江青・文革の女帝
葬り去った暗黒の過去
[1]なぞの空白時間
謎に包まれた女帝・江青、その江青が、『藍嬪ランピン』と呼ばれた21歳の女優時代に、友人の『泰桂貞』と暮らしたアパートが、上海に残っている。この四畳半にも満たない薄暗い小さな部屋で、江青は何を夢見、何を見つめていたのであろうか?
そんな藍嬪に降って湧いたような幸運が訪れる。1935年 6月 27 日、上海を代表する劇場の金城大戯院で、イプセンの『人形の家』の主役ノラの役を掴んだのである。こうして女優として認められて間もなく、彼女は、1936年 4月 26 日、杭州・六和塔で行われた映画俳優三組の合同結婚式の花嫁の一人となっていた。相手の『唐納』は当時の上海で最も人気のあった映画評論家である。しかし、この二人は性格が合わず、喧嘩が絶えなかったが 6月に、その二人の間に事件が起きる。唐納が離婚問題に悩んで自殺未遂事件を起こしたのである。こうして二人のスキャンダルは、上海中の話題となる。しかもその唐納の自殺未遂事件が覚めやらぬ内に、今度は藍嬪が、妻子ある舞台演出家『章泯』と不倫事件を起こし世間を騒がせる。こうしてスキャンダル女優のレッテルを貼られた藍嬪には、仕事など無く、彼女は上海を離れる。この時、友人の『泰桂貞』は、記念にアルバムを贈り、藍嬪もそのお礼は必ずすると誓った。このアルバムは、後に秦桂貞が彼女から思わぬ恩返しを受ける元になる。
1937年 8月、当時中国共産党の一大本拠地であった陝西省・延安に女優・藍嬪がその姿を現す。彼女は上海時代の暮らしから立ち直ろうとして、延安行きを決めたのである。過去を清算し、革命に生きると言う覚悟の現れなのか、この土地の宿舎の名簿に、自らの名前を『江青』と記している。『青は藍より出でて、藍より勝る』によって改名することにより、新たな自分を見つけようとしたのである。
延安時代の江青を知る共産党女性幹部の『徐明清』の証言では、彼女は延安の『魯迅芸術学院』で自ら京劇を演じ、生徒たちに指導する日々を送っていた、明るい美しい女性であったという。
そんなある日、彼女は京劇を見にやってきた一人の人物と運命的な出会いをする。それは中国共産党の若き指導者・毛沢東( 44 歳)であった。やがてこの二人の交際が、延安の女性幹部の間で取り沙汰されるようになる。当時の毛沢東には、モスクワで病気療養中の三番目の妻『賀子珍』がいたからである。確かに賀子珍と毛沢東の仲は最悪で離婚寸前ではあったが、女性幹部たちはこの交際には反対であった。何故なら、幹部たちには、既に江青の上海時代の悪い噂が伝わっていたからである。しかし、周囲の反対にも関わらず二人の交際は止まなかった。
この問題は遂に、共産党の幹部会議の議題にもなる。スキャンダル女優のイメージが党の印象を悪くするとして反対するものが大多数であった。ところが公安の責任者の『康生』が二人の結婚を強引に支持し、条件付きで認めてしまった。
『法三章』となずけられたその条件とは、次ぎのような物である。 (一)正式な離婚が成立するまで江青は『毛沢東夫人』とは呼ばれない。 (二)江青の仕事は、毛沢東の身の回りの世話をすることで、これより二十年 の 間、いかなる党の仕事にも就く事は出来ない。
(三)これは特別の措置であり、今後、決して同じような要求は受け入れ
られな い。
こうして運命の二人は結婚する。毛沢東 45 歳、江青 24 歳であった。結婚三年後、二人の間には長女『李納』が生まれ、当初は結婚に反対していた幹部たちも、彼女の献身的な生活ぶりに次第にその思いも消え、見直されて行く。そこには妻の役を必死に演ずる江青の姿があった。
1949年 10 月、中華人民共和国が建国される。その華やかな式典の映像に毛沢東夫人江青の姿を見ることは出来ない。建国以来毛沢東は、新しい中国の指導者として中国全土を巡っているが、これらにも何時も毛沢東一人が映像に写り、決して毛沢東夫人が登場することはなかった。国民は江青の名前すら知らなかったのである。
江青は、この頃、中国共産党幹部が居住する地区、北京の『中南海』の奥で、籠の鳥のようにひっそりと暮らしていた。既に衰え始めた容貌を隠すように、外国から送られてくる化粧品を使い、酷い近眼にも拘わらず決して眼鏡を使用しなかった。
その頃中国では、女性たちが積極的に党の活動や、政治の舞台で活動するようになっていた。その代表が、孫文未亡人の『宋慶齢』と周恩来夫人の『登穎超』である。しかし江青にも隠された顔があった。それは実名も出さずに、目立たない形で毛沢東の耳となり、手先として、スパイ活動をしていたのである。
1958年 5月 5日、毛沢東は 15 年でイギリス経済に追いつこうと言う『大躍進政策』を、第八回全国代表会議で発表する。しかし、この急激な農業改革は1959年に、天候不順も重なって国内に大飢饉をもたらし、農民たちは木の根までを食べ尽くしたと言う。この飢饉での全土の餓死者は 2.000万人と推定される。
これによって窮地に立たされた毛沢東は、国家主席を辞任し、『劉少奇』が国家主席の座に座ることになる。国民は劉少奇の国家主席就任を歓呼の声で迎え、こうして中国は、実権派と言われる劉少奇と党中央総書記の登小平らが政治の実権を握るようになる。
国家主席となった劉少奇は、積極的な外交路線を展開、各国を歴訪し、やがて中国を代表する顔は、劉少奇と夫人の『王光美』であると言われるようになる。
そんなムードにあった1962年 9月 30 日、人民日報に一枚の写真が掲載される。スカルノ夫人の中国訪問に際しての歓迎会で、江青が毛沢東夫人として始めてその謎の姿を公にしたのである。江青 48 歳、新たな戦いの前触れであった。 それから間もなく、江青は上海に姿を現わす。彼女はここで、マスコミを中心に人材を集め、後の4人組の元になる『張春橋』『姚文元』等の上海グループを結成する。その上に当時の国防大臣に当たる国防部長『林彪』の家をしばしば訪問している。
これらは、毛沢東の策謀が動き出した兆候である。表舞台から追われていた毛沢東は、江青の上海グループと林彪の軍人グループを味方に付けて、最大の敵となった劉少奇と登小平の追い落としを計っていたのである。神格化された毛沢東のやる事としては余りに次元が低いが、これが中国を破滅に近い動乱に導くことになるのである。
1965年 11 月 10 日の上海、この日、新聞に発表された論文が全ての始まりであった。それは、劉少奇が絶賛した歴史劇『海瑞罷官』を徹底的に批判した物であった。この歴史劇が毛沢東を批判しているとして、党の中央を攻撃したのである。この江青のあげた革命の狼煙に林彪が応え、扇動された全国の学生が紅衛兵となって一斉蜂起し、文化大革命が始まってしまった。この日、江青は党の要人として始めて天安門の上に立ち、党の序列でも 24 位に初登場する。こうして彼女は解き放たれた馬のように文化大革命の嵐の野を駆け始めたのである。江青 52 歳になっていた。
[2]生い立ち
江青は、山東省・諸城県の小さな町で、1914年 3月に木工所を営む李徳文・李欒氏の間に『李進孩』として生まれる。父の李徳文は仕事もせず、酒を飲んでは暴れる乱暴者であった。母は江青を連れて家を出る。この日から母子二人の浮き草のような暮らしが始まる。終生、江青が猜疑心を持って世の中に反抗的に接するのは、このような幼児体験が原因と見られる。江青親子が辿り着いたのは、諸城市である。母の李欒はこの町の大地主・張家の家政婦として住込みで働くことになる。実は江青は、この張家にいるときに、後に彼女の人生に大きな影響を持つ或る人物と出会っている。それはこの張家の次男で、二十代の若さで小学校の校長をしていた『張少郷』である。この人物こそ、後に『康生』と名乗り延安での彼女の毛沢東との結婚を強引に承認させた男である。彼女は延安で康生に会わなければ毛沢東と結婚できなかった訳であるから、彼女にとって最も重要な人物であったと言える。
この後、張少郷は校長を辞めてモスクワに留学し、江青も小学校を卒業したのを機に、諸城の町を後にし、1928年には、母と共に山東省・済南に来ていた。この町で彼女は一つの新聞広告を目にする。それは山東省教育庁の出した演劇学校の生徒募集の広告であり、学費免除と書かれていた。それには、彼女が躊躇する何物も無かった。こうして彼女は 15 歳で山東省・演劇学校に入学する。
この演劇学校で、彼女は西洋音楽を始め京劇から新劇に至るあらゆる芝居の勉強に励んでいる。この頃の名前は『李雲鶴』である。ここで彼女が『演じる』と言うことを学んだのは、その後の人生に大きな力となっていく。
1931年、演劇学校を卒業した彼女は青島大学の図書館に勤務しながら、演劇の勉強を続ける。やがて彼女は、この大学で物理学を学ぶ学生と恋に落ち、小さなアパートで一緒に生活をするようになる。この学生は『兪啓威』と言い、青島大学で共産主義の運動を指導する地下組織のメンバーであった。当然の事ながら彼女も兪啓威の影響で共産主義の運動に参加するようになり、1933年 2月には、共産党に入党する。しかし、その直後、兪啓威は国民党の共産主義者弾圧によって逮捕されてしまう。国民党の手は、彼女にも忍び寄っていた。そして上海に逃げた彼女は、間もなく兆豊公園(現中山公園)で逮捕される。
国民党の尋問は苛烈であり、共産党に入って間もない女の身では抵抗仕様もなかった。
こうして江青は、後に長くその存在を恐れる事になる共産党を裏切る書類に署名してしまう。彼女が上海で李雲鶴から『藍嬪』と改名することになったのは、この逮捕、署名と言う事実を隠すためであった。
後年の江青にとって、この書類が見つかれば、彼女は全てを失うことになるので、絶対に消し去らねばならない過去でもあった。文革がはじまって間もなく、彼女は一通の極秘文書を受けとる。それは公安部の康生から送られてきた物で、『要件即呈・絶秘』と書かれ全ての書類は送ったとメモがあり、その中には彼女が最もその存在を恐れていた書類が入っていた。こうして江青の過去は消し去られ、江青と康生の二人は、文革の中、権力への階段を上り始める。康生は特務機関のボスとなっており、党の要人たちの全ての情報を掴んでいた重要人物であり、江青が幼年期を過ごした張家の次男・張少郷の成長した姿であった。
[3]狂気の奔走
1967年に入ると、文革は一層その激しさを増し、街角では子供が大人を、広場では労働者が共産党幹部を、過去の権威その物を罪として責め立てた。そして遂に元国家主席、劉少奇迄がその迫害の矢面に晒されたのである。1969年 11 月 12 日、劉少奇は迫害の中で手当ても受けられずに病死する。
その頃、江青は密かにある計画を実行していた。文革で迫害され殺された映画関係者の追悼名簿があるが、この中に驚くべき事実が隠されている。獄死した映画監督の『章泯』は江青が不倫騒ぎを起こした舞台演出家であり、映画俳優三組の合同結婚式をやった人達もフランスへ移住していた江青の夫・唐納を除く全ての出席者が、文革で獄死、入獄、迫害自殺、となっている。上海で迫害を受けたのは、映画関係者ばかりではなく、1968年3 月保育園の賄い婦をしていた元江青の友人で、アルバムを贈った『秦桂貞』も逮捕され、衰弱死寸前で釈放されるまで、 7年 2か月の獄中生活という飛んでもない返礼をされる。
こうして過去を消し去った女・江青は、文革の中で夫の毛沢東も驚く活躍を見せる。特に人々を唸らせたのは、彼女の巧みな演説である。彼女はその才能を生かし、1970年には、毛沢東、林彪、周恩来、康生に次いで、党内順位5位の実力者になる。
この頃、江青は多くの音楽映画を作っている。しかし、それらには或る作意があった。これらの映画で活躍するのは全て女性で、才能さえあれば男子以上の活躍ができることを強調している。既に彼女の心の中である欲望が膨らみ始めていた。実は毛沢東が、1974年頃から不治の病に罹っている事が首脳部の間で分かって居た。彼女はこの機にポスト毛沢東を狙ったのである。しかしこの頃、彼女を影で支えて来た、掛け替えのない人物・康生が膀胱ガンで 77 歳で亡くなり、彼の死によって彼女は、党内順位は3位に上がるが、江青は女帝になろうとしていると言う批判が、党幹部の間でも囁かれるようになる。
1976年 1月 8日、国民に最も愛された政治家・周恩来が康生と同じく膀胱ガンで 77 歳で亡くなり、彼女の順位は、いよいよ第二位となる。
しかし、周恩来の死を聞いた毛沢東は、自らの後継者ともなる首相として指名したのは、江青ではなく、『華国峰』であった。
毛沢東も、勿論江青が自分の後継者のなろうとしていることは、十分に承知であったが、彼女には主席としての能力も人格も欠けていると判断したのである。
1976年 9月 9日、中国の赤い星と言われた毛沢東が、心不全で 82 年の生涯を終えた。その葬儀の時、彼女は偉大な毛沢東を継ぐのは、華国鋒では無く、4人組である事を誇示し自らは女帝となることを夢見ていたのである。4人組は『王洪文』『張春橋』『姚文元』の三人と江青である。
しかし彼女の自信とは裏腹に、国民は既に十年に及ぶ文革には、嫌気が差していたのである。毛沢東の国葬の数日後、中南海で或る秘密の会合が持たれた。出席者は、華国鋒と軍部の『葉剣英』である。ここで華国鋒は既に国民の支持を失っている文革を終結させるため、軍部の応援を要請したのである。
1976年 10 月 6日、軍部に支持された華国鋒によって、江青を始めとする4人組が逮捕される。この逮捕を伝える人民日報は『喜べ、4人組が逮捕された』との見出しを付け、国民の歓迎を受けた。
それから 4年後の1980年 11 月、中国全土が注目する中、江青の裁判が始まる。この裁判中での彼女の驚くべき姿は、全世界に放映され見るものを唖然とさせた。そして3か月後の1981年 1月 25 日、判決の日を迎え『被告・江青を死刑とする。但しその執行は猶予する』と言う裁判長の声が法廷に響く。この時も彼女は凄まじい暴言を吐き、衛視に連れ出されたのを世界中が目撃した。江青を演じ続けた女優の最後のパフォーマンスであった。
1991年 5月 14 日、江青は軟禁されていた北京の自宅で首を吊って自殺した。 77 歳。
葬り去った暗黒の過去
[1]なぞの空白時間
謎に包まれた女帝・江青、その江青が、『藍嬪ランピン』と呼ばれた21歳の女優時代に、友人の『泰桂貞』と暮らしたアパートが、上海に残っている。この四畳半にも満たない薄暗い小さな部屋で、江青は何を夢見、何を見つめていたのであろうか?
そんな藍嬪に降って湧いたような幸運が訪れる。1935年 6月 27 日、上海を代表する劇場の金城大戯院で、イプセンの『人形の家』の主役ノラの役を掴んだのである。こうして女優として認められて間もなく、彼女は、1936年 4月 26 日、杭州・六和塔で行われた映画俳優三組の合同結婚式の花嫁の一人となっていた。相手の『唐納』は当時の上海で最も人気のあった映画評論家である。しかし、この二人は性格が合わず、喧嘩が絶えなかったが 6月に、その二人の間に事件が起きる。唐納が離婚問題に悩んで自殺未遂事件を起こしたのである。こうして二人のスキャンダルは、上海中の話題となる。しかもその唐納の自殺未遂事件が覚めやらぬ内に、今度は藍嬪が、妻子ある舞台演出家『章泯』と不倫事件を起こし世間を騒がせる。こうしてスキャンダル女優のレッテルを貼られた藍嬪には、仕事など無く、彼女は上海を離れる。この時、友人の『泰桂貞』は、記念にアルバムを贈り、藍嬪もそのお礼は必ずすると誓った。このアルバムは、後に秦桂貞が彼女から思わぬ恩返しを受ける元になる。
1937年 8月、当時中国共産党の一大本拠地であった陝西省・延安に女優・藍嬪がその姿を現す。彼女は上海時代の暮らしから立ち直ろうとして、延安行きを決めたのである。過去を清算し、革命に生きると言う覚悟の現れなのか、この土地の宿舎の名簿に、自らの名前を『江青』と記している。『青は藍より出でて、藍より勝る』によって改名することにより、新たな自分を見つけようとしたのである。
延安時代の江青を知る共産党女性幹部の『徐明清』の証言では、彼女は延安の『魯迅芸術学院』で自ら京劇を演じ、生徒たちに指導する日々を送っていた、明るい美しい女性であったという。
そんなある日、彼女は京劇を見にやってきた一人の人物と運命的な出会いをする。それは中国共産党の若き指導者・毛沢東( 44 歳)であった。やがてこの二人の交際が、延安の女性幹部の間で取り沙汰されるようになる。当時の毛沢東には、モスクワで病気療養中の三番目の妻『賀子珍』がいたからである。確かに賀子珍と毛沢東の仲は最悪で離婚寸前ではあったが、女性幹部たちはこの交際には反対であった。何故なら、幹部たちには、既に江青の上海時代の悪い噂が伝わっていたからである。しかし、周囲の反対にも関わらず二人の交際は止まなかった。
この問題は遂に、共産党の幹部会議の議題にもなる。スキャンダル女優のイメージが党の印象を悪くするとして反対するものが大多数であった。ところが公安の責任者の『康生』が二人の結婚を強引に支持し、条件付きで認めてしまった。
『法三章』となずけられたその条件とは、次ぎのような物である。 (一)正式な離婚が成立するまで江青は『毛沢東夫人』とは呼ばれない。 (二)江青の仕事は、毛沢東の身の回りの世話をすることで、これより二十年 の 間、いかなる党の仕事にも就く事は出来ない。
(三)これは特別の措置であり、今後、決して同じような要求は受け入れ
られな い。
こうして運命の二人は結婚する。毛沢東 45 歳、江青 24 歳であった。結婚三年後、二人の間には長女『李納』が生まれ、当初は結婚に反対していた幹部たちも、彼女の献身的な生活ぶりに次第にその思いも消え、見直されて行く。そこには妻の役を必死に演ずる江青の姿があった。
1949年 10 月、中華人民共和国が建国される。その華やかな式典の映像に毛沢東夫人江青の姿を見ることは出来ない。建国以来毛沢東は、新しい中国の指導者として中国全土を巡っているが、これらにも何時も毛沢東一人が映像に写り、決して毛沢東夫人が登場することはなかった。国民は江青の名前すら知らなかったのである。
江青は、この頃、中国共産党幹部が居住する地区、北京の『中南海』の奥で、籠の鳥のようにひっそりと暮らしていた。既に衰え始めた容貌を隠すように、外国から送られてくる化粧品を使い、酷い近眼にも拘わらず決して眼鏡を使用しなかった。
その頃中国では、女性たちが積極的に党の活動や、政治の舞台で活動するようになっていた。その代表が、孫文未亡人の『宋慶齢』と周恩来夫人の『登穎超』である。しかし江青にも隠された顔があった。それは実名も出さずに、目立たない形で毛沢東の耳となり、手先として、スパイ活動をしていたのである。
1958年 5月 5日、毛沢東は 15 年でイギリス経済に追いつこうと言う『大躍進政策』を、第八回全国代表会議で発表する。しかし、この急激な農業改革は1959年に、天候不順も重なって国内に大飢饉をもたらし、農民たちは木の根までを食べ尽くしたと言う。この飢饉での全土の餓死者は 2.000万人と推定される。
これによって窮地に立たされた毛沢東は、国家主席を辞任し、『劉少奇』が国家主席の座に座ることになる。国民は劉少奇の国家主席就任を歓呼の声で迎え、こうして中国は、実権派と言われる劉少奇と党中央総書記の登小平らが政治の実権を握るようになる。
国家主席となった劉少奇は、積極的な外交路線を展開、各国を歴訪し、やがて中国を代表する顔は、劉少奇と夫人の『王光美』であると言われるようになる。
そんなムードにあった1962年 9月 30 日、人民日報に一枚の写真が掲載される。スカルノ夫人の中国訪問に際しての歓迎会で、江青が毛沢東夫人として始めてその謎の姿を公にしたのである。江青 48 歳、新たな戦いの前触れであった。 それから間もなく、江青は上海に姿を現わす。彼女はここで、マスコミを中心に人材を集め、後の4人組の元になる『張春橋』『姚文元』等の上海グループを結成する。その上に当時の国防大臣に当たる国防部長『林彪』の家をしばしば訪問している。
これらは、毛沢東の策謀が動き出した兆候である。表舞台から追われていた毛沢東は、江青の上海グループと林彪の軍人グループを味方に付けて、最大の敵となった劉少奇と登小平の追い落としを計っていたのである。神格化された毛沢東のやる事としては余りに次元が低いが、これが中国を破滅に近い動乱に導くことになるのである。
1965年 11 月 10 日の上海、この日、新聞に発表された論文が全ての始まりであった。それは、劉少奇が絶賛した歴史劇『海瑞罷官』を徹底的に批判した物であった。この歴史劇が毛沢東を批判しているとして、党の中央を攻撃したのである。この江青のあげた革命の狼煙に林彪が応え、扇動された全国の学生が紅衛兵となって一斉蜂起し、文化大革命が始まってしまった。この日、江青は党の要人として始めて天安門の上に立ち、党の序列でも 24 位に初登場する。こうして彼女は解き放たれた馬のように文化大革命の嵐の野を駆け始めたのである。江青 52 歳になっていた。
[2]生い立ち
江青は、山東省・諸城県の小さな町で、1914年 3月に木工所を営む李徳文・李欒氏の間に『李進孩』として生まれる。父の李徳文は仕事もせず、酒を飲んでは暴れる乱暴者であった。母は江青を連れて家を出る。この日から母子二人の浮き草のような暮らしが始まる。終生、江青が猜疑心を持って世の中に反抗的に接するのは、このような幼児体験が原因と見られる。江青親子が辿り着いたのは、諸城市である。母の李欒はこの町の大地主・張家の家政婦として住込みで働くことになる。実は江青は、この張家にいるときに、後に彼女の人生に大きな影響を持つ或る人物と出会っている。それはこの張家の次男で、二十代の若さで小学校の校長をしていた『張少郷』である。この人物こそ、後に『康生』と名乗り延安での彼女の毛沢東との結婚を強引に承認させた男である。彼女は延安で康生に会わなければ毛沢東と結婚できなかった訳であるから、彼女にとって最も重要な人物であったと言える。
この後、張少郷は校長を辞めてモスクワに留学し、江青も小学校を卒業したのを機に、諸城の町を後にし、1928年には、母と共に山東省・済南に来ていた。この町で彼女は一つの新聞広告を目にする。それは山東省教育庁の出した演劇学校の生徒募集の広告であり、学費免除と書かれていた。それには、彼女が躊躇する何物も無かった。こうして彼女は 15 歳で山東省・演劇学校に入学する。
この演劇学校で、彼女は西洋音楽を始め京劇から新劇に至るあらゆる芝居の勉強に励んでいる。この頃の名前は『李雲鶴』である。ここで彼女が『演じる』と言うことを学んだのは、その後の人生に大きな力となっていく。
1931年、演劇学校を卒業した彼女は青島大学の図書館に勤務しながら、演劇の勉強を続ける。やがて彼女は、この大学で物理学を学ぶ学生と恋に落ち、小さなアパートで一緒に生活をするようになる。この学生は『兪啓威』と言い、青島大学で共産主義の運動を指導する地下組織のメンバーであった。当然の事ながら彼女も兪啓威の影響で共産主義の運動に参加するようになり、1933年 2月には、共産党に入党する。しかし、その直後、兪啓威は国民党の共産主義者弾圧によって逮捕されてしまう。国民党の手は、彼女にも忍び寄っていた。そして上海に逃げた彼女は、間もなく兆豊公園(現中山公園)で逮捕される。
国民党の尋問は苛烈であり、共産党に入って間もない女の身では抵抗仕様もなかった。
こうして江青は、後に長くその存在を恐れる事になる共産党を裏切る書類に署名してしまう。彼女が上海で李雲鶴から『藍嬪』と改名することになったのは、この逮捕、署名と言う事実を隠すためであった。
後年の江青にとって、この書類が見つかれば、彼女は全てを失うことになるので、絶対に消し去らねばならない過去でもあった。文革がはじまって間もなく、彼女は一通の極秘文書を受けとる。それは公安部の康生から送られてきた物で、『要件即呈・絶秘』と書かれ全ての書類は送ったとメモがあり、その中には彼女が最もその存在を恐れていた書類が入っていた。こうして江青の過去は消し去られ、江青と康生の二人は、文革の中、権力への階段を上り始める。康生は特務機関のボスとなっており、党の要人たちの全ての情報を掴んでいた重要人物であり、江青が幼年期を過ごした張家の次男・張少郷の成長した姿であった。
[3]狂気の奔走
1967年に入ると、文革は一層その激しさを増し、街角では子供が大人を、広場では労働者が共産党幹部を、過去の権威その物を罪として責め立てた。そして遂に元国家主席、劉少奇迄がその迫害の矢面に晒されたのである。1969年 11 月 12 日、劉少奇は迫害の中で手当ても受けられずに病死する。
その頃、江青は密かにある計画を実行していた。文革で迫害され殺された映画関係者の追悼名簿があるが、この中に驚くべき事実が隠されている。獄死した映画監督の『章泯』は江青が不倫騒ぎを起こした舞台演出家であり、映画俳優三組の合同結婚式をやった人達もフランスへ移住していた江青の夫・唐納を除く全ての出席者が、文革で獄死、入獄、迫害自殺、となっている。上海で迫害を受けたのは、映画関係者ばかりではなく、1968年3 月保育園の賄い婦をしていた元江青の友人で、アルバムを贈った『秦桂貞』も逮捕され、衰弱死寸前で釈放されるまで、 7年 2か月の獄中生活という飛んでもない返礼をされる。
こうして過去を消し去った女・江青は、文革の中で夫の毛沢東も驚く活躍を見せる。特に人々を唸らせたのは、彼女の巧みな演説である。彼女はその才能を生かし、1970年には、毛沢東、林彪、周恩来、康生に次いで、党内順位5位の実力者になる。
この頃、江青は多くの音楽映画を作っている。しかし、それらには或る作意があった。これらの映画で活躍するのは全て女性で、才能さえあれば男子以上の活躍ができることを強調している。既に彼女の心の中である欲望が膨らみ始めていた。実は毛沢東が、1974年頃から不治の病に罹っている事が首脳部の間で分かって居た。彼女はこの機にポスト毛沢東を狙ったのである。しかしこの頃、彼女を影で支えて来た、掛け替えのない人物・康生が膀胱ガンで 77 歳で亡くなり、彼の死によって彼女は、党内順位は3位に上がるが、江青は女帝になろうとしていると言う批判が、党幹部の間でも囁かれるようになる。
1976年 1月 8日、国民に最も愛された政治家・周恩来が康生と同じく膀胱ガンで 77 歳で亡くなり、彼女の順位は、いよいよ第二位となる。
しかし、周恩来の死を聞いた毛沢東は、自らの後継者ともなる首相として指名したのは、江青ではなく、『華国峰』であった。
毛沢東も、勿論江青が自分の後継者のなろうとしていることは、十分に承知であったが、彼女には主席としての能力も人格も欠けていると判断したのである。
1976年 9月 9日、中国の赤い星と言われた毛沢東が、心不全で 82 年の生涯を終えた。その葬儀の時、彼女は偉大な毛沢東を継ぐのは、華国鋒では無く、4人組である事を誇示し自らは女帝となることを夢見ていたのである。4人組は『王洪文』『張春橋』『姚文元』の三人と江青である。
しかし彼女の自信とは裏腹に、国民は既に十年に及ぶ文革には、嫌気が差していたのである。毛沢東の国葬の数日後、中南海で或る秘密の会合が持たれた。出席者は、華国鋒と軍部の『葉剣英』である。ここで華国鋒は既に国民の支持を失っている文革を終結させるため、軍部の応援を要請したのである。
1976年 10 月 6日、軍部に支持された華国鋒によって、江青を始めとする4人組が逮捕される。この逮捕を伝える人民日報は『喜べ、4人組が逮捕された』との見出しを付け、国民の歓迎を受けた。
それから 4年後の1980年 11 月、中国全土が注目する中、江青の裁判が始まる。この裁判中での彼女の驚くべき姿は、全世界に放映され見るものを唖然とさせた。そして3か月後の1981年 1月 25 日、判決の日を迎え『被告・江青を死刑とする。但しその執行は猶予する』と言う裁判長の声が法廷に響く。この時も彼女は凄まじい暴言を吐き、衛視に連れ出されたのを世界中が目撃した。江青を演じ続けた女優の最後のパフォーマンスであった。
1991年 5月 14 日、江青は軟禁されていた北京の自宅で首を吊って自殺した。 77 歳。
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