猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

説経節新たな挑戦③

2011年10月17日 14時17分34秒 | 調査・研究・紀行

猿八座がこれまで取り組んだ説経節に「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」という外題がある。江戸孫四郎の正本であり、説経正本集第3に収録されている紛れもない「説経節」である。この「説経節」は、新潟の義太夫語りで越後角太夫と言う方が、義太夫を活用して節付けされている。BSTBSで放映もされたので、ご覧になった方もおられるかも知れない。角太夫さんは、現在、猿八座を去られているので、その後釜が私というわけである。

第4の仕事として、「弘知法印御伝記」の再演を考えているところである。10月の心萃房での稽古の帰りに、「弘智法印」様に会いに行って、この仕事にとりかかってもよいかどうかお尋ねしてきた。

これも長大な話であるが、即身成仏された「弘智法印」の奇想天外な物語である。新潟県長岡市寺泊野積、弥彦山の西山麓、日本海を望む中腹、西生寺に「弘智法印」は即身成仏として御座しておられた。(弘智堂内部写真の奥の御簾の中)

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Dscn8746 これは木像で本物ではありません。(宝物殿内)

「弘智法印」様のお許しがあれば、やがて形になることでしょう。


説経節新たな挑戦② 

2011年10月17日 12時46分31秒 | 調査・研究・紀行

この新しい挑戦は、実は現在の「越佐猿八座」との関わりの中で、与えられたと言っても過言では無い。10年以前に、西橋八郎兵衛師匠と「信太妻」をやったことがあるが、その時は、浄瑠璃である「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」を「説経祭文」にした薩摩派の台本のままに無理矢理踊ってもらった。多少「説経節」を交えた記憶もあるが、当時の私の実力では、「説経節」の章句をそのまま扱う力は無かったように思う。

しかし、西橋八郎兵衛師匠は、あくまでも「説経節」にこだわった。多分踊りにくかっただろうと、今になれば思うが、私は、薩摩派の台本の範囲、即ち「説経祭文」しか知らなかった。

今年の4月に、太夫として独立した途端に、「猿八座」の太夫に迎えられた顛末は、また別項に譲るが、初仕事がそんなにすぐに、舞い込んで来るとは予想もしていないことであった。ところが、注文は、「をくり御物絵巻」(東洋文庫に収録)の第12から第13にまたがる「車曳き」の部分であった。プロになった以上は、「それは、薩摩派にはありません。」などど言うこともできない。なんとか、初仕事を物にしなければならない。

期間は二週間しかなかった。つまり、ピンチヒッターとしての起用だったのである。

思えば、この仕事が、200年前の「説経祭文」から、400年前の「説経節」へと、視野を広げる第一歩だった。取りあえず、できることは、「祭文」の節で、「説経」を組み立てることであった。前述の通り、これはなかなか手強い仕事で、「祭文」の節に、五七調ではない文句を当てはめていくと、必ず、字余りや字足らずが発生する。「説経」の章句をできるだけ忠実に再現するためには、「節」を改造しなけらばならない。

いままでは、「説経祭文」の節に忠実で、当てはまらない文句を多少なりとも加工し、同様の内容を表現しようと試み、苦労ばかり多く、駄作に落ちていたことがあったが、この仕事は、「説経節」の章句に忠実で、「節」を工夫することを強要した。しかし、発想を変えただけで、道は開けた。既存の「節」にこだわることをやめた。手元の材料である「祭文」を活用しつつ、「祭文」の節を、途中で切ったり、逆に繋げたり、また、多少の作曲を交えて、自己において、初めての「説経節」を作りあげることができた。一週間で仕上げ、次ぎの一週間は、舞台稽古という慌ただしさではあったが、平成23年4月10日新潟五頭温泉郷 村杉温泉 環翠楼で
無事、「説経節をぐり」が演じられた。

次ぎの仕事は、「しのだづまつりぎつね 付あべノ清明出生」であった。これは、説経正本集には収録されず、古浄瑠璃正本集第4(角川書店)に収録された。伊藤出羽掾という浄瑠璃太夫の正本と言われているからである。残念ながら、説経正本が伝わっていないが、当時は、説経も浄瑠璃も明確な棲み分けはなかったようで、どちらの太夫も、それぞれの「節」で、説経も浄瑠璃も演じていた記録が残っている。難しい話は置いておいて、説経正本が残っていないが「信田妻」は歴とした「説経節」として認められている。

話を戻すと、2番目の仕事は、「しのだづまつりぎつね」のうち、第3を、まるごかしで「説経節」として語れるようにすることであった。この場面は、いわゆる母である狐と童子(阿倍晴明)との「子別れ」の段である。ここでも、さらに「節」の改造を試み、1時間5分というこれまでで最長の「説経節」を作り上げた。この「説経節」は今年、すでに、サハリン公演、豊田市公演で演じたことは、9月のに記事に載せてある。

これらの二つ試みが、薩摩派の台本を離れて、初めて書いた「説経節」の作品ということになったことに気が付いたのは、夏に、鳥越文庫に籠もって勉強をしてからである。

しかし、「説経祭文」の「節」の制約は、いかんともし難い。限界がある。「言葉」本意に語りたいが、「祭文」の節が邪魔をすると感じることもある。

そうした、中で、耳に届いたのは、「文弥節」であった。これまで、何度も聞いた筈の「文弥節」であったが、求める心が変わると、こうも響き方が違うものだろうか。古い「語り物」の形式を残す、いわば「化石」とも言える「文弥節」であるが、これは、「使える」と得心した。やがて西橋八郎兵衛師匠から、佐渡文弥節の録音データを収録したCDがごそっと届いた。8月の佐渡における「文弥節修業」は、「文弥節」をやるためではなく「説経節」を語るための「節」の研究であった。

現在、第3番目の「説経節」の仕事の取り組んでいる。、「阿弥陀胸割(あみだのむねわり)」という「説経節」である。この、「胸割阿弥陀」は、天満八太夫正本が、「説経節正本集」第3に収録されている。しかし、八郎兵衛師匠の注文は、国文研で最近公開した最古本で、慶長年間の古活字本を使用したいという。ところが、この本は、翻刻されていないので、自分たちで翻刻しなければならない。変体仮名と格闘しつつ、荒読みから始めて五ヶ月が経って、何カ所かの不明箇所を残しながらも、ようやくこの10月になって、テキストを確定し、一応の作曲が終わった。この仕事は、「祭文」と「文弥」の節を交えて、これまでの既成概念を捨てて、新たな「説経節」として構成することになった。まだ、公開の見通しどころか、演出方法も未定であるが、来年には公開できるように準備を進めているところである。かいつまんで、次ぎのような話である。

天寿、ていれい兄弟は、家の没落で袖乞いとなるが、親の供養のために、身を売ることを発心したところ、とある長者の息子松若の病気を治すために、その「生き肝」を買われるという話である。なんとも、説経ならではのグロなストーリーであるが、最後は、阿弥陀如来が身代わりとなり、生き肝をえぐられた天寿は蘇生し、松若と結ばれ、ハッピーエンドとなる。実に説経らしい「説経節」である。この演目が400年前に演じられている「絵」が残っている。このような説経節を人形操りとして、現代に蘇らせることが、「説経節」に賭けた、私の後半生の仕事になるのだなと、自分の仕事がようやく、はっきりと見えて来た気がする。