クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

永田洋子の時代

2009年02月23日 | 日本関連
 連合赤軍と永田洋子

先日、年間一回の恒例になっている人間ドックのために日高病院へ行った。この人間ドックのコースはやたらと待機時間が長い。この間にいろいろ本を読むことができる。この時は山崎豊子の『大地の子』を読んでいた。この本はドラマにもなっているので多くの人が知っていると思うが、是非とも21世紀に伝えたい本の一つである。余談ではあるが20世紀の出来事を、小説の名を借りて詳細に残したものには、日露戦争を詳細に描写した司馬遼太郎の『坂の上の雲』、敗戦時の中国残留日本人の悲劇と文化大革命の愚劣さを後世に残す上記の『大地の子』、大正末から昭和に掛けての中国に於ける軍と財閥の暗躍を描いた五味川純平の『戦争と人間』、皇軍と言われた日本陸軍の内幕を暴いた同じく五味川純平の『人間の条件』、いつも論議に上る日本国憲法がいかにして出来たかの成立の経過を描いたジェームス三木の『憲法はまだか?』などがあると思っている。
大地の子では、文革の愚かさが良く理解できると同時に、大衆が一斉に新興宗教のような個人崇拝に狂ってしまうこの中国の国民性には呆気にとられる。あの時、紅衛兵となってすべての学識・経験・伝統を破壊し尽くし、数限りない殺人を犯した者は、数千万人いや数億人もいるかもしれない。それなのに四人組の処分だけで、彼等は口を拭って何事もなかった顔をしている。天安門事件でも、全国民が共謀して居るかのように口を閉ざして居るのも、この国ならと妙に納得してしまうが、この国民性が5千年の歴史を持ちながら、いまだに発展途上国の域を出られない原因かもしれない。中国人は南京事件を何時までも言うのなら、自分たちの犯した文明に対する罪、同胞を密告しまくって死に追いやった罪を総括すべきである。ともかく、この本で久し振りに、『自己批判』と言う言葉を命に関わる言葉として受け取った。この言葉は日本のある時期に、我々の耳目を峙たせた時があった。連合赤軍事件である。彼等の片割れが北朝鮮に逃れてから数十年も経つし、もう一派は超法規と言う新語と共に、アラブの英雄としてテロ行為をして国際手配になっている。そして国内残党は連合赤軍を結成する。最近の北朝鮮組の家族が人道の名の下に日本に帰ってくると言う情報も、評価は難しい。連合赤軍事件は、あさま山荘事件として派手にテレビに登場したが、丁度この日、私は会計監査の真っ最中で、思い出せば、当時東芝電気器具6号建屋二階にあった応接間のテレビで、大木会計士と一緒に監査もそっちのけで見入った事を思い出す。昭和47年2月28日期末棚卸し立会の日であった。この時、警官隊を指揮していたのが、元内閣安全保障室長で事件の度にテレビで評論している『佐々淳行』である。この事件から日本に残った連合赤軍に末路がきた。それを改めて記録しておくことで、この事件が私の中で風化しないようにしたい。集団の狂気犯罪と言われた地下鉄サリン事件を初めとする一連のオーム事件、その暴走の原点は、命令ならば人も殺すと言うポアの受託であった。実はこの事件の原形とも言える戦後史のもう一つの大事件が28年前に起きている。     1972年(昭和47年)2 月28日、あさま山荘へ警官隊が突入する。テレビの実況では、現在ニュースキャスターをしている久能靖(NTV) も参加して居る。この日本中が息を飲んで見守ったあさま山荘事件は2/19より2/28まで、連合赤軍の最後の5人が、人質を取って立て籠もり、警官隊と銃撃戦をやったものであり、各局はC.M抜きで実況中継をした。そしてこれを境として、学生の左翼運動は一気に国民の理解から遠ざかって行ったのである。しかし次第に彼等の行為の全容が明るみになった時、国民はさらに戦慄した。榛名山などの周囲の地域から12名の遺体が掘り起こされたからである。それが連合赤軍の大量リンチ殺害の発覚である。榛名・迦葉山・妙義などで総括の名の下に同志たちを次々と残虐極まりない手口で命を奪って行ったのである。当時の新聞の見出しには『残忍さむきだし・粛正の墓場』『底知れぬ恐怖と独善』『悪魔の処刑を見た』とある。
もとメンバーの一人『植垣康博(51)』は27年間の刑期を終えて初めて口を開き『こんな暴力的な総括をやっていいのか?という思いはあったが、(党のため)と言われると、それからは思考停止に陥って終った』と語っている。しかし総括を命じたリーダーの連合赤軍最高幹部『森恒夫』は一審の判決を前に拘置所内で自殺してしまった。昭和48年の 1月当時 28 歳であった。そしてもう一方の主犯格『永田洋子』は平成5年に死刑が確定、現在 55 歳で間もなくその獄中生活は 30 年になる。獄中で彼女が執筆した著書はすでに7冊、自らの心の闇を見つめている。

彼等は学生運動でブントと言われた『共産主義者同盟・赤軍派』から出て、昭和45年によど号ハイジャック事件を起こしたグループは北朝鮮へ、翌年には重信房子・奥平剛士らは海外に拠点を移し、『日本赤軍』を結成。残った森・坂東・植垣たちは、『京浜安保共闘』の永田・坂口と合流して、『連合赤軍』を結成する。『連合赤軍』の壊滅は昭和47年2月末であったが、この年の5月、『日本赤軍』はイスラエルのロッド空港で100人を死傷させ、その後もハーグ事件・クアラルンプール事件・ダッカ事件などを引き起こす。連合赤軍の内、坂東はクアラルンプール事件で超法規措置によって昭和50年に国外に脱出し、ダッカ事件など後のテロ事件の多くに関与して居るが、いまだに逃走中である。 リーダーの森は収監中に自殺、坂口・永田は死刑確定で収監中、植垣は平成10年に出所している。
群馬県の榛名山中、かってここに連合赤軍の山岳アジトがあった。そしてその側の地中から、裸にされた若者の遺体が次々と掘り起こされた。あれから29年の月日が過ぎようとしている。1960年代、日米安保条約やベトナム戦争に反対して吹き上げた学生運動は、大学の民主化などを求めて全国に波及するが、昭和44年、学生運動のシンボル東大安田講堂陥落で一気に沈黙を余儀なくされ、学生運動の大衆離れが加速するが、残った学生たちの活動はより過激となり、最も激しく武装闘争に突き進んだのが『赤軍派』と『革命左派京浜安保共闘』である。彼等は革命を叫び、機動隊と市街戦迄繰り広げたが、警察に次々と検挙され、赤軍派は、昭和 44 年に山梨県大菩薩峠で軍事訓練の合宿中に 53 人が逮捕された。残った活動家の一部は、大阪万博の開かれた昭和 45 年 3月に、よど号を乗っ取り昭和46年 2月には奥平剛士・重信房子が偽装結婚してレバノンに脱出、さらに残された赤軍派は、横浜銀行を襲撃、京浜安保共闘は栃木県真岡市の銃砲店を襲撃して銃器を奪う。資金と武器を手に入れた両派は合体、誕生したのが『連合赤軍』である。合い言葉を『銃』としていた彼等は、警察の追及によって都市部のアジトを捨てて山間地へ逃げ込み、群馬県・長野県の山中で立て直しを図るが、追い詰められた末に、昭和47年 2月に軽井沢の 『あさま山荘』に5人が立て籠もり、750 名の警官隊と銃撃戦を展開した。結局、警察官 2名と民間人 1名が犠牲となったが、全員が逮捕される。しかしこの『あさま山荘事件』の直前に逮捕されていた森・永田らの幹部が、山中で仲間を殺害していたのである。
事件に先立ち、赤軍派 9名、京浜安保共闘19名の女性を含む 28 名のメンバーが、銃や爆弾を所持して群馬県の山中に集結したのは、昭和 46 年 11 月である。山岳アジトを拠点にして銃撃戦に打って出ようと言う事ではあったが、警察に追い詰められて逃げ込んだと言うのが実態である。永田らは雪のアジトで兵士と呼んだメンバーらに、共産主義の名の下に人間改造を叫び、総括と称してメンバーを次々と追及し『覚悟が決まってない』『規律違反』『日和見』との理由を付けて正座させたり、柱に縛ったりして自己批判を迫り、全員で殴打、更には極寒の屋外に放置して凍死させるなどして殺害、薪で袋たたきしたりナイフやアイススピックで処刑した。狂気と恐怖が支配する中、罪状なども男女関係の些細なことにも及んできた。こうして総括で殺害された彼等の死は『敗北死』と決め付けられた。
真冬の山岳アジトで繰り広げられた凡そ二か月に亘る連合赤軍の凄惨なリンチ殺人、当初28名いたメンバーたちは、半数ぐらいに減り、自滅の道を辿っていた連合赤軍に昭和47年 2月、最後の時が迫っていた。警察の包囲網が迫る中、森恒夫・永田洋子の幹部が妙義山近くの山中の洞窟で発見され逮捕される。そして坂東・坂口らの残った5人があさま山荘へと追い詰められ、連合赤軍は崩壊したのである。逮捕後、黙秘し続けた森と永田らではあったが、厳しい取り調べによって先ず落ちたのは意外にも最高幹部の森であった。
総括の指導者・森のあっけない自供、その上、勾留中に記した自己批判書は、完全黙秘をするだろうと思っていた永田らの他のメンバーたちに動揺を与えた。しかもその後に、永田らに伝えられたのは、さらに衝撃的であった。逮捕から11ケ月目の昭和48年 1月 1日森は『自らに有罪を下す』と自己批判して獄中で首を吊って自殺したのである。
それから三年後の昭和 50 年、海外にいた日本赤軍がクアラルンプールの米国大使館を占拠し、坂東たちの出国を要求し、超法規的措置によって坂東ら5人が国外脱出に成功した。こうしてリンチ殺害事件の十字架は、森に同調した永田洋子が背負うことになった。
その後、出廷拒否などと法廷に反抗的な態度を取った永田は、世間から『魔女』と呼ばれ事件から10年後の昭和57年6月18日、一審判決で東京地裁は『自己顕示欲が旺盛で強い猜疑心や嫉妬心を持った女』と断じ死刑判決を下す。この時、永田は『この判決で、少しは12名の同志たちに顔を合わせられるようになった』と記している。
そしてこれまで裁判に抵抗していた永田の態度に、大きな変化が現れた。それは永田が自ら口を開き始めた瞬間であった。永田は、死刑判決は当然であるとした上で、一体何が連合赤軍問題を引き起こし、愚かな同志殺害に至ったのか?と言う裁判とは別の、膨大な手記を執筆し始める。それは残虐な事件の責任者として自らを総括し始めたのである。
何故自分は左翼運動に傾斜して行ったのか?何故過激派に加わったのか?そして何故取りかえしのつかない大きな過ちを犯してしまったのか?それを解明するのが、彼女の最低限の責任であると思ったのである。
永田の仮面の下から現れ始めたのは、活動家になる前の意外な素顔であった。高校卒業のアルバムへの寄せ書きには『大きな社会に入っても、人間と言う機械には成りたくない』と書いている。彼女の子供時代は全く平凡なもので、これと言って12名の同志殺害に結び付くものは何もない。むしろ彼女の意識を根本から揺さぶるような出来事が何もなかったこと、この事が誤りを犯す原因に結び付いていたとも言える。何もなかったことが、彼女自身の自主性や主体性を育成することにならなかったのである。それゆえに盲目的に成りやすい心の儘、大きくなったのである。
彼女は昭和20年にサラリーマンの父、看護婦の母の間に長女として生まれる。中学・高校は都内の良妻賢母を育成する女子校で過ごす。時代は折りしも60年安保、日本が大きく高度経済成長に足を掛けたときである。思春期の彼女が人生いかに生きるべきかを悩み始めた時でもあった。彼女の政治への目覚めも彼女の育った時代や環境に規定されて居たのである。反戦の雰囲気に溢れ、その上、父が工場労働者であった事から、労働運動が身近にあり、60年安保には関心をもつ。政治の季節と言う世間のざわめきの中、彼女は昭和38年、薬科大学に進学するが、大教室にマイクと言うマスプロ授業と大学の就職予備校化に失望し、安保闘争で死ん樺美智子追悼のデモなどに参加はしたが、この頃は未だ積極的ではなく、何故デモ隊は機動隊とぶつからなくてはならないのか?と考える程度であったし、社会主義の学習会の内容も理解できなかった。
しかし、仲間たちの真剣な議論の空気に惹かれ始め、次第に社会主義の言う階級闘争に加わっていくことが人間らしく生きていく道であると確信するようになる。そしてビラ作りを手伝ったりカンパを集めたりする内に、自分は自立して居ると言う高ぶりを覚える。しかしこれらは、自分の頭で考え自分の心で感じることを避けた他者依存に他ならなかった。彼女は次第に学校へ行かなくなり、議論を避ける友人を軽蔑し、父の生き方も時計の振り子のようなつまらない物と批判的になる。こうして彼女は、大学2年の時から活動家への道にのめり込んでいく。彼女自身は、主体性の未確立のまま、余りに安易に活動家として生きて行く事を決意した事が誤りであったと言っている。つまり彼女は問題意識を持つことで満足し、それを自分自身の力で深めていくことはしなかったのである。
丁度その頃、ベトナム戦争の本格化で学生の間に反戦機運が高まる中、彼女が加わった過激派の政治組織には、家族を捨てての共同生活・組織員同士の見合い結婚制・子供不要などの事が規定されて居た。ここでは感情で結ばれる男女関係はブルジョア的日和見主義とされたが、彼女はすでにそれらに疑問は感じないまでになっていた。彼女はそれでも卒業後は薬剤師として病院に勤務するが、それは活動費を獲得する目的である。この頃、彼女はバセドー病に罹り、自ら女である事を止め中性の怪物になる決心をする。
昭和45年になると、すでに学生運動は、学内での活動は沈滞し、世間は大阪万博のお祭りムードに沸いていた。こんな袋小路の状況下で過激派は、武装闘争を叫ぶグループを次々と結成させ、彼女はその中の一つ『革命左派・京浜安保共闘』に加わる。ここで彼女はメンバーの一人『坂口 弘』と同志的に結婚、妊娠するが中絶を課せられる。彼女が組織のために全てを犠牲にする組織人間になったのは、この過程に於いてであった。
彼女の目の前で屈折した過激派の嵐が革命の幻想で吹き荒れる。昭和45年のよど号ハイジャック事件である。             
毛沢東を手本に革命を叫び、過激な武装闘争へ突進した京浜安保共闘で重視されたのは、テロを含め、考えることより実行する事であったが、それが思いも寄らない状況を生むことになる。幹部たちの相次ぐ逮捕で、それまで忠実に命令に従うだけであった彼女がリーダーに押し上げられたのである。彼女は能力以上の指導者としての役割を求められてしまったのである。
そして昭和46年、安保共闘は赤軍派と合体して連合赤軍を結成する。彼等は互いのライバル意識の中、厳しい規律を課し合うことになる。この時の規律の間化が後に同志殺害の悲劇をもたらすのである。
その規律第八章・指揮行動には、『行動は指揮に従い、次の原則を守る』

①個人は組織に従い ②少数は多数に従い ③下級は上級に従い ④全党は中央に従う

同志たちの大部分が指名手配され都市部のアジトは、5万人の警察官のローラー作戦で壊滅して行く中、永田らは関東北部の山岳地帯に軍事訓練の拠点作りを開始する。孤立した中での28人の寄合所帯では、赤軍派の森などが永田らに威圧的に振る舞うなど微妙にきしみ始めていた。そんなとき彼女の目に留まったのが、赤軍派の女性兵士のいでたちであった。指輪をしている、髪を切っていないなど女性らしさを残す赤軍派の兵士を、革命をすると言う覚悟がない非難する。そして体を触られたとの訴えがあった時、その男性は全員から殴られ、女性も隙があったとして制裁を受けた。殴ることが総括させるための指導であると言うことであった。この二人は木に縛られ衰弱死する。森はこの二人を敗北死と決め付け、共産主義化を通して立派な革命戦士となるために、各々がその過去を自己批判し総括しなくてはならないと主張し、永田に対しても坂口との離婚を宣言させた。やがてリンチで殺された仲間の遺体を埋めに行くことも総括の一環となった。今日仲間を殴って殺したものが、次の日には総括を受けて命を落としていく。疑心暗鬼の中、総括はエスカレートし、やがてナイフやアイスピックで処刑するようになる。仲間の首にロープを巻き全員で引っ張る事もあった。そして狂気が山小屋を覆って行く。最後には総括の理由もなくなり、森や永田の言い掛かりに近いものになっていく。ある者は夜中の寝返りだけで逃げようとしたとして殺害されている。こうして雪の山中の二か月の間に12名の命が失われた。
彼女は森の指示にしたがっていたが、反面では暴力の持ち込みを恐れる事が日和見と見なされるのを嫌った虚勢の強がりでもあった。ためらいなどは人間的弱さとして押し潰し、より残酷になっていった。そこは否定が全ての悪霊の山小屋であった。彼女が同士たちの死が敗北死では無く、彼女らが殺害したのだと気付くのは、ずっと後の事である。
彼女は獄窓で何度も自殺を図ったが死に切れなかった。しかしそこでの生こそが、人生の学校の始まりと自筆したように、十字架を背負いながら、自らの誤りを掘り下げて行く事だけが、彼女の生に課せられた唯一の意味となっている。皮肉にも彼女はこの閉ざされた空間で生きる事の意味を模索するようになる。
                                        昭和59年、彼女は一度だけ拘置所の外に出た。彼女の脳腫瘍の応急手術のためである。平成5年、死刑の確定となって永田の裁判は終わって居る。今の彼女の苦痛は濃腫瘍の進行であり、尿療法をしている。彼女は獄中でボールペンで膨大な量の絵を残し、それを生の証しとしているが、それが殺した仲間の生として重くのし掛かっている。
永田洋子(ひろこ)は今55歳になった。
そして、日本赤軍の重信房子は、平成12年11月大阪に潜伏中を逮捕され、同じく55歳の変わり果てた姿を、惨めな虚勢と共に国民の目に晒された。

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