国に変革の嵐が迫っていることを敏感に感じていた。
そんな時、幼い三姉妹の前に、父の耀如と同年輩の男が現れる。その男は訪れる度に耀如に中国の現状を憂い、変革の必要を熱く語った。この男こそ、後に中国革命の父と言われる『孫文』である。
孫文は、耀如より五歳年下で1866年、広東省中山県の貧農の生まれ、14才の時、ハワイで成功していた兄のもとに赴き、18歳で帰国、香港で洗礼を受け、医学を学び、この頃から社会変革の必要を痛感し革命を志していた。耀如が自分と似た匂いを持つ孫文の考えに共鳴するのに、時間は掛からなかった。耀如の決心とは、キリスト教の救済によってではなく、革命によって清朝を打倒し、国を救う道を選んだのである。やがて当局に付け狙われる孫文を匿いながら、自分の印刷会社で密かに革命の宣伝文を刷り、孫文の保護者・同志・スポンサーとなって行く。祖国の未来を語り合う二人の男、そして新時代の未来への胎動に、敏感な子供たちが何も感じない筈はなかった。
耀如は娘たちを西洋人の学校にいれ、進んだ教育を受けさせる。取り分け長女の靄齢にとっては、成せば成るの生きた手本であり、何処へでも同行して父の仕事ぶりを身近に見て時には手を汚しても伸し上がって行く父の苦悩と先駆者としての尊大さを胸に刻み付けていた。一方、姉たちに対抗して自分を主張した三女の美齢は、何時も駄々を捏ねて家の中に小さな嵐を巻き起こしていた。次女の慶齢はそんな姉と妹の狭間で調和を保ち誰からも好かれる性格であった。
革命運動と金儲けと言う父の二つの顔は、奇妙な陰影を持ちながら三人の姉妹たちに投影されていく。
変革の時を迎え、父・耀如が子供たちに下した決断は、全員を自分と同じ米国で教育することであった。日露戦争の起きた1904年、14歳になった長女靄齢が、その三年後には次女と三女がいずれも南部のジョージア州メイコンの女学校に留学、男子三兄弟もハーバード大学などの名門に学ぶ。いずれも米国に於ける中国人留学生の先駆けであった。
靄齢は一足先に卒業して孫文の秘書となり、父と共にに革命運動を助けるようになる。そんな1908年のこと、恐怖の女帝と言われた西太后がこの世を去り、ラスト・エンペラーとなる三才の溥儀が皇帝の地位についたとき、清朝も最早これまでと思われた。
そして1911年10月、湖北省武昌で蜂起した革命軍の反乱が瞬く間に全国に波及、翌年、ついに三世紀に亘る清王朝は崩壊する。辛亥革命であり、ここで孫文を臨時の大総統とするアジアで最初の共和国が誕生した。米国にいた慶齢は、自分たち宋一族も立ち上がるのだと奮い立った。時に靄齢 21 歳、慶齢 18 歳、美齢 14 歳である。
国民の盛大な歓呼に迎えられた孫文が、壇上で『三民主義』を掲げた時、その傍らには、孫文の秘書をしていた靄齢の誇らしげな顔があった。幼い頃から父の革命への献身を目の当たりにしてきた姉妹にとって、それは自分たちの喜びでもあった。しかし、僅か一年後孫文は亡命を余儀なくされた。軍事力に勝る北京の軍閥『袁世剴』の策略に破れたのである。亡命する孫文の側に耀如、靄齢の姿があった。彼等が目指したのは日本である。
そして米国の大学を卒業した慶齢も日本にきて、結婚話のあった靄齢の代わりに孫文の秘書となる。
孫文にとって辛亥革命までの道は長かった。彼が反清運動に入ったのは、1892年頃の未だ開業医時代である。1894年からの日清戦争のとき、ハワイで『興中会』を作り、1895年に広州で最初の挙兵を試みるが、密告によって事前に露見し、懸賞金までつけられた彼が同志と共に亡命したのが日本である。彼が神戸に上陸した時、目にした日本の新聞には、英語のREVOLUTIONを『革命』と訳した記事が載っていた。以後彼は自らを革命家と名乗るようになり、始めて弁髪も切り落とした。辛亥革命まで未だ16年もあった時期である。
1896年、彼は日本を離れ、ハワイを経てロンドンに向かうが、ここで清国公使館に捕らわれる。彼を助けたのは、香港医学校時代の教師カントリーであり、このロンドン滞在中に見聞を広め『三民主義』を着想したと言われる。それは、太平天国の革命思想を受継ぎ、19世紀の進化論などの自然科学、フランスの革命思想の人民主権説、イギリスの社会学説などを取り入れ、中国の現実に適合させた物である。そして1897年、米国を経て再び来日し、『宮崎滔天』『北一輝』らと交際しつつ、フィリピン独立援助、1900年の第二回蜂起などをしたがいずれも失敗している。しかし当時の日本には、孫文のみならず、革命結社『華興会』の黄興や、西太后に追われた梁啓超も亡命していたし、清朝からの留学生も  15.000 人を数え、その大部分は時局に動かされ革命派になっていた。
1905年の日露戦争時には、これらの革命諸派が合同して『中国革命同盟会』が東京で結成される。彼等はこの後、反清蜂起を繰り返していたが、1911年 5月、清朝は鉄道国有化令を出す。これはそれまで民営であった鉄道を国有化して、それを担保にして外国から多額の借款をし、財政難を克服しようとしたのである。これに対する反対運動が大規模な武装闘争となり、10月10日、革命派は武漢地区の武昌で蜂起し、中華民国軍政府を樹立し、辛亥革命の口火を切った。この流れは瞬く間に全国に広がり、一か月の間に全ての省が呼応した。実はこの時、孫文は中国にいなかったのである。彼は丁度、軍資金の募集のため米国にいてこれを知り、列強の援助を期して欧州を回ってから帰国している。したがって世に言う辛亥革命の 10 月 10 日武昌蜂起は、孫文の指揮不在のまま実行されているのである。
この辺りで蠢いていたのが、怪物『袁世凱』である。彼は西太后に信頼された清朝の将軍李鴻章の後継者であり、1900年の義和団事件を鎮圧して、外国にも信任されていた。辛亥革命では革命軍鎮圧のため重用され、総理大臣となり清の全権を握る。彼は清朝の無力、革命軍の弱体を見抜き、革命軍に内通する一方で清帝の退位を迫る事になる。 1912年 1月 1日には、孫文が共和国大総統になっていたが、清朝の革命軍討伐は、英国の仲裁で和平が画策されていた。列強は革命派に圧力を加え、多くの地方で実権を握って革命政府に潜り込んだ立憲派が策動し、革命派の内部対立もあった中で、南北和平が進められた。
ここで袁世凱は、清帝の退位と引き換えに孫文から大総統の地位を奪い、1912年 3月に、正式に就任して北京に政府を樹立する。ここで革命は急速に反革命へと転化してしまう。革命派は国民党を作り、議会政治の実現を望んだが、列強や立憲派に支持された袁世凱はこれらに対して武力弾圧を加え第二革命もつぶされ、辛亥革命は不徹底のまま終わってしまうのである。この革命は満州族王朝を倒した事は勝利と言えるが、独立、民主、富強の目的に対しては失敗である。大体、臨時政府の構成でも、革命派はたったの三人で、残り六人は旧官僚と立憲派であり、袁世凱の担ぎ出しも、列強の英国などの画策である。つまり三民主儀が象徴する共和制とは程遠かったのである。そして孫文再度の亡命となった。
1913年、東京・霊南坂の隠れ家を拠点に、反撃の機会を模索していた孫文とその周辺の様子が、動静を監視していた外務省の記録に残されている。『 8月 29 日、宋耀如外出。本人の妹、米国より来着したる由。……』ここで耀如の妹とは間違いで米国から来たのは大学を卒業した慶齢のことである。その後これらの記録には、靄齢に代わって孫文の秘書になった慶齢の名がしばしば登場している。靄齢の結婚相手として父・耀如が見込んだ相手は『孔祥煕』、かの孔子直系の一族で銀行・金融業で成功していた孔財閥の御曹司であり当時若妻に先立たれ、傷心を抱えて日本に滞在していた男である。靄齢はこの男の中に自分との共通点を見出していた。それは、革命への情熱ではなく、実業家としての金銭中心の現実的な人生観である。1914年春、結婚式は横浜の丘の上の教会で盛大に行われた。それは宋一族と孔一族の二つの財閥が揺るぎなく結び付いた時であり、長女靄齢が父の野望を自ら引き受けた瞬間でもあった。
一方、革命のために献身しようと誓った次女慶齢の胸中でも、その情熱が思いがけない形で溢れ出していた。孫文への傾倒である。後日の回顧によると、それは恋愛ではなく、遠くからの英雄崇拝であったらしい。
一足先に中国・上海に戻りそこで二人の結婚の意思を知った父・耀如は驚愕する。彼はこの時、慌てて、若い娘の戯言を信じないようにと孫文に手紙を書いている。親子ほどの年齢差に加えて、孫文には『盧慕貞』と言う、れっきとした妻がいた。耀如にとってこの結婚は認め難く、敬虔なクリスチャンである母親の佳珍も嘆いた。
1915年秋、周囲の反対を押し切り、先妻と離婚した孫文と慶齢は、東京で細やかな結婚式を挙げる。孫文 49 歳、慶齢 22 歳である。
翌年二人は革命運動を再開すべく、中国に帰国し、上海で暮らすようになる。この頃には父耀如の反対も諦めに変わろうとしていた。孫文も新しい家庭生活、仲間であり、協力者でもある慶齢との暮らしに満足していた。
1917年、三女美齢がアメリカから帰国、久し振りに一家が顔を揃えたが、穏やかな団欒は束の間の事にすぎず、動乱の季節が忍び寄っていた。野望と理想、三姉妹の中にも巨大な渦が巻き起ころうとしていた。
孫文の日本滞在は、通算九年に亘り、その間の知己も多いが、個人的には日比谷公園にある『松本樓』の主・梅屋庄吉(現社長の祖父)が筆頭であろう。この店には、未だに慶齢が父親のために弾いたピアノが残されているが、孫文の日本での保護者・支援者である。彼は若い時に香港で孫文に出会い、その思想に共鳴し、文字通り私心を捨てて孫文を支援した一人である。実は革命運動の資金を調達するために梅屋庄吉が設立したのが、現在の『日活』の前身になる日本最初の映画会社であり、以来四十年に亘る支援が革命の礎になっていたのである。孫文と慶齢の結婚式は、梅屋が仲人を務め、彼の屋敷内で行われている。
1918年、耀如が突然死去する。57歳。孫文と誓いあった革命の達成を遂に見届けることができなかった。父の死後、一家の要を担ったのは、家長として孔一族と宋一族の命運を握る長女・靄齢であった。
靄齢・孔祥煕夫妻は、妹の慶齢が孫文の妻になったことで、孔祥煕は孫文の義兄となり、国民党の有力者の列にその名を連ね、その事業を着々と拡大させていく。人々は孔祥煕の事を『結婚で官職を得、官職で財を成した男』と皮肉っている。孔祥煕は、表面的には、その財閥を引っ張っているようではあったが、実質的には、靄齢が全て指示していたらしい。宋・三姉妹は、次女慶齢は人民を治める者の象徴の『龍』、美齢は権力者の象徴の 『虎』に例えられるが、この靄齢は家を守る『犬』と言われている。彼女は、例え手を汚しても、親からの財産を守ることを使命としていたのである。
この頃、靄齢の身辺に『杜月笙』と言う人物が見え隠れする。この男の正体は暗黒街のボスであり、阿片の売買や武器の密輸でのし上がって来た、裏社会の顔役である。これ以後金融帝国を築きつつあった宋一族の投資や会社乗っ取り劇には常に黒い噂が付きまとっている。
一方、第一次大戦は中国を巡る国際情勢に変化をもたらしていく。後退したヨーロッパの列強に代わって、日本が大陸進出の野心を露骨に示し始めたのである。この状況に、孫文の頼りの綱は革命間もないソ連であった。
日本での関東大震災直後に当たる1924年、孫文率いる国民党と、組織されて間もない共産党が団結して北部の軍閥に対抗する共同戦線『国共合作』が成立、その革命軍の幹部を養成する軍官学校の開校式典の写真に、孫文・慶齢とならんで若い士官が写っている。彼こそ、孫文の高級副官でこの学校の副校長『蒋介石』である。彼は日本で軍事訓練を受け、帰国後、右翼の結社から革命運動に投じ、その好戦的な性格でのし上がってきたつわものである。しかし、彼にはもう一つの顔があった。強請やテロで企業を屈服させていた上海の暴力組織のリーダーとしての顔である。その集団のボスは『杜月笙』と言われる。この頃、甘い蜜に群がるように権力の周囲に黒い繋がりが生まれようとしていた。
一方、組織作りに邁進して各地を回る孫文の傍らには、常に慶齢がみられた。未だ女性たちが表に出ることの少ない時代であったので、人々はこの慶齢の姿に新たな時代の到来を感ずる。
そんな時、中国に衝撃が走る。孫文が旅先の北京で高熱に倒れ、病床にあると言うのである。既に孫文の肉体は、肝臓癌に冒されていたのである。病床に伏した儘、冬を耐えた孫文は慶齢の付きっ切りの看病も空しく、1925年 3月、革命一筋に生きた 59 歳の命を終える。革命の成就を今一歩のところで見届けられなかった孫文はその思いを『革命未だ成らず、全てわが同志はその貫徹を期さなくてはならない…』と言う言葉に残した。 32 歳に成っていた妻・慶齢が失ったのは、同志であり、父であり、リーダーであった。この権力を振るう事無く、革命に殉じた指導者は、やがて偉大な『革命の父』として伝説となり、人々は若い未亡人の声を天の声として耳を傾けるようになる。
孫文の葬儀の日、数十万人の弔問者の列の中、悲しみの慶齢に付き添う靄齢と美齢の姿があった。孫文の死が人々に与えた衝撃も大きかった。長年抑圧をされて来た人々の変革を求める声は、この葬儀を境として巨大なうねりとなり、死後二か月目に先ず上海で火が付いた。日本企業の労使紛争に端を発し、学生・労働者と英国の警官隊が衝突し、流血の惨事となる。これが1925年の『5.30事件』である。この時、慶齢は始めて人々に呼び掛ける。『私たちの武器は、愛国心と連帯である。共に戦おう。孫先生の精神は死んではいない』と。これは慶齢にとっては、孫文の志、そして孫文に寄せる大衆の思いを背負って行く決意表明でもあった。事件が全国に広がる中、慶齢は国民党のシンボル、革命のジャンヌ・ダルクに押し上げられていくことになる。
1926年 7月、遂に青天白日旗が十万の大軍と共に、北へ動き始めた。軍閥の掃討が始められたのである。軍を指揮していたのは蒋介石であり、人々の歓呼の中、11月に国民党は揚子江沿いの要衝・武漢に国民政府の拠点を移して、全国統一を宣言、翌年には帝国主義の牙城・上海に入城し、人々は孫文の遺志による国共合作による中国革命が、ここに達成されたことを信じて疑わなかった。
その裏で奇妙な動きがしてきた。上海の孔祥煕・靄齢夫妻が、蒋介石をその屋敷に招いた十日後の1927年 4月 12 日、人々はアッと驚いた。蒋介石の軍隊が突如、味方の筈の共産党や労働者に襲いかかったのである。武漢の国民政府への忠誠を一夜にしてかなぐり捨てた蒋介石が反共クーデターを起こしていたのである。これが『上海クーデター』であり、蒋介石が孫文を裏切り、権力欲という、その本性を現したのである。それは、共産勢力との結び付きは、金銭的に不利となると考えた宋一族と蒋介石の思惑が一致したのである。勿論その裏には、宋一族を束ねる靄齢の意思が働いたことは間違いない。慶齢のいた武漢政府は蒋介石の追放を宣言したが、時すでに遅く、11月 18 日、蒋介石は南京で南京政府樹立を宣言、青天白日旗が南京に掲げられた。軍を握る蒋介石を恐れて、武漢政府の幹部たちは、次々に寝返り、慶齢は孤立し革命は野心と保身によって内部崩壊したのである。慶齢は、この事態に愕然とする。夫の夢見た旗が裏切り者の手で掲げられ、しかも靄齢を初めとする一族が、その将来を蒋介石の手に委ね、自分たちに屈服を迫っているからである。蒋介石が慶齢を従わせようとして武漢に派遣した使者は、慶齢の一番可愛がっていた次男の『子良』である。長男の『子文』は、武漢政府として、上海の財閥たちに武漢政府への協力を依頼にいっていた時に、クーデターに巻き込まれ、監視されて南京政府への協力を要請されていた。欧米のあるジャーナリストが、彼を武漢に脱出させようとしたが、靄齢たちの説得で土壇場で南京に残ってしまう。
慶齢は、声明を発表して将介石との絶縁、その側にいる宋一族と決別する。慶齢 34 歳。1927年 9月 6日、慶齢は革命の先輩・ソ連の力で、蒋介石に対抗しようとしてモスクワに渡る。しかしモスクワの鉛色の空の下で慶齢が見たものは、血で血を洗うクレムリンの権力闘争であった。独裁体制に突き進んでいたスターリンは、内部の粛清に躍起で中国どころではなかった。

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