クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

戦後の闇・M資金の謎

2009年02月23日 | 日本関連
M資金の謎
                戦後日本の闇
[M資金と言う亡霊]
1949年、ロッキード事件発生、元総理大臣・田中角栄の逮捕まで発展し、日米の政財界を揺るがした戦後最大の疑獄事件、その発端は全日空・大庭社長の突然の解任劇であった。そしてその背後には、『M資金』を餌にした大掛かりな詐欺事件があった。大庭は国会の証人喚問で、再燃したM資金の存在を供述している。新聞には『大庭社長の退陣、三つのM資金が絡む』『M資金、大庭氏の独断』と言う文字が躍る。国会でも取り上げられたこの秘密資金こそが、戦後の混乱期に闇に消えたと噂されるM資金である。
敗戦が色濃くなった戦争末期、不足する物資を補うため、日本政府は国民から各種物資を供出させている。そして戦争遂行のために掻き集められたのは、家庭用の鍋・釜から寺院の釣り鐘に至るまで、徹底したものであった。こうした物の中には、膨大な量の貴金属・ダイヤも含まれていた。しかし、これらは終戦と共に隠匿され、その多くが闇に消えてしまったのである。
終戦後、連合国総司令部GHQは、日本国内に隠匿されていた相当数の貴金属を押収している。この任務の責任者は、GHQの経済科学局長ウイリアム・マーカット少将である。この押収された貴金属の一部が秘密資金となり、MARQUATの頭文字を取って『M資金』と言われるのである。
長い事、M資金の話はタブーとされて来たが、日本の政財界では、ずっと囁かれている。そしてその名が、時として世間を震撼させる詐欺事件として闇の中から姿を現すときが ある。日本を代表する一流企業の幹部たちまでもが、M資金を名乗る詐欺師逹の罠に落ち墓穴を掘ったほど、それには存在感があった。紙面を賑わしたものの中には『M資金、富士鉄への斡旋話』『ツムラ前社長、大型経済事件で逮捕』『日産副社長M資金話で辞任』『大日本インキ社長、M資金に乗せられる』『丸善石油、M資金にひっ掛かる』などがある。                             これらの裏には、戦後の混乱期で闇の彼方に消えてしまった膨大な財宝の存在がある。
1945年、米軍によって接収され、管理された大量のダイヤモンド、更に1946年、東京湾・越中島の運河から米軍によって引き上げられた途方もない数量のプラチナ・インゴット、そのいづれもが、その後の処理を巡り、多くの疑惑と謎を残したのである。今日に伝えられるのは、これらの消えた財宝がM資金になったのではないか?と言う噂である。戦後の日本史には多くの暗黒がある。松川事件、帝銀事件、下山事件など、決して解明されることのなかった事件、そんな闇の中で増殖を続けてきて亡霊がM資金である。

M資金詐欺として、典型的な事件が1993年に名古屋で起きている。不動産業を営むA氏は 60 億の負債を抱えて、新たな融資元を探していた。取引先の銀行の支店長が、A氏に東京のある人物を紹介する。都内某所の一流ホテルでTと言う会長と呼ばれる人物に会う。Tは、自分は秘密組織のナンバー2であり、その組織には 200兆円のM資金があるといっていとも簡単に60億の無利子の融資を承知する。Tは『大蔵省還付金』と記され、70億の金額の入った預金通帳を見せ、条件とされた 3% の印紙税 1億 8千万を要求する。A氏はその金を工面しT氏に渡すが、約束の融資が実行されることはなかった。
背後に大蔵省や秘密組織の存在を臭わせ、巨額融資話を持ち掛けて、手数料・印紙代を騙し取るのが、そのやり口である。表の金でないために、被害届けが出されないところも詐欺師逹の付け目である。但しこの例では、当人の告発でTは逮捕されている。この類いは跡を絶たず、警視庁捜査二課の調べでは、M資金関係のブローカーは全国に六万人もいると言う。俳優の田宮次郎の自殺事件にも、このM資金が関係したと当時のマスコミが、大々的に報じている。テレビでも馴染みの顔である『高野孟』は、実際に取材を重ね『M資金』と言う著書を著したが、その彼も多くの作り話の中に実際にこの資金が動いて、ある企業に入ったとしか思えない動きを、状況証拠的ではあるが掴んでいると証言している。
[運河からの金塊引き揚げ]
1945年 8月 15 日を境に、日本の全ての権力は連合国軍GHQに移された。政治も経済もかってない混乱期を迎え、極端な物不足は日本人の日々の生活を圧迫する。しかし、戦時中に蓄えられていた軍需物資は、国内各所に隠匿され、極く一部の闇ブローカーの財産となっていた。マーカット率いるGHQ経済科学局は、これらの物資を押収し、管理下に置くことを第一の任務とした。そのマーカットのところに、驚くべき情報が寄せられたのは1946年 4月の頃である。東京江東区越中島に今も残る旧日本陸軍糧秣廠には、戦時中には日本軍管理の大量の物資が集積されていた。1945年 8月24日、旧日本軍の将兵逹によってここから運び出される大八車の列が続いていた。その荷台に積まれていたのは、途方もない量のブラチナ・インゴットである。兵士たちは米軍の来る前に、これらのインゴットを運河に投棄して隠匿したのである。この話をGHQに持ち込んだのは複数の日本人で、投棄をした兵士から聞いたと言う。彼等は時価の二割の報償金を貰う条件で投棄場所の地図をGHQに渡した。この情報でGHQは、すぐさま引上げを開始し、日本のニュース映画もその詳細を伝えた。この時引き上げられたのは、プラチナ 45 ㌔×1.200 本、金塊 4.5㌔× 300本である。現在の評価額で900 億円をこえる。しかし、この直後から事態は奇妙な方向に向かう。情報を提供し報償金を当てにしていた者たちは、突然GHQ検事局に連行され、そこで彼等を待っていたのは、報償金どころか過酷な拷問であった。米軍が追及したのはこれら金塊の出所であった。以後、この金塊の行方は、忽然と消えてしまったのである。
金塊引き上げの情報提供に関わった者逹が、『金塊返還利益請求有志会』を作り、以後二十数年間に亘り自分たちの正当性、情報提供に対する報償金の支払いを求めて訴え続けていた。しかし、日本政府も米国政府もいずれも『金塊引き上げの事実はない』と言う回答であった。この問題は後に、1950年の日本の国会で取り上げられたことがある。この時の政府答弁は、引き上げたのは『銀』であり、金ではないと言うものであった。そしてその国会答弁の僅か三週間後、当時の大蔵大臣・池田勇人は、答弁を豹変させて、『引き上げられたのは、金塊が 5億、銀塊が 20 億、略奪品としてオランダに返還した』と言ったが後にこの発言は、賠償庁の記録から事実でないことが判明し、政府も間違いを認める。 これ以後、国会の場で、消えた金塊の行方が取り沙汰される事は、二度と無かった。
ただ、明らかなのは1946年 4月、運河から大量の金塊が引き揚げられ、日米両政府とも、この事実を葬り去ろうとしたことである。                  [ダイヤモンドの行方]                            更にこれらの金塊以外にも、戦時中に集められた旧日本軍の管理物資の行方に関しては、不透明な部分が多い。その中で金塊と並び、多くの謎を残したのは、GHQに押収され、管理されることになっていた膨大なダイヤモンドである。
1966年 10 月 28 日、日本中のデパート、貴金属店の前に夜を徹して並ぶ長蛇の列があった。その目的はダイヤモンド、GHQの管理下にあった接収ダイヤは、講和条約発効後に日本に返還されていたが、10月 29 日、それを大蔵省が一般に放出したのである。
この放出に先だって日本政府が発表した返還ダイヤの数量は『161.000 カラット』、だがこの数字は多くの疑問を呼んだ。
占領下の日本で、マーカット以下の経済科学局は、日本の金融・経済の完全掌握を目指した。その手始めは、日本銀行管理であり、1945年 9月 30 日の夜半、突如として装甲車と武装した米兵が、日銀を取り囲んだ。渋沢総裁以下の幹部たちが急遽呼び出され、責任者のクレーマー大佐は、日銀をGHQの管理下に置くことを一方的に宣言する。マーカットの次ぎの狙いは日本軍の隠していたダイヤであった。実は日本は1944年 8月 15 日から  12 月 15 日の期間で、工業用のダイヤの不足を補うために、国民からダイヤの買い上げをしていた。この結果は政府の予想を大きく上回る好成績で、軍需省は国民への感謝の談話として目標の 9倍の成果と発表している。
しかし、こうした国民の犠牲も空しく既に戦いの趨勢は決まっていた。国民に負担を掛けたダイヤは、その殆どが使われること無く残された。この残されたダイヤは、旧軍需省が管理し、三井信託銀行本店の地下金庫室に密かに保管された。そして1945年 10 月 18 日に、この情報を握った米軍によって地下金庫室が急襲される。このダイヤは、日銀内の米軍管理の金庫室に運び込まれた。
現在、米国で公開された公式文書に、日付の違う三枚の貴金属明細表の存在が明らかになっている。これは米軍管理下の日銀金庫室の宝石明細書である。そこに示されているダイヤの数量に大きな疑問がある。
1947年 11 月 28 日付の文書には『321.366.64カラット』とあるものが、1949年
12 月15 日付では『287.333.95カラット』に変わり、更に1950年 12 月 31 日付では、なんと『161.840.42カラット』となっている。驚くべき事に数年の間に、ダイヤは約半分になっているのであるが、その説明は一切為されていない。この闇に葬り去られたものが、M資金と呼ばれ、詐欺師逹を生む温床となったのである。
[政治家の抵抗]
終戦直後、隠匿物資の謎に敢然と戦いを挑んだ政治家がいる。自由党衆議院議員・『世耕弘一』である。当時彼の回りに多くの人が集まって活動したので彼等は『世耕機関』と呼ばれた。世耕機関は終戦によって日本各地に隠匿された旧日本軍管理物資の徹底的な摘発である。これらの物資を戦後の経済復興に充当しようと考えた彼は、集めた隠匿物資を国民に放出した。この世耕が最も心血を注いだのが、隠匿ダイヤの謎であった。しかし、謎に迫った彼の前に途方もない壁が立ち塞さがった。
1947年 2月 14 日、当時、内務政務次官であった彼は『隠退蔵物資等処理委員会』を設置し、副委員長に就任する。日本各地に隠匿されていた物資の量は、摘発を続ける世耕の予想を遥かに越えていた。日用品から貴金属に至るまで、不足している筈のありとあらゆるものが姿を現したのである。だが、こうした世耕機関に対して尾行とか、摘発妨害という有形無形の妨害が始まる。その最中、彼の元に日銀地下金庫の膨大な接収ダイヤの情報がもたらされる。1947年 3月 30 日のことである。事の重大さに彼は直ぐに日銀に連絡し、現場に出向く。しかし、このとき彼は、日銀のダイヤが米軍の厳重な支配下にあることを未だ知らなかった。彼が日銀に乗り込んだ時、既に金庫の中は空であった。ダイヤは同じ日銀内にある米軍管理の金庫に移されていたのである。そしてその翌日の 3月 31 日、彼の元に、皇室の宝冠の在処を知っているという男の情報が入る。それは戦時中の貴金属供出の際に、国民に範を示すためと、皇室も貴金属の多くを供出していた物の一つである。終戦の混乱の中、その皇室の宝冠も忽然と姿を消していたのである。その情報では、宝冠は、神奈川県・保土ヶ谷の山中に埋められていると言うのである。彼はすぐさま、優秀な調査員を保土ヶ谷に派遣するが、それ以後、その調査員が世耕の前に再び姿を見せることは二度と無かった。この事態に彼は、これは何かの警告であると受け止めた。その二日後の 4月 2日、彼の許を旧軍需省の関係者が訪れて、裏取引を申し出る。ダイヤ捜索を止めるなら、代わりにタングステンを摘発させると言うのである。彼はこの取引を拒否した。そして一週間後の4 月11日、彼は『隠退蔵物資等処理委員会』の副委員長を突然に解任される。党との折り合いが付かなかったらしいとは、彼の長男で参議院議員の政隆氏の話である。それだけではなく、4 月17日の新聞は、デマの世耕情報で、全国から手付金を取ったブローカーが摘発されたことを報じ、恰も世耕自身が詐欺を働いたかのような書き振りをした。こうしてダイヤの行方は、闇の彼方に消えていく事になる。    
日本と言う国が、GHQと言う絶対権力の下で、その意向で動かざるを得なかった時代の事である。
[米国の証言]
米国カルフォルニア州サンタモニカ、この町にM資金に付いての情報を持つ人物が存在する。ケネディー政権下で司法政務次官を務め米国連邦政府顧問弁護士会に属するノーベルト・シュライ弁護士である。彼はロバート・ケネディーの法律顧問でもあった。彼は『M資金の成立はマッカーサーの統治時代に溯る。これらは政府や政党の資金ではなく、限られた少数の人々によって現在も秘密裏に運営されている。ニクソンが副大統領の時、日本で岸信介と何回か会談をして、M資金の管理を米国側から日本側に譲る事を決めたが、その条件として日本国内でこの資金を運用し、大きくし何かの危機的な時に備える事を確認している』と証言している。確かにこの証言のように、ニクソンと岸信介の会談は事実であるが、その内容に付いて確かめる術はない。米国政府関係者の中には、このM資金に付いて知っている者が大勢いるとの事もシュライ氏は言っている。彼は米国の公文書を調べれば、何かの証拠が出てくるとも示唆した。
調査は、ワシントンに向けられた。米国では全ての公文書は原則として 25 年経てば公開されるからである。アメリカ国立公文書館にあるGHQ関連文書は10.000箱を越える。
その中からM資金と思しき箱を探り当てるのには 2か月を要した。しかしその結果、辿り着いたのは、M資金に関わり有りと思われる文書に挟まれた紙には『MISSING 紛失』と書かれていた。関係文書は紛失していたのである。 50 年以上の時を経て、戦後の闇が明らかにされることはなかったのである。
占領時代、日本はGHQの絶対権力の下で、幾多の謎と疑惑に封印をしてきた。そして繁栄と成長を続ける 50 年と言う時の陰で、封印された闇も又、増殖を続けてきた。その闇の中に生き続ける妖怪、それがM資金なのである。

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