クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ジョン・ウェイン 永遠のアメリカ魂

2009年02月23日 | 米国関連
ジョン・ウェイン
                永遠のアメリカの魂

1979年 5月、アメリカ議会は病の床にある一人の男に国民栄誉賞を与えるべく委員会を開いて討議していた。その時、出席していた女優のモーリン・オハラは記念メダルに刻む肩書きに付いて『世界中の人達にとって彼は素晴らしい俳優と言うだけではない。彼はアメリカ合衆国そのものである。皆がそう在りたいと願う象徴である。従ってメダルに刻む言葉はたった一言(アメリカ人ジョン・ウェイン)で良い…』と述べた。
西部劇のスターにしてアメリカの象徴と言われるジョン・ウェイン、彼が出演した百本以上の西部劇はアメリカの開拓史その物であった。彼がスターダムにのし上がった1939年の名作『駅馬車』、妥協を知らない男を演じた1948年の『赤い河』、年老いたガンマンを演じた晩年の名作1969年の『勇気ある追跡』などアメリカ神話を守ろうとした彼の虚像と実像を記しておく。

ジョン・ウェインは1907年にアメリカ中西部のアイオア州に生まれる。両親は彼に『マリオン・モリソン』と言う女の子のような名前を付けた。彼が10歳のとき、家族はカルフォルニアに移り住み、農場での新しい、しかし貧しい暮らしが始まる。この頃の彼は農場も馬も大嫌いであり、ひたすら弁護士になろうとしたが、大学に入ってからフットボール選手で得た奨学金を怪我のため打ち切られ、やむなく彼は勉学を断念し、1927年にハリウッドにやってくる。彼の実社会でのスタートは二十世紀フォックスのスタジオでの道具係りである。ここで働く恵まれた体躯と機敏な動き、容姿が或る監督の目に留まり、1930年に『ビッグ・トレイル』と言う西部劇の主役に起用された。22歳であった。
監督は、彼の名がマリオン・モリソンでは俳優らしくないので別に芸名を考えたが、誰かの戦争の英雄の『アンソニー・ウェイン』はどうかという提案を元にして、最もアメリカ青年らしい『ジョン・ウェイン』に決まった。しかしこの最初の主演作は全くの不評で、彼は以後、B級西部劇に出演するようになる。当時のB級西部劇の作り方は簡単な物で、大概のものは一週間で、必要ならば僅か三日で出来上がりの時もあった。主演者は体力があって荒々しい雰囲気があれば良かったのである。元米国大統領のレーガンもこのB級の俳優であったために随分と揶揄された。彼はB級で年間12本ぐらいの映画に主演して居たので、毎月違った物語に出てくる彼は、大衆にとってはまるで家族の一員のようなものであった。こんな彼をB級映画の世界から救い出したのはその後に名コンビと言われる大物監督ジョン・フォードであり1939年に、僅か三千ドルのギャラで大作『駅馬車』のリンゴ・キッドの役を与えた。後に不朽の名作と言われる映画の主役であり、フォードの信条とする自由の精神と人々を守る男達のイメージにぴったりで、この映画によって彼のスター性は確立し、西部劇の中で優雅に動き回れる俳優として名を揚げる。
頼り甲斐があり弱い者を守ると言う彼のイメージは、アメリカ人の心を掴み、大衆には欠かすことの出来ない俳優へと成長した。
この映画の作られた1939年には欧州で第二次大戦が勃発し、やがて米国も巻き込まれていくことになる。彼は戦争へ行くか?残って映画を作るか?と言う難しい決断を迫られる。丁度この時は、漸くB級映画から抜け出してA級への道を開いたときでもあるので、戦争へ行ったらせっかく掴んだチャンスは失われると感じて戦争へ行くことをしなかった。
しかし、当時のスターたちはジェームス・スチュアート、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、タイロン・パワーなど、ハリウッドを空にして戦場に行き、その軍服姿が雑誌の表紙を飾っていたときである。結果としては彼はスター不在の隙間に入り込んで自分の椅子を確保したことになるが、この件ではジョン・フォードが後々迄も非難して居たと言う。
彼自身も戦争から逃げたとも言われて、長いこと悩んでいたらしいが、幸いな事に戦後に彼の主演で作られて戦争映画、特に1949年の『硫黄島の砂』等ではまるで彼一人の活躍で太平洋戦争に勝利したかのような思いを観客に与え、兵役忌避の汚名を忘れさせてしまう。そして彼はハリウッドの頂点に立った。以後の彼は戦後のアメリカの自信の象徴となっていき、自らもアメリカの未来にとって果たすべき役割があると信ずるようになった。彼がフォードから学んだのは『アメリカ神話』である。アメリカは他の国とは違って神から特別な任務を与えられた国であると言う事をである。
彼はアメリカ人に誠実さを蘇らせ、その飾り気のない話し振りで、英国人のエリートとは正反対の平凡な男を演じた。英国の名優ローレンス・オリビエは悪者で、ウェインだけが正義の味方と言う映画もできた。こんな彼も私生活では二度の結婚に失敗し、スペイン人女優のピラーと三度目の結婚をして始めて心の安らぎを得たようである。
彼が始めて監督・主演した1960年の『アラモ』では独立心の強い、自由のために我が身を犠牲にする男達の物語であり、真の愛国心とは何かを表現し、軟弱になったアメリカを救えると信じた。これは日本ではかなり成功し未だに『あのアラモは…』と言う感動を鮮明に記憶して居る中年男性が多いが、公開時のアメリカでは既に時代はそぐわないとして興行的には大失敗であったらしい。
彼の愛国心は今度は政治的行動として現れて、米国内の共産主義者に戦いを挑んだ。彼は映画協会の中でリベラル派の疑いのある人物たちを議会の調査委員会に出席させ、共産党活動について知っていることを陳述させようとしたのである。この委員会はかの有名な 『非米活動調査委員会』であり、映画監督のフレッド・ジンネマンほか多くの進歩的映画人が召喚を受けている。

ベトナム戦争は共産主義に対する彼の深い不安感を裏付けるものになった。後に彼の主演した『グリーンベレー』があるが、この映画はベトナム戦争を肯定する唯一のハリウッド映画になった。この映画では、登場する兵士たちが子供の世話をしたり石鹸を配ったりして、残虐行為のシーンは一切なく、ベトナム戦争がいかに人道的に遂行されたものであったかを訴える意図を鮮明にしたが、ナパーム弾・枯れ葉剤投下・虐殺・難民の困窮を知ってしまった大衆から見ると余に現実離れして居たので、彼のファンからも馬鹿にされた。1960年代には、彼は時代から取り残されている事を感じとって相当意気消沈していたし、家庭生活も危うい状況にあった。子供たちが成長して親離れしていくことが何時も家族のために働いているとする彼と合わなくなっていたのである。彼にとって子供たちは、成長せずに永久に親にまとわり付く幼児のままで居て欲しかったのである。
1960年代の後半には彼にはかってのヒーローの面影もなく、頭髪は薄くなり鬘を使い腹は出て、何時も大量のドーナツを買い込む中年になっていた。しかし1969年に『勇気ある追跡』で年老いたガンマンを演じて新境地を切り開く事に成功する。この映画では1970年のアカデミー主演男優賞を初受賞している。
こうして彼は華やかに復活し、1974年にはハーバード大学の学生たちの発行する風刺雑誌の『男らしい男賞』を受賞するため反戦運動のメッカに乗り込み、予告無しのぶっつけ質問にも余裕を持ってウィットに富んで旨く答え、若者たちとの議論を溌剌とこなした。 彼の映画作りの情熱は再び燃え上がり『ラスト・シューテスト』では癌と闘う年老いたガンマンを演じた。                                しかし皮肉にも1978年、かって克服したはずの癌が再発する。実は彼に癌をもたらしたのは、彼が最も愛した映画制作のためであるとされている。1954年、映画『征服者』の撮影がネバダ州の核爆発実験場から二キロしか離れていないところで行われたことがある。この年は実験が最大の頻度で行われた年で、現地滞在中に相当量の放射能を浴びたとされる。この頃、米軍は実験場に兵士をモルモットの様に駆り出して、爆発後にどの程度の軍事行動が取れるかを調査していたくらいであったので、日本に原爆を落とした米国市民が被爆の本当の恐怖を未だ知らなかった頃である。この兵士逹の悲劇は別項とするが、この時にロケに参加したキャスト・スタッフからは後に多くの癌患者を出し、数年後には関係者の7割以上が癌性疾患にかかり、大分部がそれによって死亡していると言われる。
癌の再発症が判かった時、彼は『何故オレなんだ…』と言って泣いたそうである。彼の体は化学療法を受けるにはもう遅すぎた。それでも彼は1979年のアカデミー賞受賞式のプレゼンター役を果たすため、病の床から出席する。既に胃を切り取られ痩せ衰えた彼は洋服の下にウェットスーツを着込んで、授賞式の会場の人に衰えを悟らせないようにした。彼の挨拶は『私の魂はずっとここに居る…』と結ばれて居たと言う。
そして下院議員のフランク・アヌッジオが、委員会で『今こそ彼に国民栄誉賞を与えるべきである…』と口火を切った。冒頭のモーリン・オハラの意見はこの時のものであったがそれから三週間後の1979年 6月11日、この愛国心の固まりの男は旅立った。彼の墓は丘の上にあると言われているが、有名人なるが故に墓場荒らしを避けるため墓標は無く娘たちも正確な位置は知らない。                            彼は生前、墓標には『強く醜く誠実な男』と刻むように家族に言い残して居る。この醜くとは、三人目の夫人で漸く安らぎを得た彼の心の問題であろうか?
彼が息子に残した詩の一節
   『息子よ 旗を見上げてごらん そこに有る私達の歴史・進歩・伝統を読み取れ
    息子よ 旗は過去を写すのだ そして多くの事を教えて居る
    息子よ 旗を見上げてごらん 我々の強さと自由は団結の上に成り立っている
    息子よ 旗は偉大なわが国のシンボルだ
        旗がはためく限り我々は自由を賛美する』

最新の画像もっと見る

コメントを投稿